第31話 お祝いの時間が始まる

 つんさんは最初にお通しというのでブロッコリーのでたのを出してくれた。

 先輩が

「ここの店って、何かが自慢、って言ってましたよね?」

と言うと、つん子さんが

「自慢できるようなものはないけど、評判がいいのは肉豆腐かな?」

と答える。

 「じゃ、それで」

 先輩が先輩らしい貫禄かんろくを見せて言う。

 「はぁい」

と、つん子さんはまた台所に行った。

 先輩はシャンパンをくいっと半分ぐらい飲んでしまった。杏樹あんじゅがボトルを持つと

「ああ、ちょっと待って」

と言って、残りを飲んでしまう。

 「森戸もりとちゃんさあ」

 先輩はブロッコリーにマヨネーズをつけて口に持っていきながらきいた。

 「現社、来るんだよね?」

 「はい」

 迷わず答える。さっきの「冗談」がまだ引っかかっていた。「じゃあ、どうして日本史なんか行ったの?」ときかれるのは避けたい。

 「かよん先輩はどうするんですか?」

 「うん?」

 先輩が斜めに顔を上げる。

 「どう、って?」

 「修士二年だと、来年三月で卒業ですよね?」

 「森戸ちゃんね」

 やっぱりまずいことをきいたのか。

 少なくとも、もう少し後にきくことだったかな。

 「大学院は修了って言うんだよ。卒業じゃなくて」

 「はい……?」

 「だから、大学院を卒業することは、修了って言うわけ」

 「はあ」

 「わかってないでしょ?」

 「あ、はい」

 いや、大学院を卒業することを修了する、というのはわかったけれど。

 考えてみれば、大学院ってどういう仕組みになっているのか、ほとんど知らない。

 ただこの「かよん先輩」がいたので、大学院というものが存在し、大学院生というものも実在するということを知った。それだけで十分だと思っていた。

 「ま、もう一年、修士やって」

嘉世子かよこ先輩は言った。

 「それで、その一年で博士はかせ行くかどうか考えるかな、ってとこだね」

 そうか。博士課程に行くのか。

 修士課程で何をするのか知らない。

 ましてその上となるとまったくわからない。ハカセというからには、白衣を着て、なんか重そうな円眼鏡をかけて、小太りで、ピンと横に立った髭を生やして、と、そんなふうにならないといけない……。

 ……ことはたぶんない。

 でも、じゃあ、どうなるんだろう、というと、やっぱりわからない。

 さっきの先生や結生子ゆきこさんにきくとわかるのかな?

 いや。いま、日本史研究室のことを思い出すのはやめよう。

 「その、都市工学、っていうのを?」

 「ああ」

 嘉世子先輩はあいまいに息をつくように言って、目を細めて、シャンパンをくいっと飲んだ。自分でボトルに手を伸ばす。杏樹が

「あ、はい」

と、慌てて先回りして、先輩のグラスにシャンパンを注ぐ。

 「ま、そうだよね」

 嘉世子先輩は笑って横目で杏樹の顔を見る。


 *学位としての「博士」の正式の読みかたは「はくし」です。

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