5話:決意

 薄く、密やかに差す朝日に、ジュリアスは重い目蓋を押し上げた。眠りと覚醒の中間を漂い、いつの間にか夜が明けていた。よろけるように外に出ると、周囲には誰もいなかった。通りを歩く者もおらず、人の気配もほとんどしない。まるで死者の町に独り取り残されたような気分になり、ジュリアスは目に映るものに現実味を感じられなかった。

 馬車から離れ、意味も無く通りへと出る。遮るものがない寒風が勢い良く吹き抜け、風にあおられたフードが頭からずり落ちた。

 冷えた空気に吹かれるうち、思考が徐々に冴えてくる。寒さにかじかんだ鼻と耳が痛い。

「全て……現実か……」

 呟いた途端、投獄されて以降のことが、瞬間的に脳裏に過った。

 絶望に満ちた獄中の日々。実の伯父から宣告された処刑。脱獄し、初めて疲労を堪え凍えながら歩いた。煌びやかな宮殿や華やぐ王都とはまるで違う魔窟のような街。徴税され貧困にあえぐ集落。そして、憎しみに満ち、復讐鬼となったかつての友――いや、もしかしたら友ですらなかったのかもしれない。

 何もかもが、現実だったのだ。夢でも、悪夢でもなく。

 ジュリアスはフードを被り直し、ゆっくりと長の屋敷を振り返った。荷馬車の御者台には、シルヴィオもザミルもいなかった。ただ一人、屋敷のドアの前に、クラークが立っていた。

「……お寒いでしょう。茶が入りました。中にお入りください」

 ジュリアスが近づくと、クラークが頭を下げてそう言った。



 クラークの厚意を受け、ジュリアスは温かな茶を淹れてもらった。礼を言って一口すすると、腹の底から熱が沸き上がるような心地になれた。

「……恐れながら、昨晩、貴方様のお話を耳に入れてしまいました」

 昨晩、というのは恐らくシルヴィオに食ってかかった時のことだろう。ジュリアスは小さく頷いた。

「夜半に騒ぎ立てて、悪かった」

「謝るのは私めの方です。盗み聞きなどと節操の無いことを……申し訳ございません」

 クラークが頭を下げるのを、ジュリアスは手振りで制した。

「よしてくれ、そんなにも畏まるのは。僕はもう傅かれるような立場に無い」

「……そうかもしれません。しかし、そう思わない者もいるでしょう」

「何? ……どういう意味だ」

 ジュリアスの問いに、クラークは一つ深く息を吐き、答えた。

「覚えておいででしょうか。昨晩、私は地に根付いた民になったと言ったことを。それは、ここに居を構え集落を作るに至ったということだけではないのです」

「……別の意味があると?」

「はい。……我々フラブ族は、ユラ族以上に混血が進んでいるのです。ヴェヌスタリスの民は、今やこの集落の半数にも上ります。混血児を含めれば七割に手が届くでしょう」

「そんなにも……」

「ユラ族を助けるために戦う決心を付けられなかったのは、私の臆病さゆえです。勝てるかどうか分からぬ戦に彼らを巻き込めるか……そして、そもそも彼らを戦いに駆り出せる自信も無かったのです」

 クラークは、そう言って視線を落とした。彼にとって戦う決断とは、勇の有無だけ固められないものだったのだ。

「ですが、戦わねばこの集落が遠からず滅ぶのも事実です。何とかして、彼らに決起を促し、集落全体の結束を固めなければ……」

「それは……君はすでに、戦う意思が固まっているということなのか?」

 クラークは無言で頷き返した。その首肯には、硬い意思が見て取れた。一晩考えての意思なのだろう。しかし――

「何故それを、僕に? シルヴィオやザミルではなく……」

「もちろん、彼らにもお話しします。ですが、誰よりも先に貴方様にお話したかったのです」

「僕に……?」

「この集落に集ったヴェヌスタリスの民は、フラブ族と同じように貧しい暮らしを強いられるか……あるいは王家に異を唱えて処罰されかけたところを、逃亡したような者ばかり。だからこそ、王家でありながら、王家に追われる貴方様のお力が必要なのです」

 ジュリアスは、眉間にしわを寄せ首を振った。彼の理屈が、まだ呑み込めなかった。

「僕の力が必要? 確かに追われた身とはいえ、僕は王家の人間だ。そんな人間の力が必要になるというのか?」

「弱き者とは得てして群れを作り、そして統率者を求めるのです。そして、私では彼らの上に立つことはできない。かつて彼らが信じた、正しい王こそが求められているのです」

 ジュリアスは、馬鹿な、と呟いた。自分たちを苦しめた王家を、再び求めるなどあり得るだろうか? だが、クラークは頑として譲らなかった。

「お願いします。どうか、フラブ族に呼びかけてください」

「……無理だ。もし、僕の声が届いたとしても、それは……」

 ふと、ジュリアスの頭にはある可能性が過っていた。己の血の呪い、幻惑の力だ。もしそれを制御できず、無意識に使ってしまったとしたら? 王家への戦いを挑もうというのに、自分自身が、その呪われた力を使ってしまったとしたら……?

「クラーク。僕は――」

「……何をうだうだと迷っている」

 ジュリアスが断りを入れようとしたその時、シルヴィオの声がした。いつの間にかシルヴィオが、屋敷の中に入ってきていた。ザミルの姿は無い。

「お前以外にまとめられる者がいないのならば、やれ」

「シルヴィオ……だが、もし呪いの力が現れたら? もし無意識に操ってしまったのだとしたら……」

「その時はお前を殴り倒して呪いの術を解くだけだ」

「そんな、無茶な」

「黙れ」

 シルヴィオは、相も変わらず酷薄だった。しかし、不思議とこの時の彼の表情に苛立ちや怒りは見られなかった。黒い瞳は、ただ静かにジュリアスを見つめていた。

「この集落のことは長であるクラークが、一番に知っている。その男がいまのままでは無理だと言っているのだ。ここの戦力が一か十になる賭けを当てる、その確率を上げるためには、お前が行動するしかない」

「……シルヴィオ」

 振り返り見たシルヴィオの顔から、クラークへと視線を移す。クラークは、懇願するように頭を下げた。ジュリアスは数秒、黙考した。そして、

「……分かった。やれるだけのことは……やろう」

「ああ……! ありがとうございます! さっそく、皆に声をかけてきます!」

「え!? あ、おい、そんな急な……!」

 いうが早いか、クラークは席を立って慌ただしく外へと出て行った。ジュリアスはその勢いに驚いていたが、やがてふ、と息を吐くように小さく笑った。

「……礼を言う、シルヴィオ」

「はあ? 礼だと? 何に対する礼だ」

「僕に、上に立つということの意味と、心構えを教えてくれた。そのことへの礼だ。……ありがとう」

 ジュリアスは、それだけ言うと、シルヴィオの反応を見ずに、クラークの後を追って屋敷の外へと出た。



 外に出ると、ザミルが立っていた。屋敷の門衛と何事かを話していたが、ジュリアスの顔を見ると、すっと距離を詰めてきた。

「檄を飛ばすと聞いた」

「……ああ。僕の力が必要だとクラークに求められた。ザミル、君は何を?」

「集落にユラ族を集める。お前の言葉をユラ族も聞く」

 ザミルの言葉は手短で、顔もほとんど衣類に隠れているせいで感情が読めないが、その灰色の目が、どこか期待をうかがわせているように見えた。


 やがて、地平から日が上り、薄い雲ごしに弱々しい冬の日で地上を照らし出した。


 朝が来た。集落の人々が起きだし、そしてクラークの呼びかけによって集落の中央にある、大きな井戸の周りに集められた。そこが町の中心であり、集落の人々全てが一堂に会せる場所でもあった。

 そこに荷馬車が横付けにされ、幌が取り払われた荷台にジュリアスは立っていた。

 それまでざわつくばかりだった人々が静まり返り、そしてジュリアスへと視線を一斉に向けた。

(……こんな視線を感じたのは、初めてかもしれない)

 宴の席で貴族たちと語り合ったことも、人々の前に立ち演説を打つこともあった。だが、今日この日、この時に向き合った感覚は、人生で初めて感じる者だった。見上げる人々の、瞳の一つ一つがよく見えた。痩せた頬、落ちくぼんだ眼窩の奥にある瞳が、恐れと期待の感情を訴えていた。ジュリアスは、その瞳の全てと目を合わせるように視線を巡らせた。

「皆の者。このような早朝から集まってくれて、ありがとう。まずは、私から伝えたいことがある」

 まず、話の口火を切ったのはクラークだった。ジュリアスの前、荷台の下に立ったクラークは声を張りあげ話し始めた。

「私は、ヴェヌスタリスと事を構えることに決めた。長らく暴政を強いた王家に、私一人だろうと槍を向ける所存だ。まずはファレン砦に捕らえられた、ユラ族の人々を開放する」

 集落の人々は、一瞬どよめいたが、しかしすぐに静まった。まるでその言葉を予期していたかのようだった。その静寂の中で、今度はジュリアスが動く。ジュリアスは、まず頭を覆っていたフードを取った。途端、再びざわめきが広がった。短くなったとはいえ、黄金の髪が寒風に揺れていた。その色と同じ髪を持つ者は、この場に誰一人としていなかった。

「この髪見れば分かるかもしれない。僕はヴェヌスタリス王家の嫡子……いや、嫡子だった。僕の名はジュリアス・フェーリ・ヴェヌスタリス。まずは、僕のような罪人に、このような場を与えてくれたクラーク氏に、感謝を述べたい」

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