3話:出立

 食事を終えると、シルヴィオは何も言わずにさっさと出て行った。一人残されたジュリアスは、マギスに勧められて湯浴みをしていた。湯浴み、といっても湯船などこの場には無く、洗濯場のような場所で沸かした湯を布に浸し、それで体を拭く程度のことだったが、それでも生き返るような心地だった。

 一週間近く流せなかった体の垢を拭っていると、不意に部屋のドアが開いた。マギスだろうかと思って振り向くと、そこにあったのは、マギスよりも小柄な人影だった。

「あ……?」

 明らかにマギスではない。突然現れた見知らぬ人物に、ジュリアスは驚き、固まっていた。相手の方もジュリアスがいるとは思わなかったのだろう。ドアを開いた体勢で固まっていたが、

「黄金の髪……」

 そう呟くと、おもむろにドアを開け、室内へと入ってきた。懐から取り出されたナイフの刃が、燭台の明かりを照り返して鈍く光る。ジュリアスは戦慄に肌を粟立たせた。相手が小柄とはいえ、こちらは丸腰――というより全裸で、持っているのはタオル代わりの布切れ一枚のみ。武術こそ宮廷の師に教えられたが、そんなものは形式的なものでしかない。もし、相手が手馴れていたら――そう思うと、抵抗どころか恐怖で体が硬直してしまった。

「て、抵抗すんなよ。そ、その髪だけくれればいいんだ」

「髪……?」

「黄金の髪は高値がつくんだ……フードを取ってやったときから、チャンスがあればって思ってたんだ」

 呟きながらなおも呟かれるその言葉で、ジュリアスは気づいた。目の前の子供――声の様子と体格から、自分よりも五、六歳は下だろう――は、ここに来るまでの道中で、フードを奪っていった盗人だったのだ。

「声を出すなよ……」

 いつの間にか目の前に来ていたその盗人の子供の言う通り、ジュリアスは黙って、というより固唾を飲んで相手の動きを待った。子供はジュリアスの背後に周り、洗われて濡れた髪を束にして掴むと、首の後ろ辺りでナイフを入れた。引っ張られる感覚にジュリアスが眉をひそめたのも数秒のことで、髪を切り取ると、子供は脱兎のごとく部屋から出て行った。

 時間にして、およそ十分程度のことだった。

 呆然としていたジュリアスは、盛大なくしゃみをして、体が冷えていることに気づいた。指先を桶代わりに使っていた鍋に浸すが、湯も冷めていた。溜め息を吐いて、体を乾いた布で擦る。多少は体に熱が戻っただろうか、というところで、無遠慮にドアが開かれた。

「……死んでいなかったか」

 喜んでいるのか、残念に思っているのか分からない言葉を吐いたのはシルヴィオだった。

「部屋に入る時ぐらい、ノックをしろと躾けられなかったのか」

 とジュリアスは言ったが、シルヴィオは馬鹿にしたように鼻先でその言葉を笑った。

「それは悪かったな、次からは気を付けよう。だが……強盗はわざわざドアノックなどしない。丸腰の時は特に警戒しておけよ。勝手に殺されては敵わん」

「……待て。何故ここに盗人が入ったと分かった」

「見れば分かる」

 そう言うと、シルヴィオはジュリアスを指差す。何のことかとジュリアスは一瞬訝しんだが、すぐに己の髪を指し示しているのだと気が付いた。思わず、髪の切り口あたりに触れる。ちくちくとした毛先が指先に当たった。

「髪の束だけ握りしめた子供が走り去って行った。物の価値の分からん奴だ。髪ごときより、よほど上にある薬草の類の方が値打ちだというのに。……しかし、髪を切られたのは好都合だ。目立ちにくいし何よりこざっぱりとして見える」

 ジュリアスは髪を長く伸ばしていた。それは王族の習わしだった。その髪すらも失い、王族の証明を根こそぎ奪われたような気になっていたジュリアスは、気分を損ねてシルヴィオに嫌味を言った。

「お前も髪を切ったらどうだ。髪と、あと髭も。鬱陶しいから」

 ただ、そんな皮肉もシルヴィオはものともしない様子だった。「それもそうだな」と言い、

「髪を切るのにこの場所を使う。さっさと服を着ろ」

 そうジュリアスに向けて言い放った。どうやっても口で敵わないことを悟ったジュリアスは、そそくさと用意されていた服に袖を通して部屋から出て行った。



 マギスの薬屋、その地下は、外観からは想像もつかないほどに広く、そして設備も整っていた。ジュリアスが湯浴みをした洗濯場には、湯こそ出なかったものの地下水が流れる側溝があった。別の場所にはポンプ式の井戸もあり、そこで汲み出した水を料理に使っていた。肉が吊り下げられ、棚には野菜や保存食がしまわれた食糧庫には、雪や氷が積まれていた。恐らく、マギス以外も出入りしているのだろう。そうでなければ、薬品類はともかく、大量の食糧については説明がつかなかった。

 しかし、いまこの隠れ家に出入りしているのは家主であるマギス以外は、ジュリアスとシルヴィオだけのようだった。

 自由に使っていいと言われた客室いがいにも、いくつかの部屋があったが、人の気配はない。静けさに満ちた廊下を横切り、割り当てられた客室に入ったジュリアスは、粗末なベッドに横たわった。硬い木の板を渡しただけのベッドだったが、それでも吊り下げられるよりかは遥かにマシだった。

(……そういえば、シルヴィオが戻ってきたということは、ユラ族のザミルなる者と話がついた、ということなのだろうか……)

 ザミルと共にすぐさま出る、という話だったが、シルヴィオの様子からまだここを離れる気が無いということが分かる。しかし、交渉に失敗したという風にも見えなかった。マギスは何か知っているだろうか。聞きに行くべきだろうか――そう考えたジュリアスだったが、ベッドに横たわったことで訪れた睡魔には抗えなかった。


 目を閉じれば、休息に眠りに落ちていく。


 眠りの奥底で、ジュリアスは夢を見たような気がした。何がどう、という夢ではない。特筆するようなことのない、過去がそのまま現れたような、夢。幼少期、まだ存命だった父と母に囲まれて過ごした、華やかな宮殿での、何気ない日常――目を覚ましてしまえば霧散するような、そんな夢だった。


 そんな取り留めも無い夢をジュリアスが認識できたのは、自然に起きたためではなく、夢の途中で叩き起こされたためだった。

「起きろ」

 叩き起こすという文字通り、肩を軽く叩かれ、短く命令される。ジュリアスはゆっくりと目蓋を押し上げた。

「誰だ」

 真っ先に、そこにいた者を見てその言葉が出た。ジュリアスの目の前には、黒目黒髪の男が立っていた。髪は短く切りそろえられており、やや険はあるが整った顔立ちが露わになっている。口元には、嘲笑が浮かんでいた。

「誰かに守られるのが当たり前になっている王族らしい。警戒心の欠片も無いな」

「……まさか、シルヴィオか?」

 そういえば、髪と髭を切っていたのだったということをジュリアスは思い出した。

「ぼさっとするな。出るぞ」

 事情を何一つ話さず、シルヴィオは命令してくる。むっとしているが、反抗したところで、叩き起こす力がさらに強くなるだけだろう。むしろ肩を揺するように叩かれる程度で済まされたことは、驚きに値するのかもしれない。そんなことを思いながらジュリアスはベッドから降り、寝ぼけ眼を擦った。

「念のためにこれを持っていろ」

 放り投げられるように渡されたものを、ジュリアスは両手で受け取った。そして、その思いがけない重量に、その場でたたらを踏んだ。見ると、渡されたのは一振りの剣だった。

「どうしようもない鈍らだが、無いよりはマシだろう。振るう時は切れ味に期待するな。叩きつけるように切れ」

「あ、ああ……分かった」

 腰に下げるためのベルトもついていた。ズボンにベルトを通す間に、シルヴィオは事の次第を説明し始めた。

「ザミルとは話がついた。街を北に抜けたところで合流し、奴の荷馬車に乗ってフラブ族の集落に入る。あの辺りはどうやら警戒が強まっているらしい。集落に出入りこそないが、周囲を巡邏する兵がいるようだ」

「それを、荷馬車に乗ってかわすのか」

「そういうことだ。お前は文字通りのお荷物に徹してもらう」

 何か棘のある言い方だったが、いちいち苛立っていては仕方がない。分かった、と首肯して、そして少し引っかかったことを尋ねた。

「お前は、ということは、荷物になるのは僕だけなのか」

「ああ。その金髪を見咎められては言い訳のしようも無い。フードをまたくれてやったとはいえ、近寄られれば隠し通せんだろう。俺はこの通りの髪の色だ。ユラ族に成りすましてやりすごす」

 それだけ説明すると、話は終わりだと言わんばかりにシルヴィオは踵を返して部屋から出る。ジュリアスもその後を追った。眠気はすでに消え去っていた。その代わりに、寒さからか、妙に頭が冴えていた。



 外に出ると、ぼろ布の屋根たちの隙間から星空が見えた。新月らしく、月はどこにも見当たらなかった。マギスは眠っているのだろう。見送りは無く、しんと静まり返ったジャイダの町を、足音を潜めて北に抜けた。やはり道は狭く、曲がりくねり、あちこちから建物の一部が突き出し、あるいはゴミが山を作っていた。シルヴィオの後ろについて歩かなければ、すぐにでも道を見失うだろう――ジュリアスがそんなことを思いながら歩いていると、やがてその雑然とした景色が開けていった。


 遮るものの無くなった、満点の星空の下に、一台の荷馬車が止まっている。


 荷馬車に近寄ると、御者台に座っていた男が僅かに身じろぎをした。なめし皮のマントに首周りを覆うマフラー、そして毛皮の帽子のために面相は伺い知れなかったが、その顔を向けてきていることだけはジュリアスにも見て取れた。

「乗りな」

 御者台の男――恐らくザミルだろう男は短くそう言った。「お前は後ろから荷台に入れ」とシルヴィオが言い、ジュリアスはその通りにした。

 幌付きの荷台の中には木箱が積まれていた。中は窺い知れなかったが、獣臭く、そして青臭かった。薬草や毛皮などを積んでいるのかもしれない――そんなことをジュリアスが考えていると、荷台の方で鈴の音がしゃんと鳴った。すると、荷馬車ががたんと音を立てて前進を始めた。

 幌布の間から、僅かに外が見える。ジャイダの街が遠ざかり、やがて草木の生えぬ黒い土が見えるばかりとなっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る