第3話 軍の薬


 本日の洋食はカレーだった。

 初めて食べた時は刺激の強さに毒物かと頼仁は慄いたが、今は慣れたのか好物の一つになっている。

 候補生や一般訓練生でごった返す中、頼仁の向かいの席に座っていた和孝は、そうだ、と声をあげた。


「さっきの授業中、俺面白い謎かけを思いついたんだ! 時計は時計でも、体の中にある時計ってなーんだ」

 突然そう聞かれて、頼仁は少し困惑しながら答えた。

「腹時計とかか?」

「あー、惜しい。正解は、のどぼとけいー」

「しょうもねえ! ってかそれは無理がある!」

 頼仁の右隣に座っていた喜直は悲鳴を上げた。

 左隣にいる藤子の肩が震えている。声をあげて笑いたいのを必死で抑えているようだ。


「今の、どういう意味だ?」

 全く意味がわからず、頼仁が尋ねると、和孝は堂々と答えた。

「だじゃれって知らないか? 同じ言葉を二つかける……あ、掛詞ならわかるか?」

「ああ。それなら」

「今回は喉ぼとけと時計をかけたんだ。だじゃれって庶民にとって教養の一つなんだぞ。何か一つ考えてみろよ」

「そうなのか。……急に言われると、難しいな」

 頼仁がむむ、と考えこむと。


「親王に余計なことを吹き込むな!」

 和孝の隣にいた忠佳は、和孝の頭を横から抑えた。勢いあまって和孝はごつん、と机に頭をぶつけ、痛そうな音が響いた。

 頼仁は忠佳に舌打ちする。

「親王と言うな」

 幸い食堂は喧騒に包まれているため、今の内容を聞き取った者はいないと思われるが、知られたくないというより知られると煩わしい、というのが頼仁の本心だった。


「忠佳、俺今飯食ってんだけど⁉ 喉詰まったらどうすんだよ!」

 忠佳は和孝の文句を無視して、頼仁に尋ねた。

「それよりお前はやる事があるのではないか?」

「俺が?」

「聞いてないのか? 本日は東宮様が直々に、鳥辺野基地に視察に来られるのだそうだ」


◇ ◇ ◇


「わざわざ呼び出して、一体何の御用ですか兄上様?」

 頼仁は上級将校のみが利用出来る洋室の応接間にて、不機嫌な面持ちを隠さずに尋ねた。

 本来ならば午後の訓練中であり、開いた部屋の窓からは教官らしき者の掛け声が聞こえていた。

 革張りの椅子に向い合せに座る信仁は、苦笑交じりに答えた。


「こうでもしないと、なかなかお前に会えないからね」

 信仁は次代の帝として幼い頃から帝王学を受けているが、元々身体が弱く、体形も細身だ。本日は軍服を模した黒い洋装姿だが、見慣れないせいかあまり似合っていない。

「突然入隊させられたから……本当に心配していたのだよ」

「身体が丈夫なだけが取り柄ですので、心配は無用です。兄上様の心を煩わせるような事はございません」

「辛い思いはしていないかい? もしもお前が望むなら、父上か参謀総長殿に言って御所に戻る事も……」


「そのような事、必要ございません!」

 頼仁は思っていたよりもずっと強い言葉で返してしまった。

 それほどまでに頼仁は、彼が好きではなかった。幼い頃から女官らにかしずかれて大事にされ、今も父や周囲の言いなりだ。

「頼仁がそう言うのなら」

 相手が強く出ればすぐに引いてしまう。そういったところも、頼仁は特に合わないと思っていた。


「本日の視察はいかがだったのですか」

 ぶっきらぼうながらも頼仁は尋ねる。頼仁が話を続けようとする意志が見られたからか、信仁は少し嬉しそうに微笑んだ。

「施設の案内と、訓練の見学と、そうそう、軍の研究成果を見せてもらったよ。

 薬の開発に力を入れているんだって。『非時香果トキジクノカク』というものでね、人間の治癒力を高めたり、筋力の増強を高めたりする効果があるんだ」


「トキジクノカク……? 奇妙な名称ですね」

「由来は、日本神話の異界の実の名称だね。不死身の実とも言われている。あくまでも名称だけどね」

 ふと頼仁の脳裏に、先日の謎の男の姿が蘇った。


「……それは私に話して良いのですか。軍の機密事項では?」

「遅からず頼仁も知る事になるよ。将来、この国に立つ者の一人として」

「私は以前、その薬の効果を有した男を見た事があります。兄上、それはどうやって作られた薬だったかお聞きになりましたか」

「……治験と説明されたよ。その、有志で協力を得た者から……でもあまり詳しくは……」


「人体実験だったんですね」

 信仁はぐっと詰まった。

 頼仁は歯を食いしばると、立ち上がる。

 頼仁も何故、この国が富国強兵を推し進めているのかわからないわけではない。

 元々は開国したばかりの頃、搾取しようとする列強からこの国を守る為だった。父である今の帝が即位してから、この政策になったと聞いている。

 だが、今やそれは他国を攻める事を想定した軍事教育なのだ。


「兄上、そもそも帝の本来の役割は国民の安寧を祈ることです。それなのに命を賭して他国の者を殺せ、と命じ、戦う身体を作るための実験を行う。私達は何故そんな事に身を埋めなければならないのですか」

「前々から思っていたのだけど……頼仁も父上と方法は違うけど、国を本当に大切に思っているんだね」

「は?」

「でないと、そんな言葉出てこないよ」


 頼仁は殴られたような衝撃を受けた。反発している父と同じだと言われた事に。

 自分は帝とは違う。国民を道具のように扱い、国の利益となる事を考えているだけのあの男とは。

 頼仁は思わず叫んだ。

「あなたのそういうところ、俺は大嫌いだ!」



 その後も頼仁の苛立ちは収まらなかった。

 兄の言動は悪気がないだけに余計に腹が立った。

 夕食後の自由時間、怒りを冷ますために渡り廊下で夜風に当たっていた頼仁は、ふと風に乗ってよく知った声が聞こえてくる事に気付いた。



 校舎の外に出て霞がかった月を眺めていた藤子に、朔弥はゆっくりと近付いてきた。

「今日もお疲れ様。英国の紅茶をもらったんだ。一緒に飲まないかい?」

 朔弥は両手に持っていた陶器のカップのうち、片方を藤子の前に差し出した。

「ありがとうございます。不思議な香りですね」

 受け取った藤子はカップを鼻に近付けた。

 ふわりと、花のような深い香りが鼻腔を駆け抜けた。


「珍しいだろう? 諸外国ではこういうのが飲まれているそうだ。飲んでみて」

「ええ。……これは、美味しいのですか?」

 口をつけた藤子は首を傾げた。茶葉の香りの中に独特の甘さと苦味を感じる。

「異人好みの味なんだろう。まあ、藤子の味覚も大概変わっているからな」

「そうでしょうか……?」

 変わっていると言われ、微妙に納得のいかない様子で藤子はむむっと眉根を寄せる。


 そんな彼女の様子に、朔弥は一度笑った。それは上司の前で見せる愛想笑いではなく、彼女の前でしか見せない、目元を和らげた笑みだった。

 そして月を見上げながら、朔弥は尋ねた。

「藤子、実家に戻りたいって思うことはないかい?」


「そうですね……桜子や兄上に会いたいと思う時もありますが、私はここで頑張ろうと決めたので。それが縁談をお断りした私のせめてもの九条家への償いです」

「あれは父と奥方様が悪いよ。相手の地位と財産しか見ていない。お前の幸せを考えたら、俺は断って正解だと思うね」

「ですが……」

 藤子は申し訳なさそうに目を伏せる。朔弥は安心させるように肩に手を触れた。


「考えたのだけど、俺のもとへ来ないか。苦労をさせないとはまだ言えないけど……大事にする事は約束するよ」

「兄様はいつも私の事を考えて下さりますね。でも私はこれ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいかないので」

 藤子は柔らかいが、きっぱりとした声音で返した。


「就寝時間なので、これで失礼しますね。紅茶、ごちそうさまでした」

「ああ。カップは片付けておくよ」

 朔弥は瞳に少し残念そうな色を浮かべたがそれ以上言い募ることはせず、藤子のカップを受け取ると、そのまま歩いて行った。

 藤子も宿舎に戻ろうと足を踏み出したところ。


「いいのか」

 その声に藤子は驚いた。

 校舎の壁の暗がりに頼仁が立っていたのだ。

「悪い。話が聞こえてきた」

「じゃあ、何故私がここに来たのか、ばれてしまいましたね。……お恥ずかしい話です」

「いや、俺は少なくとも、お前にここで会えて良かったと思っている。……どこかに嫁に行ってなくて、良かった」

 頼仁の本音らしい言葉に、藤子はほんのりと口元を緩ませた。


 並んで渡り廊下を歩きながら、頼仁は尋ねる。

「でも、いいのか。人に銃を向ける事が怖いって言っていたのに、何故ここに残る事にしたんだ」

「私はただ……自分の生き方は自分で決めたい、頼仁さんの話を聞いてそう思ったんです」

 藤子は、横髪をすくって耳にかけた。そしてにっこり笑った。


「この国を内側から変えるというあなたの志に、とても心惹かれました」


 思いがけない言葉に、頼仁は息を吸って視線を上げた。彼女の一言が温かくて、涙が出そうになったからだ。

 いつも反発ばかりしていると言われていた。

 頼仁の思いを誰かに認めてもらうのは、初めてだった。


 すると。突然隣を歩いていた藤子の足の力ががくり、と抜けた。

 咄嗟に頼仁は彼女を支えた。

 頼仁の腕に彼女の体重がかかり、柔らかい藤の花の香りが、いっとう強くなった。

 顔が近くなって、彼女のまつ毛の長さや、唇の形がよく見えて、頼仁の心臓が跳ねた。


「あっ」

 我に返った藤子は慌てて離れた。暗闇だが、少し顔を赤らめているのがわかった。

「ごめんなさい、なんだか……急にふらついてしまって……。もう、宿舎に戻りますね」

「……ああ。気を付けて戻れよ」

 全力疾走する心臓を抑え付けながら頼仁は答える。


 藤子を見送った頼仁はゆっくり息を吐くと、口元を抑えて座り込む。

「……驚いた」

 鼓動が収まらない。熱が全身に駆け抜ける。

 この胸の高鳴りは。気付いていたけれど、こうも抑えきれないものなのか。

 切なくて、この温かさが今の頼仁には酷く苦しかった。


 翌朝。九条藤子と九条朔弥は、鳥辺野基地から姿を眩ませた。

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