第6話 殺人鬼の正体

 花袋と独歩が訪れたのは、江戸の世からありそうな古びた薬店。軒先に吊られた看板が、風に揺れて軋んだ音を立てている。

「ここが件の薬店だな。殺害現場というわけではないが、野次馬防止と証拠保全のために、警察が封鎖している。その鍵を借りてきたわけであるが……」

 独歩が話し終わるよりも先に、花袋は立ち止まっていた。

 立ち止まらざるをえなかった。まだ扉を開けてもいないのに、近づいただけで異様な悪臭がただよってきたからだ。

「ここの時点でもう臭う。腐った肉の臭いがぷんぷんする。やめた方がいい」

 中に入るまでもなく連れが降参してしまい、さすがの独歩もやや怯んだ様子。

 しかし、意を決したかのように鍵を取り出した。

「鍵を借りてきたのに不気味だから退散しました、ではあまりに示しがつかない」

 確かに示しはつかないかもしれないが、花袋の意見は変わらない。

「そこは本当にヤバい。嗅いだことのない臭いがする」

「いいさ。ここは確認するだけだからな。僕ひとりで十分だとも」

 独歩も強情だ。花袋を放って、一人薬店の扉の前に立つ。

 鍵を開け、閉め切った薬店の引き戸を横に滑らせ――、独歩は返す動作で再び閉め切った。鍵をかける。

「……見なかったことにしよう」

 明らかに平静を装った様子で、独歩はそう言ってのけた。

「おい……おい、お前。それは逆に気になるだろう。何を見たんだ?」

「真っ先に足を止めたのに何を言う、花袋。というか、君が利くのは鼻だけなのだから、多分見えてもせいぜい虚無の黒い穴だぞ」

「つまり『霊穴』があったのか」

「あったな。ついでにだいぶ刺激的な眺めが見られた」

 あると思ったからここまで来たのだろうから、『霊穴』が存在するのは想定の範囲内ではある。

 しかし、刺激的な眺めとは一体。

「言葉を濁される方が、何があったか気になるじゃないか!」

「どうせ花袋は見られないじゃないか」

「見えないから確かめようがなくて、かえって気味が悪いんだよ!」

「なるほど」

 ふむ、と小さくうなずいて、独歩飢餓は抜けたように笑った。

「一瞬だったが、薬店店主らしき人間が中で首をつっていた。ニヤニヤ笑っていたが、一応僕は歓待されていたのか」

「絶対歓待されていないと思う」

 花袋はつぐつぐ自分が『視える霊感』持ちではなくて良かったと思い、嘆息した。

 それにしても、山中で首を絞められて殺されたはずの薬店店主が、店の方で首を吊っているのはどういうことだろう。

「その店は事件現場ではないんだろう?」

 花袋は心底不思議な心持ちになって、首をかしげた。臀肉事件も義兄殺しもこの麹町が犯行の舞台であるが、薬店店主殺しは違う。野口は鉄道で遠くに呼び出し、殺害しているはずだ。遺体も山の中だった。

 だから、この店に憑き物がついているのは――。

「多分、元々あった『霊穴』はここなんだ」

 独歩はステッキを上げて、薬店の玄関をコツリと軽く叩いた。

「どうして元からあるってわかったんだ?」

「僕の推測だが――そもそも、野口は成績不良で学校を退学となったことを婿入り先に隠すべく、卒業証書を偽造した罪にも問われている。三件の殺人が騒がれ過ぎているので影が薄いものの、こちらは有罪の判決だ」

 新聞各紙は、とにかく凶悪殺人犯であることばかりを書きたてているから、公文書偽造の罪は軽視されているのだろう。

「証書偽造は臀肉事件の後とされるが、その偽造のアイデアは、本当に野口本人の発想だったのか? 不思議に思わないか、花袋」

「他に悪知恵を貸す人間がいたのかも、ってことか?」

「その通り。人肉が籟病の妙薬である、という噂を聞いたからといって、果たして本当に人肉を得ようなどと思うだろうか? しかも、自分が住む近所で犯行を行うという、よく言えば大胆で、悪く言えば考えの浅い犯行だ」

 土地勘があるからこそ、滅多に人の通らない場所を熟知していた、ともとれるが、荘亮少年は呼び出されてあの路地を通ったわけでもない。お使いの帰途だった。つまり、彼が通りかかったのは偶然だったのだ。

 となると、野口の犯行は計画的ではないことになる。

「野口は、恐らく義兄に取り入るために、籟病の薬の相談をここの店主に行っていた。元々顔見知りだったんだろう」

 元から知り合いなら、野口が都築に投資話を持ち掛けるのも不自然ではない。あるいは投資話自体、野口が後だしでつけた理由で、婿入り先を締め出された彼に金をちらつかせたのは、都築の方であったかもしれない。

 何はともあれ、よからぬ金であったことだけは確かであろう。詐欺にしても、他の悪行にしても――。

「だが、近所なのだし、薬店店主と元から懇意だったのなら、周りにわかりそうなものじゃないか?」

 花袋が不可解な気持ちでつぶやくと、独歩は肩をすくめてみせた。

「籟病は伝染することがある、ゆえに労咳と同様に疎まれる。野口寧斎はたまたま漢詩で名のある人物であったから、本人や妹には表だって言うものはいなかったかもしれない。が、野口が籟病の治療について聞いて回っていれば、変な噂がつく。だから秘密裏に行った」

「それじゃ、人肉が病気に効くって話も……」

「ま、あくまで僕の推測さ。そもそも、けしかけたのは都築の方かもしれない、ということだな。そして、この薬店が『霊穴』のありかであるということは、『怪奇』の憑き物がついていたのは都築の方だった、と考えられる」

 薬店の引き戸の向こうで、山中で殺されて吊るされたはずの店主と思しき遺体が、ニヤニヤ笑いながら揺れていたという。店の天上に空いた暗い穴から、吊るされて虫の湧いた手足をだらりと下げて。笑う口元だけがひたすらに紅い。そんな情景が脳裏にちらついて、花袋はやはり聞かなければよかったと、少々後悔した。

 『怪奇』憑きの都築が、知らぬ間に『怪奇』に影響を受けて、野口をそそのかしていた。そして野口は、籟病の妙薬欲しさに人殺しに手を染め、証書を偽造し、それでも信用しようとしない義兄もついに手にかけた。

 この直後、満州に渡る金欲しさに都築へ行ったとされる偽の投資話が、本当は国外逃亡に必要な軍資金の恐喝であったなら――?

 都築に憑いた『怪奇』を恐れ、彼を殺して自殺したかのように吊るしたものの、野口は彼の遺書を揃えるなどの小細工まではしなかった。だから簡単に犯行がばれたのだ。

 義兄に信じさせるために、卒業証書の偽造までやった男が、そんな単純な過ちで捕まった。少しの間でも世間の目を欺けば、都築から奪った金で満州に渡ることができたのかもしれないのに、だ。

 都築という『怪奇』憑きの犯行指南役がいなくなって、野口にボロが出たということではないのか?

 これならば、野口本人には『怪奇』の臭いがさほどつかないのも納得できる。

「それじゃあ、野口の犯行は『怪奇』絡みだった、ということなのか? 判決が覆るかもしれないな」

 花袋は唸り声をあげる。『怪奇』が『原因』であると認定された犯行は、原則として死刑を求刑できない。だが、しかし。

「覆らないさ」

 独歩はひどく澄んだ声で、そう述べた。

「今更、臀肉事件と義兄殺しを有罪にするのは難しかろうが、薬店店主の強盗殺人の罪状で絞首刑はほぼ確定さ。『怪奇』は『きっかけ』で『原因』ではない」

「どういうことだ?」

「荘亮少年の遺体は目が抉られていた。それも、殺された後に。つまり野口は、すでに何も見えていないはずの死人の目が、怖かったということさ。『怪奇』で正気を失った人間が、そんなことするものか」

 己が殺した子供の目を恐れたのは、野口に罪を自覚するだけの理性が残っていた証。

 卒業証書の偽造も、逆恨みの義兄殺しも、満州逃亡画策も、『怪奇』に影響されたにしては行動に筋が通りすぎているのだ。独歩が言いたいのは、つまりそういうことだ。

「いつだって生きている人間が一番恐ろしい。あれは正気の狂人だったということだ」

 独歩は鼻歌混じりに帰り道を歩きはじめる。その後ろで花袋は、『怪奇』によらない人間の狂気の恐ろしさに、そっと身震いをしていた。



「花袋、今月も家賃が払えそうにないんだ。なんかいいネタはないかね」

「お前、野口の本で儲けたんじゃなかったのかよ」

 野口の獄中手記は、飛ぶように売れていたはずだ。それなのに、独歩はまた金欠に陥っている。何故なのか。

「初版が売れに売れたから、今こそ商機と再版をすれば、これがちっとも売れなかった。目新しさは、一瞬で過ぎ行く儚いものだな」

「でも、初版だけでも結構な売り上げになったはずだろ」

「ああ。久しぶりに黒字になったとも。先月の家賃はそれで払った」

「それじゃあ、なんで金欠なんだよ。家賃で売り上げのすべてを払ったわけじゃないんだろ」

「それはそうなんだが、臀肉事件の被害者家族に見舞金を渡したら、利益分がなくなってしまっったんだ」

「はぁー!?」

 まさか、儲けを出すために作った本の利益を、遺族に渡してしまうとは。

「臀肉事件のことを勝手に本にして儲けたんだ、被害者家族の心情を考えて、見舞金を渡すくらいはしなければと思ってね」

「思ってね、じゃねーだろ! 自分の生活のことも少しは考えろって!」

 独歩は、大変な自信家で、機転も利き、弁舌で人の心を巧みに動かす、まるで帝王のような男だ。

 しかし、この男にはひとつ致命的な欠点がある。

 とにかく、情にもろいのだ。金を持ったら、仲間のため、目の前で困っている人のために使ってしまう。およそ経営者向きではない。

 とんでもない男だ。この男についていくのは、大変だろう。

「だけど、これが独歩なんだよなぁ……」

 ため息ひとつ。これが我が親友なのだ。



 帝都の『怪奇』に関する推察を絡めた独歩の考察が載せられた野口の獄中手記は、ある意味で独歩社が関わった最初の怪奇事件出版物となった。

 花袋も独歩も、まだ『怪奇』の出版物が独歩社の窮地を救う一手となることを知らない。


 ――野口男三郎は、強盗殺人の罪で死刑が確定し、二十八歳の若さで絞首台に吊るされた。

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帝都怪奇浪漫奇譚 藍澤李色 @Liro_A

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