第2話 藤子の兄
木造校舎の教室内、頼仁は昨日の寝不足を補うように机にて突っ伏していた。
「頼仁。昨日大丈夫だったか?」
ゆさゆさと肩を揺らしてそう声をかけたのは、
頼仁とよく似たまだ少年の体格で、栗鼠のような丸い目でこちらを見つめていた。
彼も士官候補生の一人であり、頼仁の所属する京都組の一人であった。
士官候補生は各地方の成績優秀者、華族、官僚の一員などから選ばれ、この基地の教育を受けている。
連帯感と競争心、また個々の能力を伸ばす為、出身地ごとに五人組を形成し、成績もその組ごとに付けられる事が多い。
「大丈夫だ。大丈夫だから揺らすな」
頼仁がねめつけると、喜直は悪びれずに笑った。
「急に訓練が中止になったから、心配していたんだぞ」
同じく京都組の
刈り上げた髪に肩幅広くがっしりした体格で一見威圧感のある十八歳だが、人懐こくて年上ぶったりしない為、接しやすい人柄であった。
「ああ。少し……色々あったんだ」
頼仁は詳細を言えずにそう濁した。
「はっ、お前がまたへまをしたのかと思ったぞ」
隣の席に座っていた
彼も京都組の一人で、目元までかかる黒髪に、端整な顔立ちをした和孝より一つ年下の十七歳の若者だ。
「うるさい」
ちっと頼仁は舌打ちした。
忠佳は
その為、帝の直系である頼仁が気に入らないのか、ことあるごとに憎まれ口を叩き、それを真に受ける頼仁とよくぶつかった。
「そんな事ないですよ。頼仁さんの咄嗟の判断があったから、二人とも負傷する事なく済みましたから」
斜め前の席にいた藤子は、そう言って自然に会話に入って来た。
褒められ慣れていない頼仁は、腕を組んでふいと横を向いた。くすぐったくて、落ち着かない。
何があったのかと詳細を聞こうとする喜直を、藤子は上手くごまかしている。
藤子も頼仁も、同じ京都組の仲間とはいえ昨日の一件を話す事は出来なかった。
昨日の男は軍のとある研究の為に連れて来られた男だった。
藤子の兄朔弥は、今夜見た事は内緒だと、二人に告げた。
彼はその研究の為に、一時的に鳥辺野基地に来たのだという。
錯乱状態だった男の様子や軍の研究。その怪しげな様子に頼仁は不信感を抱いていた。
鐘が鳴り、皆は急いで席に着いた。その直後に、二十代後半の男性教官が扉を開けた。
踵の高い長靴に、うねりのある黒髪。男性ではあるが濃い化粧をし、やや垂れた目尻はそこはかとない怪しさを醸し出している。
「皆さん、揃っているようですねえ。どうやらお仕置きは必要なさそうでなによりです。さて、本日から新たな教官補佐として、皆さんの指導に加わる者がいます。紹介しましょう」
頼仁の目が据わった。
教室に一人の青年が入って来た。
「九条朔弥です。今日から教官補佐として、この基地に派遣されました」
表向きの役職で紹介をされた九条朔弥は、穏やかに口元だけ笑みを浮かべた。
頼仁はもやもやとした気持ちを抱えながら、校舎の廊下を歩いていた。
朔弥はとても優秀な教官補佐だった。加賀地の無理難題も事前に準備していたのか次々とこなし、生徒および頼仁に対しても助言が完璧であった。
外国語の授業にて、英語の発音を注意された頼仁に、朔弥はイギリス英語ならばそれで正解であり、そもそもその言語の発祥は英国であり上流階級の言葉であると説いたのだ。
高貴なるお方はアメリカ英語よりイギリス英語の方が馴染み深いのでしょう、と言われたがもちろん頼仁は知るわけがなかった。
雨漏りした屋根を直せと教官から言われ、次の瞬間どこからか調達した釘と金槌を持って屋根に駆け上がった姿を見た時は、教官補佐とは、と思わざるをえなかった。
大体、教官補佐とは表向きの理由で、彼の本来の派遣理由は研究協力のはずだ。確か。
「そもそも藤子もだけど、九条家なんて五摂家の一つだから、いくら権威が以前より落ちているとはいえ、軍で使い走りをされるような必要はないはず……」
藤子は軍では
頼仁も偽名を使用しているから、出自が発覚した時も特段驚きはしなかったが、五摂家といえば、古くから公家の家格の頂点に立つ家柄だ。
かつて政治の中枢や太政大臣などはその家柄の者が務めてきたし、皇后の排出も多くは宮家か五摂家からであった。
「何かあの二人には理由があるのか……?」
朔弥が来てから二週間、藤子の様子はいつもより嬉しそうに見えた。
それが何故か頼仁にとっては面白くなかった。
彼女の笑顔を見るのは嫌いではない。
御所にいる時に周囲から感じた機嫌を伺う笑みとは違う、心温まるものだからだ。
でも、何故か今はとても、もやもやする。
廊下の先の掲示板には、先日の試験の成績上位者名が貼り出されていた。
御所での教育の賜物か頼仁の成績も比較的悪くないが、藤子の合計点数はそれを上回っていた。
思い返せば、この間の謎の男に襲われた時も、彼女に助けられた。
軍を、国を変えたいと大きな事を言いつつ、頼仁は何一つ彼女に勝てない自分が嫌になった。
「……本当に何でも出来るんだな」
「もし藤子が何でも出来るように見えるのなら、それは勘違いですよ、宮様」
突然背後から聞こえた声に、頼仁は驚いた。
声の主は朔弥であったが、近付いて来る気配がほとんどなかったからだ。
「っ⁉ ……そういやお前、何故俺の素性を知っているんだ」
京都組の五人は、忠佳の言動から頼仁が親王である事を知っている。
だが、軍では頼仁は『秋津』という姓を使用している。
京都組以外の者も頼仁が訳ありである事に勘付いているようだったが、直接言及してくる者はいなかった。
「これは失礼致しました。加賀地教官から伺いまして。同時に特別扱いをする必要もないと言われましたが」
「じゃあすぐにその喋り方をやめろ」
朔弥は、君がそれでいいのならそうしようか、と返した。
「彼女は昔から妹より、勉学もお稽古事も器用にこなせなかったよ。持久力はあるけれど、運動神経も良いわけではないんだ。そう見えるのは、ひとえにあの子の努力の賜物だ」
窓枠にもたれながら、朔弥は話した。この男とこの近さで話すのは、あの初めて出会った夜以来だ。
「藤子って妹もいたのか」
「四人兄妹だ。俺の上に兄が一人、下が藤子ともう一人妹がいる。異母兄妹だけど。器用な妹に比べて藤子は手習いを上手く書けなくて、良いと言うまで書き取りをしろって言われていたな」
頼仁は思い出した。良い成績を残しているのに、訓練の時、他の者が休んでもひたすら走り込みをしている姿を。相手の銃を奪う方法を習った時、女性教官に何度も手ほどきを受けているのを。
「……前に結び飯をもらったんだけど、すごい味がして……あいつにも出来ない事があるんだと思ってしまったんだ」
「藤子の手作りだったのかい? なら、今度はとても美味い物に仕上がるだろうな」
「あ、九条先生!」
軍内でも数少ない女子が、数人廊下の端から現れた。その中には藤子もいる。
朔弥は一瞬愛しい者を見る目で、藤子を見つめた。その変化に頼仁は気付く。
けれどそれは本当に瞬き一つの合間で、次の瞬間彼は教官補佐の表情に切り替えた。
「どうしましたか」
若くて優しい男性は軍では貴重であるため、朔弥はあっという間に女子に囲まれる。
頼仁は一瞬だけ見えた朔弥の表情の変化と、そして同時に自分の中に生じている感情の正体を探った。とても焦燥感を覚えたからだ。
「頼仁さん」
藤子に顔を覗き込まれ、頼仁はばっと顔を上げた。
「……どうした?」
いつの間にか、藤子は他の女子から離れて頼仁の傍にやって来ていた。
余談だが、頼仁より藤子の方が背は高いため、目線を合わせるには必然的に彼女が少し傾いだり、頼仁が顔を上げたりしなければならない。
意識すると、彼女から匂い袋の香りがしているのがわかる。
これは藤の花の香を調合したものだそうだ。
今までそんな事なかったのに、その香りに何故か頼仁は緊張した。
藤子はそんな頼仁の様子に気付く事なく、内緒話をするように囁いた。
「良かったら一緒に食堂行きませんか。今日は洋食の日なんですって」
「兄さんや他の者はいいのか」
「はい。お邪魔したら悪いので」
という事は、兄がいるから機嫌が良いのは無意識だったのか。
あんなにもやもやしていたのに、彼女の些細な言葉でささくれた気持ちが嘘みたいに解けていく。
どうしたのかと不思議そうに問う藤子に、頼仁は首を振る。
「いや、何でもない。食堂へ行こう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます