天祐の王と烈火の騎士
羽生零
プロローグ:王位簒奪
大理石と漆喰で形作られた白亜の宮殿――ヴェヌスクラムの一角に、ひと際美しくそびえるペルティア大聖堂があった。大聖堂の前には儀仗兵がずらりと並び、民の中から選ばれた乙女たちが、純白のドレスを纏って百合の花びらを散らしていた。
儀仗兵が順列を作り囲む道には深紅の絨毯が敷かれており、そこを、一人の青年が歩いていた。
体格に見合わぬ、重たげな、深紅のマントが冬の冴え冴えとした風の中に翻る。黄金の竜の刺繍が施されたそのマントを羽織ることが許されるのは、ただ一人。ヴェヌスタリスの王のみ。
ジュリアス・フェーリ・ヴェヌスタリスはこの日、戴冠を迎える。
――そのはずだった。
しかし、教皇メルセデスが、その手で跪いた王の頭上にまさに王冠を授けようとしたまさにその時。
「待たれよ! この戴冠の儀は即刻打ち切りとせよ!」
一人の男が兵を伴い大聖堂へと現れた。ジュリアスはおもむろに立ち上がり、振り返ってその男を見た。
「何事かヨハンネス。戴冠の儀を差し止めるなど、我が伯父といえど無礼であるぞ!」
「何が無礼か! 民をたぶらかす偽王め、貴様の悪事はもはや隠し通せぬ! 神妙に縛に付くがよい!」
ヨハンネスの一括にジュリアスが唖然としていると、あれよと言う間にその周囲を、兵たちが取り囲んだ。彼らの胸元には紅玉の徽章が輝いている。紅徽章を掲げる騎士はヴェヌスタリスにおいて、最も精強な騎士団の一つだった。彼らを止められる者は、この場において存在しなかった――王でさえも。
「国家反逆の徒、ジュリアス・フェーリを捕らえよ!」
ジュリアスが反論に叫ぶよりも先に、その身柄は拘束された。ジュリアスは、王侯貴族と司教らが見る前で、国家反逆という最大級の汚名を被り、そしてそのまま投獄されたのだった。
獄に繋がれたジュリアスは、もはや王どころか王族としてすら扱われなかった。無実を訴えようにも口には猿轡を噛まされ、日に一度、食事の時にだけそれを外される。与えられる食事も、しなびた麦や野菜クズが放り込まれた、味のしない汁だけだった。獄吏らは何も語らず、牢獄は常に冷たい沈黙に満ちていた。
時折、ジュリアスは怒りや憎しみに唸り声を上げた。しかしどれほど唸ろうと、声は虚しく石壁に反響するだけだった。牢には誰も訪れなかった。尋問も拷問も無く、弁明のひとつも許されなかった。
(僕は、このまま死ぬのか……)
三日、四日と日が経ち、ジュリアスはじわじわと死の気配を感じ取っていた。何もされずともこのまま獄死するのではないかと、薄い恐怖と深い絶望に徐々に溺れていった。他の牢にも囚人がいるのか、時折嘆きにむせび泣くような声が聞こえていた。牢獄には死と絶望が満ちていた。
それからさらに一日が経った。
「ジュリアス・フェーリ。お前の処刑が決まった」
それを告げたのは、ジュリアスの伯父ヨハンネスであった。ヨハンネスは、あの戴冠の儀の日と同じように、深紅の軍服に身を包んでいた。胸元には元帥であることを表す、金の星の勲章が輝いていた。方やジュリアスは、みすぼらしいぼろ布一枚だけを纏っていた。王どころか、まともな囚人の衣装ですらない。だが、もはやそれに憤ることすらジュリアスはしなかった。天井から釣り下がる鎖に両腕を拘束され、無気力に垂れ下がっていた。
「処刑の日取りは、明日の朝とする」
宣告された言葉にも、打ちひしがれたジュリアスは反応しなかった。死が目前に迫るというのならそれで良かった。牢は冬の寒さに凍てつき、指先の感覚ももう無い。もはや死んだも同然で、この苦しみと絶望を終わらせてくれるのならば、もう何でも良かったのだ、ジュリアスは。
ジュリアスはその日、
久しぶりに安らいだような心地ですらあった。何もかもが終わったのだと、少しほっとしたような心地だった。
しかし、そんな眠りは朝まで続かなかった。
耳元で、甲高い金属音を聞いてジュリアスは目を覚ました。カン、カンと耳をつんざくような音が響くたびに腕が揺さぶられる。やがてガツンと音が鳴り、右腕が重力に従って落ちた。それに続いて左腕も解放され、やっとジュリアスは異変に気付いた。半分ほど眼球を隠していた目蓋を持ち上げて見ると、自分と同じようなみすぼらしい布切れを纏った男が見えた。何者かと問いかけようとしたが、猿轡に阻まれ何も言えなかった。
「シルヴィオ様、お早く」
牢の外から声がかかった。シルヴィオ、という名にジュリアスは引っかかりを覚える。聞いたことのある名だった。だが、どこで聞いたのだったか――思い出す前に、シルヴィオに体を抱え上げられた。
無抵抗にジュリアスは、シルヴィオに連れ去られた。男はひげ面で髪も乱れ、薄汚れた風貌ではあったが、体格は鍛え上げられ立派なものだった。ジュリアスを抱え上げて歩くその足取りもしっかりとしたもので、しかも足音がほとんどしなかった。
「こちらです、シルヴィオ様!」
誰かの鋭い声が聞こえた。いつの間にか周囲は騒がしくなっていた。あちこちから獄吏の怒号が響き、剣戟の音も聞こえてくる。ジュリアスは頭を持ち上げ周囲の様子を見た。が、シルヴィオが走っているせいで視界がぐらぐらと揺れ、ろくに何も見えなかった。ただ、光の明暗だけは見て取れた。
壁の燭台の火が投げかける、弱々しい灯火の光がしばらく見え、そして暗闇に包まれる。数秒闇の中を進むと、やがて薄明かりが道の先から差し込んできた。
ひゅう、と冷えた風を感じた。凍えてもはや何も感じなくなっていたはずの体が、冷気に鳥肌を立てた。
「雪か。面倒な」
シルヴィオは天を仰いで呟く。そして、一度止めた足を再び動かそうとした時だった。シルヴィオの目の前に、すっと人影が現れた。頭の先から足先までを白装束で包んでいる。神官の出で立ちだった。
「シルヴィオ様。こちらにお着換えください。ジュリアス様にもこちらを」
「ありがとう。こちらは私一人で十分だ。アニス、お前はもう戻れ」
アニスと呼ばれた神官は、一礼すると足早にその場から立ち去った。シルヴィオは一度ジュリアスをその場に下ろすと、アニスが渡した衣服を手早く着込んだ。ジュリアスにも服を着るよう促したが、ジュリアスは指一本すら動かさない。シルヴィオは屈み込むと、ジュリアスの口を塞いでいた猿轡にナイフを入れて剥ぎ取り、そしてその頬を張った。
「っつ……! 何をする!」
「さっさと服を着ろ。お前はもう王では無い。座っているだけで服を着せてもらえると思うな」
冬の空気に劣らぬ冷え冷えとした声に、ジュリアスはびくりとして、そして僅かな怒りを感じた。
「どうして僕が、こんな目に……」
ぼやきながらも服に袖を通した。手袋まであるその衣装一式に身を包むと、体がじわりと温もったような気がした。そして、同時に耳と指先に、軽い痛みも覚えた。顔をしかめていると、シルヴィオに腕を引っ張り無理やり立たされた。
「ここからは自分の足で歩くんだ」
「どこに……」
「北にある町だ」
手短にシルヴィオは言い捨てた。北の町、と聞いもジュリアスはすぐにどんな場所なのか、思い至らなかった。歩けと言った以上、歩ける距離にはあるのだろう。しかし、自分が放り込まれた牢獄は宮殿から西の荒野の手前にあり、そこから北には町など無かったはずだ。北の町とはいったいどのようなところなのか――ジュリアスは尋ねようとしたが、喉が渇いて舌が回らなかった。先に歩き出したシルヴィオと距離も離れ初め、仕方なく、黙って歩くことにした。
冬の凍った土を踏みしめて北へと向かう。服を着た時に感じた温もりは、ほんのひと時のものだった。血も骨も凍てつくような寒さ、そして一週間近く獄に繋がれていたせいで萎えた筋肉は、百歩も歩かないうちに悲鳴を上げた。
「もう無理だ、歩けない」
ジュリアスは何度も泣き言を言った。だが、それに対するシルヴィオの言葉は冷徹なものだった。
「復讐も果たせないまま、惨めに死ぬつもりか」
そう言われても、ジュリアスは僅かな怒りこそ感じたものの、寒さを吹き飛ばしてひたむきに歩けるほどの情熱までは抱けなかった。前を行くシルヴィオにどうにかついて歩くが、その歩みも、やがて鈍くなり、ついには止まってしまった。ジュリアスがその場に膝をつくと、シルヴィオは舌打ちをしてジュリアスを肩に担ぎあげた。
雪に染まる白い大地が、上下逆さまにジュリアスの目に映る。東の空が鈍く光る。夜明けが来ていた。しかし、東の空よりも、南の方がなお明るく見えた。ジュリアスが捉えられていた監獄から、火の手が上がっていた。
――脱獄したのだ。
ジュリアスは今更、ぼんやりとそのことに気づいた。自分もこの男も、牢破りを果たしたのだ。どうやったのかは分からないが、外部からの手引きがあったことは確実だろう。
(けど、逃げ切れるはずがない)
シルヴィオの肩の上でジュリアスはそう思った。やがて追手が出され、自分たちは捕まるだろう。あるいは、シルヴィオだけは逃げ切れるかもしれない。だが自分は無理だ。一週間近くも鎖で繋がれ、食事もろくに取っていない。弱り切った体では走ることもできない。元より生き残ろうという気力も無かった。王位を奪われ、王宮を追われ、自分には何も残っていない。これから生きて行こうにも、脱獄囚となった自分が、どうやってまともに生きていけるというのだろう?
(そもそも……何故、この男は僕を連れて行こうとしているのだろう……)
文字通りのお荷物でしかない自分を。わざわざ連れて行くには何か意味があるはずだ。少なくとも、親切心で運んでいるようには見えなかった。ジュリアスは少し考えてみたが、やがて考えることにすら疲れ果てて意識を飛ばした。
ぐったりと重いジュリアスの体を、シルヴィオは一瞥した。白いフードから覗く、太陽の如しと湛らえていた黄金の髪は薄汚れてほつれ、見るも無残だ。自分の黒髪も同じようものだろう。しかし、この明らかに囚人と見えるみすぼらしい身なりは、もはや珍しいものではない。
視線を前に戻し、無言でジュリアスは歩き続けた。
――やがて、地平の向こうに枯れ果てた草木以外のものが見え始めた。
それは家ともつかない建物だった。ぼろ布と板切れを継ぎ接ぎして作られたバラックの群れがそこにあった。その輪郭がはっきりとし始めたあたりで、シルヴィオはジュリアスの背を叩いた。
「起きろ。ここからは自分の足で歩け」
ジュリアスの体を投げるように地面に下ろすと、ジュリアスは地面に一度倒れ込み、よろよろと立ち上がった。
「……あれは……なんだ」
「町だ。といっても、お前が兵を引き連れ見た町とはまるで違うだろうが、な」
ジュリアスは呆然と、町と言われたものを見た。ジュリアスの目には、それは町としては映らなかった。もはやそれは、瓦礫の山のように見えた。
「あのジャイダの町がしばらくの拠点だ。装備を整え、同志を募る」
前を歩くシルヴィオが告げた。ジュリアスは無言だった。誰がどうしようが、関係ないと思った。いまはただ、硬い床でも冷たい土の地面でもいいから、横になって眠りたかった。
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