第53話 重めで渋くて暗い味(8)

 杏樹あんじゅのあごの下、胸のところに先輩は顔をこすりつけている。それでも鼻筋とか眉のところとかがわかるほどではなくて、胸が中途半端にくすぐったい。

 先輩は、体の後ろまで腕を回していなかった。やっぱり中途半端に肩と腕の中間をつかんでいる。

 「いや、あっ、あのっ」

 とまどったふりはするべきだと思う。

 べつにとまどってもないけど。

 セーターが伸びそうだけど、これも、まあ、いいか。

 これは高かったけど。

 箕部みのべの店で二万八千円とかした。交通費とか込みで三万ぐらい。

 でも……。

 まあ、いいか。

 先輩は、胸のところから、何度も何度も顔を上に上げようと、その両手に力をこめた。

 しかし、手に力をこめても、セーターをつかんでいるだけなので、セーターの毛糸が伸びるだけで体は上に上がらない。それでセーターをつかみ直すので、なおさら上に上がらない。

 それでもどかしくなったのか、先輩は杏樹の胸のところで顔を上に向けた。思い切り上に上げて、自分のあごをなんとか杏樹のあごにすりつける。杏樹のあごを梃子てこにして、自分の唇を届かせようとしているのだ。

 杏樹の唇に。

 杏樹は声を立てようとして、思いとどまる。

 三つの選択肢があった。

 1 「やめてください」と言う。

 2 声は立てないで、ただ拒む。

 3 受け入れる。

 直観的に「3」だな、と思う。

 先輩がここまで来たのには、杏樹にも責任がある。責任というのか、いっしょに来たといういきさつがある。一年生のときからこの瞬間まで、たったの二年だけど、いっしょに来たって過去がある。

 ならば。

 そう思った。

 でも、力が続かなかった。

 先輩のほうが。

 けんめいにい上がろうとしていた先輩の顔の頬がぴくぴくっとし、目がけんめいに杏樹の目を見上げていて、その目は黒くって、ちょっとだけ茶色が交じっていて、大きくって、そしてうるんでいて。

 その目がすうっと閉じていく。先輩の体からきゅきゅきゅっと力が失せていく。

 「ああ、危ないっ」

 このままだと先輩は椅子から床に落ちる。でも、支えようにも、先輩が杏樹の肩と腕の中間あたりをつかんでいるので、手が自由に動かせない。

 先輩の体が落ちるのが止まった。

 大きいため息に、杏樹が顔を上げる。

 つんさんが、後ろから先輩の体を抱き取っていた。

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