第30話 乾杯(4)

 先輩がにやっと笑った。いたずらっぽく。

 「じゃ、海鼠なまこは?」

 「えっ?」

 杏樹あんじゅは首を傾げる。

 「ナメコですか?」

 好きというわけでもないけど、食べたくないほど嫌いというわけでもない。

 でも、その杏樹の答えをきいて、先輩はもっと笑った。

 「ナメコじゃなくて海鼠。海の底に住んでるにゅるにゅるっとした生き物。知らない?」

 「あ」

 ……残念ながら。

 「知らないです」

 「じゃ、つん子さん、見せてあげて」

 先輩が顔を上げて言うと、つん子さんも目を細めて笑った。

 「それが、今日はないのよ」

 「えっ?」

 先輩は不服そうだ。

 「前来たとき、あったじゃないですか?」

 「毎日買うわけじゃないから。これからしゅんだから、また今度、連れて来てあげて」

 「はあい」

 先輩はやっぱり不服そうに言った。

 つん子さんが杏樹のグラスにシャンパンを注いでくれる。

 先輩はバッグを取り上げてスマートフォンを引っ張り出す。バッグはネイビー色のレザーの肩掛けバッグ、スマートフォンのケースが「さんかくねこ」というキャラクターで……。

 この落差はいいのかしら?

 カウンターの斜め奥が台所になっている。あいだに縄のれんがかかっているけれど、ガスレンジとか給湯器とか、だいたいこちらから見通せた。

 つん子さんはカウンターの向こうからグラスを持ってその台所に行く。レンジに向かって火を入れた。

 その後ろ姿を見ていると、先輩が杏樹の肩をつつく。

 「ほら、これ」

と、先輩が嬉しそうにスマートフォンを指し示す。

 何かの写真だけど、何だかわからない。白い砂の上に長く延びた、黒いのか赤いのか青いのか、ともかく暗い色の何か。

 杏樹が反応しないでいると、やっぱり海の底を写した、もわもわっと白い何かが広がった写真へと移る。それは花のようでもあり、ふわっと広がっていたけれど、あんまりきれいという感じでもない。

 「珊瑚さんごか何かですか?」

 珊瑚の本体は動物で、海に漂うプランクトンとかを絡め取って食べていると言うけれど、それだろうか?

 「違うよ!」

 そう言って先輩は次の写真に移る。

 それは怪獣のようだった。あるいは、たわしの毛を太くして、そのたわしを思い切り長くして、それでうねうねと曲げたようもの……。

 「なんですか、これ?」

 「いや、だから」

 先輩はとても楽しそうだ。

 「これが海鼠って生き物なんだって」

 「えっ?」

 これが生き物だと考えるだけでも試練が必要だと思う。

 まして、この引き延ばしたたわしみたいなのを食べるのだろうか?

 人間が?

 おそるおそるきいてみる。

 「これが食べ物なんですか?」

 「うん」

 先輩は笑ってグラスのスパークリングワインを飲み干した。いや、シャンパン? 杏樹にはよくわからない。去年飲んだスパークリングワインというのの味を覚えているわけでもない。

 ともかく、先輩は、カウンターの上のボトルを下ろして、自分で自分のグラスに注ぐ。

 「あ、すみません。手酌てじゃくさせちゃって」

 先輩はふふんと笑う。

 「お酒飲んだことがないのに、手酌ってことばは知ってるんだ?」

 「いや、それは……」

 合コンのときに先輩が教えてくれたんじゃなかったかな?

 でも、その海底の怪獣から話が離れたと思ってほっとしていると

「で、海鼠、こんど食べてみる?」

と言う。うげっとなったところを見られないだけの判断力は使った。

 「いえけっこうです!」

 きっぱり断る。先輩は斜めに杏樹を見上げた。恨みがましく言う。

 「あら。おいしいのに。もったいない」

 言って、先輩はきゃははっと笑った。手酌したグラスを持って、底を高く持ち上げて思い切りよく飲む。

 次は手酌にならないように、杏樹が注いだ。

 「ありがと」

という声がちょっとだけ酔っ払いのオジサンっぽい。

 そういえば、この先輩といっしょに合コンで会った相手の四年生に、普段はちょっと太っているけどクールな男子って感じなのに、酔うとほんとに酔っ払いのオジサンみたいになったひとがいたな。あのとき四年生だったから、いまはもう卒業して社会人なんだろうけど。

 このとき、先輩、車だけど、お酒飲んでだいじょうぶかな――と思い当たらなかったのは、やはり杏樹の若気の至りというものなのだろう。


 *日本で食品として「ナマコ」というのはふつうはアカナマコも含むマナマコです。先輩が見せた写真のうち「引き延ばしたたわしみたいなの」はバイカナマコなので、別の種類です。

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