第46話 重めで渋くて暗い味(1)

 先輩がトイレから戻ってきて、入れ替わりに杏樹あんじゅがトイレに行く。

 トイレが古かったらいやだな、という心配は杞憂きゆうというものに終わった。

 杞憂っていうのは天が落ちてくるんじゃないかという心配のことで、それほど心配したかというと、そうでもないけど。

 それでも、天井が落ちるんじゃないか、という程度の心配をすることもなかった。

 トイレから戻ってくると、先輩が手酌てじゃくというのでボトルを傾けて最後のほうの何滴かを自分のグラスに注いでいるところだった。

 「あ、すみません」

と小さく言って先輩の横に戻る。先輩は、杏樹のほうをちらっと見てから、台所に声をかけた。

 「つんさん」

 でも、つん子さんは、そのつくね汁というのを作っていて、気がつかない。先輩が

「つん子さん!」

と声を大きくして呼ぶ。つん子さんは、慌てるでもなく、ふん、と首を傾けて出て来た。

 「どうしたの?」

 「もう一本、ワイン、お願いします」

 「ああ、いいけど」

 つん子さんの反応は、少なくとも積極的ではなかった。

 「シャンパンと赤ワインと、もう二本も空けてるけど、だいじょうぶ?」

 「だいじょうぶですって」

 嘉世子かよこ先輩が言う。

 「それに、今日はこの子のお祝いなんだから、ちょっとはむちゃやってもいいでしょ?」

 お祝いだからむちゃやっていい……。

 その理屈を杏樹は拒否できない。なぜなら、あのサークルのパーティーで、杏樹自身が何度もその理屈を使ったから。

 「じゃあ」

 つん子さんは営業スマイルに戻る。

 「ちょっと重めがいい? それとも軽めで華やかな感じのがいい?」

 「どっち?」

 先輩がすかさず杏樹に転嫁してくる。杏樹は「軽めで華やか」と思ったけど、言わずに、転嫁てんか返しをやった。

 「いや、先輩が選んでください」

 で、笑う。

 「わたし、今日がお酒飲むの入門ですから」

 じつは違うんだけど、本格的に飲んだのは初めてだ。だから「入門」というのは嘘ではない。

 「じゃ、重めで」

 先輩はそう言いそうな気がしていたのだ。なんとなく。

 「ちょっと渋くて暗い味だけど、だいじょうぶ? 開いたらすごいいい風味なんだけど」

 「あ、そういうの、好み」

 先輩は得意そうに笑った。

 「ぜひそれで」

と先輩が言うので、杏樹もつん子さんに向かって頷いた。

 そのとき、つん子さんが杏樹に短くサインを送ったように見えたのだが、それは気のせいかも知れないし、それに、そうであったとしてもそれが何の意味なのか杏樹にはわからなかった。


 *杏樹が未成年の時期にお酒を飲んだとか言ってますが、本作はもちろん未成年飲酒を勧めるものではありません!

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