第51話 重めで渋くて暗い味(6)
先輩はぼろぼろ涙を流している。
おしぼりを差し出すか。
いや、入って来てすぐに手を
それなら、さっき、トイレに行って手を拭いたけど、と、ゆっくりと、カウンターの下に置いたポーチを引っ張り出す。
ハンカチを取り出して先輩の手のところに差し出す。
まあいいだろう。
先輩は
「ありがと……
先輩は途切れ途切れに言う。
杏樹はふしぎな気もちだ。
信頼してきた先輩がぼろぼろ涙を流して泣いているのに心を動かされてはいた。
でも。
それは、ぼろぼろ涙を流して泣いていることに、であって。
先輩の言っていることには、ちっとも心が動かない。
ふうん。そんなことがあったんですねぇ。たいへんでしたねぇ。
その程度だ。
そんな心地がするのは、杏樹も酔っているから?
それに。
キャバ嬢だって職業は職業だ。
尊重しなければ、と思う。
先輩が何か難しい工学の大学院生だということと同じくらいに。
それに。
さっきから、先輩から伝わって来る、この、何か違った感じは何だろう?
さらに、そのボート部の男子が好きだった女の子はどうした?
いちばん嘆くはずなのはその子じゃないか?
先輩じゃなくて……。
「だから、森戸ちゃんまであいつにだまされるんじゃないよ。あいつ、プロだからさ。演技、うまいから。どんな感情だって演じ分けられるんだから」
言って、先輩は、ばん、と、ハンカチをテーブルの上に叩きつけた。
いや、それ、わたしのハンカチなんだけど!
ホームセンターで千百円ってそんなに安い出費じゃないんだけど!
……まあ、そんな高級でも、ないけど。
杏樹は、言うかどうか、迷う。
あのひとは、感情を演じることは一度もなかった。
苦痛とか、因果とか、人間の死とか、そんな話をずっとしていただけだ。感情が高ぶってるな、と感じたところはあったけど、話の内容はそこからはずれなかった。しいて言えば、まじめになって先生をからかわなくなっただけだ。
そこで、もういちど、言おうかどうか迷う。迷って
「はっ」
と小さく息をのんだ。
違うのだ。
日本文学概論という、わけもわからないし、したがって何もおもしろくない授業が必修だった。
日本史概論は「ポン史概論」なのに日本文学概論は「日文概論」だ、ということは、どうでもいい。
ほんと、どうでもいい。
何人かの先生が順繰りで、一年間、その専門分野の授業をやる。古代とか中世とかぜんぜんわからなかったし、現代は現代でまたさっぱりわからなかったけれど、唯一、おもしろかったのが近代文学だった。
垂れ目の、顔の作りが最初からにこにこしているように見える初老の男の先生が講義してくれた。
その内容が頭を
「投影」。
文学にはそういう「技法」がある。
やっぱり、また、その一部分しか覚えていないけれど。
感情を演じているのは、
自分の感情、自分のやっていること、自分の引け目……そんなのを、嘉世子先輩は、あの結生子さんに「投影」しているのだ。
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