第52話 重めで渋くて暗い味(7)

 「森戸もりとちゃんさあ」

 杏樹あんじゅが気づいたことに、先輩は気がついたのだろうか。

 陰にこもった低い声で、嘉世子かよこ先輩が言う。

 言って、髪が乱れたまま横を向いたその顔が、この世のものではないようだ。

 「信じてないでしょ?」

 店のなかの照明が明るい。それがどんな光源かさっきまで考えなかったけど、電球色のLEDなのかな?

 とりあえず、きかれたことに答えないといけない。

 「まあ、言われた内容があんまりに突然で、なんて言うのか……」

 だいたい、結生子ゆきこさんがいるから日本史研究室に行ってはいけない、というのなら、まずそれが通らない。

 日本史研究室の先生はあの大藤おおふじ先生という先生だ。

 同じ研究室に行ったところで、三善みよしさんは三善さんの論文を書いて大藤先生に提出し、杏樹は杏樹で、仁子じんこちゃんは仁子ちゃんで、それぞれ論文を書いて、やっぱり大藤先生に提出する。

 それだけのことのはずなのに。

 「あああっ!」

 先輩はいきなり大声を立てた。そして体をのけぞらして天を仰いだ。

 「森戸ちゃんまであいつにられちゃうよぉ!」

 まあ、店のなかにはつん子さんと杏樹しかいないから、いいけど。

 でも、いまだれか別のお客さんが入って来たら……。

 「いや、その、盗られる、って、そのっ!」

 「よしみ君も、羽場はばちゃんも、森戸ちゃんまで」

 好君というのは、その、高校で片思いだったボート部の子だろうけど。

 でも羽場ちゃんってだれ?

 どこかできいた感じはあるんだけど。

 「せめて森戸ちゃんは……!」

 「ええっ?」

 いきなりだったので、逃げる暇もなかった。

 また逃げてはいけなかっただろう。

 先輩は杏樹の胸にぎゅっと抱きついていた。

 杏樹の後ろでがたんと重い音がする。赤ワインのボトルが倒れた音だ。

 先輩が、杏樹に抱きつこうと手を伸ばしたとき、ボトルをわざとグーでパンチした。

 見えていた。

 杏樹は拒まなかった。

 杏樹の後ろで、こぼれた赤ワインが杏樹のコートにみていくのもわかっていたけど、拒まなかった。

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