鹿と話す少年
@uz610muto
鹿と話す少年
東京から電車に揺られて一時間強、僕は待ちに待った今日を迎えた。渋谷の本屋でふと見かけた一冊の山歩きの本、それが僕をここまで連れてきたのだ。そう、今日こそが僕の登山デビューの日なのだ。
登山までのバスは、バックパックを背負ったお年寄りや、子ども連れの家族がちらほら乗っていた。皆、一応に顔を笑顔にし、日常から離れた冒険を心待ちにしている。
バスを降り、登山届を出して、早速山に入った。本で見たとおりのルート。だが、一ヶ所、普通のコースにはない道を織り交ぜてみた。地図を見ると、割と始めのコースに川を渡るとあるが、本に書いてある通りには真っすぐ行かず、右に逸れると滝が見られるのだ。二週間前に買ってきた本でルートを調べている時 ―マイナスイオンで癒されよう−そう思い、滝を登山コースに入れたのだ。
本で、確認しながらの登山だった。件の川のところに着いた時、気合を入れた。ここからは、登山ではない、僕の冒険だ。自分で責任をとらなくてはならないのだぞ。
草の生い茂る道を進み、1メートルくらいの岩場にさしかかった。足場を確認して登ると目の前の風景が晴れた。そこに思いも寄らぬ景色が広がっていた。
滝は荘厳であったが、滝壺の淵に一匹の鹿と少年が立っていて、互いに向き合っていた。
「キュン」
鹿が一声大きく声を響かせた。すると少年は、
「キュン」
と声を立てた。
すると、鹿は後ろを向き、坂を上がっていった。少年はやおらこちらを見た。少年は、歳の頃は十歳を少し超えたくらい、綺麗な服だったが、裾に少し泥がついている。
「おはよう。はじめまして」
少年がお辞儀した。
「こんにちは」
僕は返事した。
「どうしたの。一人?」
僕は、少年に声をかけた。
「実は、迷ってしまって、あの鹿さんに助けだされたんだよ」
と少年は答えた。鹿は、坂の上の方で、こちらを見ていた。少年は、
「キュン」
と言い、大きく手を振った。少年は続けた。
「父さんと母さんに会いたいんだけど、案内してくれる?」
と少年は尋ねた。僕は頷いた。
「わかった。バス停の所に店があったから、そこまで連れていくよ」
僕は少年を連れてゆくことにした。少年は、鹿の方を振りむき、大きく手を挙げ、
「キュン、じゃあね。無事に帰れるみたい」
と言うと、鹿は、
「キュン」
と鳴き、茂みの奥へと入っていった。
少年は、下までの道で今まであったことを話した。道をはぐれて鹿に会い、鹿の巣で眠ったこと。そこに小鹿がいて、その子と話したこと。作り話かどうかわからないが、この子が鹿と一緒にいたことは事実。僕は、この子の話を信じてみた。
下に辿りつき、両親から離れて道に迷っていた子を見つけたと話すと、係の人が何やら電話をかけた。一時間くらい待ったら、子の両親がやってきた。僕が同じように事情を話すと、いたく感謝されて、高級そうな菓子折りを渡された。
その日、僕は登山の続きをすることを諦めて、電車に揺られて家に帰った。
家で菓子折りを食べて、今日会った少年のことを考えてみた。世の中には、子供の頃、不思議な体験をする人もいるが、今日会った少年もおそらくそのうちの一人だろう。僕には、そのような経験はない。しかし、そういう話の中の登場人物になれただけで、何だか嬉しくなってきた。
夜眠る時、滝の光景と鹿の鳴き声が頭に浮かんできた。煌びやかな生生といた情景だった。だんだん、僕は安らかな意識へと下っていった。明日からは、また仕事だ。今日は、いい夢だといいな。そう思い。眠りの世界へと入っていった。 (終)
鹿と話す少年 @uz610muto
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。鹿と話す少年の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます