第45話 赤ワインの時間の続き(7)

 「まあ、それもだいじなことなんじゃない?」

 つんさんが言う。

 どこがどう、とは言えないけれど、さっきまでとは言いかたの感じが違うと杏樹あんじゅは思った。

 「何がですか?」

 「やめるときに後押しをするっていうのも」

 つん子さんは短く笑う。

 「一度しかない人生だから、やりたいこと、やらなきゃいけないと思うことをやらないとね」

 そして杏樹を見る。

 「でも、時間は限られてるから、それをやるためには、きっぱりとやめないといけないことはどうしても出てくる。でも、やめるには抵抗ってやっぱりあるでしょ? ここまでせっかくやって来たのに、とか、ここでやめると後が不安、とか、とくに、杏樹ちゃんでもそうだったみたいだけど、ほかのひととの関係とかが、ね。そうやって迷ってるときに、やめたら、って言う、言ってあげる、っていうのも、だいじなことなんじゃないかって、思うんだけど」

 「そう……」

 どう反応していいかわからない、という前に、どういうことを言われたのか、まだ整理がつかない。

 つん子さんが続ける。

 「やめる、って、ネガティブなことみたいだけど、ポジティブに、よりよく生きるために何かをやめる、って、だいじなことだし、それでやっぱり難しいことだと思うんだよね」

 「そうですか」

と、あいだをおいて

「そうですよね」

と言う。

 人間が生きるのは一度だけ……それは中世の人も近世の人もわかっていた。

 でも、その時代で違ったのは、人間は、この世で死んで終わりと思っていなかったということで。

 死んだあとも、これでよかったのか、こうなったのは何のせいなのか、だれが悪いのか、ずっと考えて、霊として行動しないといけないということで。

 それだと、いまのネガティブとポジティブの話は、なんか変わるのだろうか?

 あの結生子ゆきこさんや、先生や、それにあのかわいいいずみ仁子じんこなら、どう考えるだろう?

 考えてみると、くすぐったい。

 「ところでさっ」

 「はいっ!」

 つん子さんが、さっきとはまた違う感じの言いかたできいたので、杏樹の考えは急に現世に引き戻された。

 「おなかはどう? まだまだ入りそう? まだまだじゃないけど、まだ入りそう?」

 なんで選択肢がその二つ、と思ったけど。

 「いえっ……わたしは」

 「まだまだいくらでも入りそうです」と本音を答えそうになって、ふと気になった。

 「いや、先輩がおごってくださるって話なので、わたしがどんどん行きましょうみたいに言える立場じゃなくて」

 「なんだ、そんなのさ」

 つん子さんの言いかたはますます元気になってくる。

 「嘉世子かよこちゃんに、まだまだ行けます、って言わせればいいんだよ。それに、ここの店、そんなに高くないからさ。そんなんじゃなくて、杏樹ちゃんの本音として、どう?」

 「いや。まだまだ行けますけど?」

 言ってしまってから、言ってよかったのかな、と思う。

 「よし」

 つん子さんは、うん、とほほえんだ。

 「ちょっと肉分ばっかりになったからさ、つくね汁とか行ってみる? 鶏肉のつくねも入ってるけど、あとは白菜とか、ごぼうとかにんじんとかだから。まあ豚汁の豚がつくねになったようなものだけど」

 たしかに、汁ものとか野菜ものとかあっていいな、と思っていた。

 はっきりと思っていたかどうかは知らないけど、潜在的に思っていた。

 ……ということにしておこう。

 「じゃ、それ、作るね。ちょっと時間かかるけど」

 「はい」

 先輩がいないあいだに決めてしまった。

 まあ、いいか。

 「味噌ベースと味噌のないのと、どっちがいい?」

 つん子さんがきくので、ふと

「じゃ、味噌のないほうでお願いします」

と答えてしまった。

 ぜんぜん考えずに答えたのだけど、考えてみてもどっちがいいか思い当たらなかったから、いいのだろう。

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