第54話 先輩の誕生日(1)

 力の抜けた杏樹あんじゅの前に、とん、とお盆が差し出される。

 お盆には、上が透明で下が濁ったスープと、ご飯とお漬け物が載っていた。

 それと氷水も。

 「はい?」

 顔を上げた杏樹に、つんさんが笑いかける。

 カウンターの向こうから。

 「さっき頼んだつくね汁。ご飯はお茶漬けにしてもいいから」

 もういちど、笑う。

 「それともおなかまだ足りない? だったらなんでも作るけど」

 つん子さんはさばさばと言った。

 「あ、いえ」

 ほんとうは、自分がおなかいっぱいなのか、まだまだ入るのか、食欲があるのかないのかもわからない状態なのだが。

 「じゃ、いただきます」

 大きいお椀に入ったつくね汁を吸う。

 温かさが胸からおなかへとじわっと広がる。

 さっきの重労働と、その前から飲んでいたワインとのせいで、体は十分にあったかいはずなのに。

 店のなかが明るい。カウンターの内側と、カウンターのすぐ上に照明があって、それはわりと光の強い電球色のLEDらしかった。

 あのあと、つん子さんと二人で、先輩をこの店の二階に担ぎ上げた。

 脚で暴れると危ないというので、そういうのに慣れたつん子さんが脚を持ち、杏樹は胸で先輩の上半身を支えた。

 でも、杏樹もこういう介抱はやり慣れている。その先輩といっしょにいたサークルで幹事を何度もやったおかげだ。

 今度は先輩の背中が杏樹の胸に当たる。くすぐったい。

 二階の畳の部屋に布団を敷いて、そこに先輩を寝かせた。そのままだと寒いので、ファンヒーターをつけっぱなしにしておいた。

 それでふすまを閉めて戻って来た。

 杏樹のセーターはべつに伸びていなかったけど、コートは赤ワインをかぶっていて、胸のところから背中にかけて、赤いというより黒い色に染まっている。それと腕のところも黒くなっている。

 その黒い色が斜めの楕円としまとを組み合わせた複雑な模様を描いている。

 なんて前衛的な芸術的なデザインなんだ!

 ……もし最初からそうデザインしたのだったら。

 つん子さんが手ぬぐいでしみ取りをやってくれたけれど、色がちょっと薄まっただけで、ほとんどとれなかった。

 まあ、当然だろう。

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