1話:ジャイダの隠れ家
足を引きずるようにしてジュリアスが前に進んでいると、三十分近く経ってようやく、ジャイダの町に入ることができた。
町に入った途端、異臭が鼻を衝く。
凍った空気に痛む鼻ですら感じる臭気だった。金属と糞尿、草を煮出したような青臭さ、何かが焦げる臭い。それら全てが入り混じる、恐ろしく不快な臭いが漂っていた。しかし、臭いの雑多さに反して町中には人影が見当たらなかった――これをそもそも『町』と定義することすら、ジュリアスにははばかられたのだが。
ジャイダのバラック群は、ジュリアスにとっておよそ家や建物には見えないものだった。木の棒や石で外壁が組まれ、屋根はぼろきれや木の板だ。時折、トタンやレンガも見えたが、かけていたり、大きさが違っていたりする。どこかからか持ってきものを、無理やり組み合わせているというのが見て取れる。
「さっさと歩け。話は通っているが、ここはまだ安全ではない」
辛うじて聞こえるかどうかという声量で低く言われたが、ジュリアスの足取りは重い。危険がまだあると言われたところで、どうとでもなればいいという意識なので、走る気力など湧いてこなかった。
そうして、あちこちに廃材が突き出したような――あるいはそれすらも家の一部なのかもしれない――乱雑な造りの町を、ジュリアスは歩いて行った。そして、町の半ばまで来た時だった。
「ぐっ……!?」
ジュリアスは背後から、何者かに思い切り被っていたフードを引っ張られた。一瞬喉元が詰まり、息ができなくなる。もがこうとしたところで何も見えなくなり、そのまま仰向けに倒れる。天を仰ぐころには視界はクリアになっていたが、強かに背中を打ち付けて息が詰まり、涙目になっていたせいでしばらく景色がぼやけていた。
「……いつまで寝ている。立て」
転倒したジュリアスを心配するようなことも言わず、シルヴィオはその腕を掴んで引っ張り上げた。よろめきながら立ったジュリアスは、頭から被っていたフードが、無くなっていることに気づいた。
「追い剥ぎだ。裸になりたくなければ、全て剥ぎ取られんうちにさっさと拠点に行くぞ」
「……あんたのフードを寄越せ」
どうしても被りたかったわけではない。ただ、冷酷なこの男に反抗をしたかっただけだった。だが、下らないわがままなど耳障りにもならなかったらしい。シルヴィオは無言で先を歩き出した。ジュリアスは溜め息を吐いてそれに続いた。
そこから数分歩くと、バラックの一つにシルヴィオは入った。そのバラックはひと際強い異臭を放っていた。甘さも酸っぱさも苦さもある、ジュリアスの人生でおよそ嗅いだことの無いような、異様な臭いだった。内部は比較的広く、同時に狭かった。敷地自体は広いが、棚がぎっしりと並び、天井からも何かが垂れ下がっていた。
「う……」
ジュリアスは吐き気がこみ上げ、思わず口に手を当てて背を丸めた。垂れ下がる物体は乏しい光の中では初め、何なのかよく見えなかった。だが、奥へと進むために近づいてみると、それが何らかの動物の死体だということが分かった。
「こ、これは……」
喉がからからに乾燥し、声が掠れた。動物はまだ新鮮なのだろう。血が滴っていた。
「ジヨウリスというリスだ。食うために干してあるが、それだけじゃない。血も肝も薬になる珍種だ」
よく見ると、死体の下には桶があった。そこには赤々とした血が溜まっている。それを見て、自分は血を抜かれているわけでもないのに血の気を引かせながらも、ジュリアスはこの場所が何なのかを改めて悟った。――ここは薬屋だ。壁を埋め尽くす棚、そして天井から垂れる紐に吊られているのは、薬となる動物と薬草だった。生から乾燥、そして粉末に加工されたそれらが、異臭を放っていたのだった。
「玄関を見張っていろ」
シルヴィオに言われ、ジュリアスは大人しく従った。といっても、外は依然として人影どころか気配一つ無いままだった。
数秒、ジュリアスは自分たちが入って来たところを見ていた。少しして「来い」と一言声がかかった。振り返ると、そこにシルヴィオの姿は無かった。不意にその姿が見えなくなりジュリアスが動揺していると、「こっちだ」とまた声がした。恐る恐る声のした方にジュリアスがにじり寄ると、そこに四角い穴があった。穴があった場所には薬棚があったはずだが、それが店の奥側に動いていた。穴の淵には木の梯子がかかっており、そこから降りるとシルヴィオが立っていた。
「そこのを跳ね戸を閉めろ」
言われるままにジュリアスが戸を閉める。それとほぼ同時に、シルヴィオの手元で明かり灯った。持っていろと言わんばかりにその灯が突き出される。手で吊り下げて持つ型のカンテラだった。ジュリアスがカンテラを受け取ると、シルヴィオは無言で踵を返して、真っ直ぐに伸びる通路の奥へと向かって行った。
手元のカンテラ以外に光源が無い、暗い道をしばらく行くと、どん詰まりに扉があった。それを押し開けた途端、柔らかなオレンジの光が中からあふれ出した。
「早かったじゃあないか……ローイの坊主や」
しわがれた声が聞こえた。それに返事はせず、シルヴィオはずかずかと中へ入っていく。ジュリアスがそれに続くと、思った以上に広々とした部屋が目の前に現れた。
その部屋は、上層の部屋とも表現しがたいあばら家とは全く違っていた。
部屋に繋がる通路は、剥き出しになった土壁を木の柱と梁で支えていた。しかしこの部屋は、壁はレンガで組まれ、最奥には暖炉があった。暖炉に灯る炎が、二つの長机と、その上にある火の点いていない燭台を照らしている。壁には絵画があり、武器が立てかけられた棚もいくつか見える。どこかの砦の一室と言われても信じられるような造りをした部屋の中には、一人の老婆がいた。裾がほつれたぼろいローブを纏った老婆は、ジュリアスを見るなり、ひひと喉奥で笑った。
「やあ、王様……いいや、いまはもう我々と同じ、文無し、土地無しの庶民以下さね……」
「……なんだと」
認めがたい、しかしこの数日をかけて受け入れさせられた絶望的な現実を改めて突きつけられ、ジュリアスは鼻白んだ。
「僕はヴェヌスタリスの王家の血を引く、正当な王位継承者だ! それを庶民以下など」
怒鳴るように言ったつもりだったが、喉から出たのは掠れ切った声で、言葉はほとんど音になっていなかった。老婆はまたしても喉奥で笑い、
「そうさね、その血ばかりは価値がある……何よりも、誰よりも価値があるのさ」
「なに……」
「王様、あんたの価値がお分かりかい? その血にいかなる価値があるのか、貴方様は知っているのかね?」
何の話だと言い返そうとしたジュリアスを、遮るようにシルヴィオが口を開いた。
「問答をしている時間は無い。北のファレン砦を落とす。そのための戦力はどうなっている」
「……ファレン砦?」
あんな場所を落としてどうするつもりなのか、とジュリアスは問おうとした。しかし、乾燥しきった喉はついに限界を迎え、その口から出たのは言葉ではなく咳となった。
「坊主、話は飲み食いしながらでもできるさね。さあ、そこに座りな……あんたたちに必要なのは、情報より先に、飯と水さ……」
シルヴィオは不満げに溜め息を吐いたが、異議は唱えず、黙って手近な椅子に座った。ジュリアスもそれにならう。椅子は多くあったのでどこに座っても良かったのだが、広い部屋――恐らく食堂だろう――で距離を取って座るのも何か不自然で、結局ジュリアスはシルヴィオの隣に腰を下ろした。
席に着く間に、老婆は水差しと木のゴブレットを隣の部屋から持って戻って来た。シルヴィオが自分の分だけ水を注いだので、ジュリアスも自分で水をゴブレットに注いで飲んだ。水は冷え冷えとしていて、干からびた喉には酷く甘く感じた。
「……王として傅かれているのに慣れていると思ったが、最低限のことはできるようだな」
唐突に見下したようなことを言われ、ジュリアスはむっとしてシルヴィオを見た。
「君は無礼だ。僕が王族かどうか関係なしに」
「それは失礼。しかし虜囚など得てして不作法なものだろう」
「それもまた、無礼だろう」
礼儀や常識を知らぬから虜囚になるのではない。そうなるか否かは、ただ罪人であるかどうかだけだ。もちろん、義も礼も知らないような者だからこそ罪を犯すものなのかもしれないが。少なくとも彼の態度は、虜囚であるかどうかは関係が無いように見えた。
「王族に恨みがあるのか」
思いついたことを、率直にジュリアスは聞いた。見透かされるとは思ってもみなかったのだろう。シルヴィオは目を見開いていた。
「……話す義理は無い」
「何故?」
「お前の知ったことではない。私からお前に求めるのは、お前たち王家がしてきたことの落とし前をつけることだけだ」
「落とし前……それはいったい、何を指している?」
尋ねた瞬間、ゴブレットを持つ武骨な手に血管が浮くのをジュリアスは見た。
「分からないのか?」
「…………」
「ならば教えてやる。お前たち王族は、長らくに渡って民に重税を課し、贅を尽くしてきた。異種族の民、異教の者を弾圧し、意に添わぬ者は全て牢獄送りにしてきた。その無念の屍の数が、いかほどのものか――」
「待て。それは先王の時代の話か?」
ジュリアスにとって、シルヴィオが語った話は寝耳に水、一切聞き覚えが無い話だった。各地に視察に赴いたこともあったが、どの都市もすべて栄え、重税にあえぐ民などいなかった。王都には異教の民の街、異教の聖堂もあった。とてもではないがシルヴィオの言うことは信じられない。しかし、それは嘘だと言うには、シルヴィオの表情はあまりにも鬼気迫るものだった。
「お前はその血で、その血筋の愚行を洗う。そのために私は、お前をわざわざあの牢獄から連れ出したのだ」
「……それに従わなければ、どうなる」
シルヴィオは口元に歪んだ笑みを浮かべた。といっても、ほとんど髭に隠れて見えなかったが、それでも笑ったことが分かるほど、口角が上がったのが見えていた。
「四肢を全て切り落とす」
冷ややかで平板なのに、喜色が滲む声にジュリアスはぞっとした。およそ正気ではない。あるいは憎悪に狂っているのだろう。もはや彼にとって自分は王でないどころか、人ですらない。何らかの目的を果たすための、道具でしかないのだ。話は通じそうに無い。ジュリアスは口を閉ざし、老婆が戻ってくるのを待った。
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