それは藤の花のごとく
@murasaki-yoka
第1話 士官候補生の訓練
日本皇国。その最高位につく帝が日常を過ごす御殿の一室は、一触即発の空気が漂っていた。
伝統と格式の高さが調和した日本皇国独自の建築様式である御所。
外観は寝殿造りだが、内部は畳が敷き詰められた書院造りとなっている。
その広間に座す帝の御前に、紺の直衣を纏った少年が召し出されていた。
まだ幼さの残る面差しに、勝ち気な力強い瞳が印象的である。
本来ならば女官の手によって丁寧に整えられるはずの黒髪は乱雑に一つに結ばれ、背中に流していた。
比類なき栄誉である謁見だというのに、彼の表情は不機嫌の極みで、不躾にも目の前に座している帝を睨み付けていた。
一方の帝はそれを気に留める様子もなく、彫刻のような冷めた面差しで彼を見据えていた。
淡い色の袿を肩にかけた軽装だが、布地には光沢があり一目で上質の代物だとわかるものであった。
「何故お前が呼び出されたのか、わかっているな」
帝は腕を組むと、何の感情もこもらない、無機質な声で尋ねた。
対して少年の瞳は鋭さを増した。
「さあ。心当たりが有りすぎてわかりませんね。一体何が、細かい事を気にされない寛容なお父上様の気に障ったのか」
父上、と呼ばれた帝は、嫌みしか含まれていない息子の返答に、表情一つ変えなかった。
少年はたたみかける。
「そもそも息子に一切の関心を払わなかったあなたが、今さら世継ぎでもないこの頼仁に一体何の用で?」
帝の第二皇子、御年十四になる
今、この場には帝と頼仁以外誰もいない。全ての従者を下がらせている。呼べばすぐに応じる位置にはいるのだが、姿は見えない。
その為、頼仁の無礼な物言いをたしなめる者は誰もいなかった。
眉一つ動かさない帝と慇懃無礼な態度を崩そうとしない親王。
この二人の間には、親愛の情など存在した事がなかった。
「頼仁。お前は以前からこの国のやり方は気に入らないと反発していたな。参謀総長に対し、権威を振りかざし好き勝手していると物申したと聞いている」
「事実ですので」
悪びれない息子に、帝は冷酷な瞳でねめつけた。
「お前を切り捨てるのは簡単だ。だが利用する方が、遥かに無駄は少ない。──頼仁、軍に入隊をしろ。これは勅命だ」
「なっ⁉」
予想外の処遇に頼仁が息を呑んだ瞬間、背後から青年の声がした。
「お待ち下さい」
帝は視線を滑らせる。
全ての者を下がらせているはずの御簾の向こうから、一人の直衣姿の青年が入室した。
「御呼びでもないのに、この場に足を踏み入れた無礼をどうかお許し下さい。ですが、頼仁については寛大な処遇をお願いしたく」
青年はゆったりとした動作で平伏した。
高い位置で括った長髪がその動きに合わせてさらりと揺れた。青年の線の細い容貌から覗かせる瞳は穏やかだが今はそれに加え、憂いをはらんでいた。
彼は先日、東宮として正式に宣旨を受けた、七つ年上の兄である
頼仁は眉をぐっと寄せた。
昔から頼仁はこの兄が嫌いであった。
信仁は御所で居場所のない頼仁に唯一優しく接してくれる人格者だが、彼の元来の気の弱さからその優しさはいつも空回りし、頼仁を更に苛立たせていた。
頼仁は帝の方へ向き直った。
「……わかりました」
頼仁は袂に隠していた懐剣を取り出した。
黒の漆で塗られた鞘、菊の御紋が印された、最高峰の品だ。
これは頼仁が持っている母の唯一の形見だった。
頼仁は懐剣の鞘に手をかける。
「遅かれ早かれ消されるのなら……」
からん、と鞘を落とした。抜き身になった刃に映ったのは、己の冷たい瞳。
頼仁は後ろで一つに括っていた己の髪に刃を滑らせると、ざく、と断ち切った。
突然の暴挙に絶句する兄と顔色一つ変えない父を尻目に、頼仁は冴え冴えとした声で言い切った。
「俺の中で親王頼仁はここで死んだことにする」
◇ ◇ ◇
数ヶ月後。
春の夜の冷え切った空は、満天の星が輝いていた。
とある山間の常緑樹の茂みに、頼仁は身を潜めていた。
黒を基調とした簡素な訓練用の軍服は、防寒には心もとない。日常的に首に巻いている白い薄手の襟巻も、寒さを和らげる役割を果たしてくれていなかった。
近くに花が咲いているのか、ふわりと甘い匂いが漂っている。
現在、頼仁は軍の鳥辺野基地にて士官候補生の一人として訓練を受けていた。
鳥辺野基地は国内でも有数の軍の施設で、訓練施設だけではなく教育機関や研究機関を備えている。
元々京の死体処理場である鳥辺野を整備した土地であるため、山を含む敷地の広さに加えて、都の中心部から近いという利点もあった。
「俺達、いつまでこの状態で待てばいいんだ……」
頼仁が呟くと、隣から柔らかい女性の声が聞こえた。
「こちらも、どこから襲撃を受けるかわかりませんからね」
彼女の名は
女性用の軍服に、緩く波打つくせのある長い髪を一つにまとめ、横髪は垂らしている。頼仁より二つ年上だが、年齢よりも大人びた上品な顔立ちだ。
彼女も今、頼仁と同じように茂みに身を潜めている。
頼仁はちらりと藤子との間に置いている、手の平より一回り大きな木箱を見た。
「そもそも軍の機密ってこんな箱に入っているのか?」
今行っているのは野営の訓練の一つ、夜間への襲撃に備える実地訓練だ。
基地の裏山にて、各組一つずつ渡された木箱を重要機密に見立て、自軍のそれを守りつつ他の組の木箱を奪う事が課題であった。
候補生のみで動くため、各組に緊急時に危険を知らせる用の笛も渡されている。
頼仁と藤子以外にもあと三人同じ組の者がいるのだが、彼らは現在、他の組の木箱を奪うために別行動をとっていた。
頼仁の呟きに、藤子は困ったように眉を下げた。
「……うーん、あくまでこれは訓練なので。実際はもう少し厳重な保管や機密文章なのでしょうね」
頼仁と藤子は他の組の者に見付かりにくく、かつ近付く者を発見しやすいよう、深い木々と視界の開けた土地の中間にある茂みに潜んでいた。
「どこかの時間で休憩もとりましょうか。二人揃って体力を使い果たすわけにはいきませんから」
「休みたかったら、勝手にすればいいんじゃないか」
「わかりました。頼仁さんも疲れたら、交代するので休んでくださいね」
頼仁の突き放したような言い方にも彼女は特に気を悪くした様子もなく、当たり前のように返した。その反応に頼仁は少し戸惑った。
頼仁は御所では女官らに、腫物に触るような扱いをされていただけに、彼女の反応は奇妙なものに感じたのだ。
「そういえば、調理場の余ったお米でおむすびを作ってきたんです。良かったらお一つ、いかがですか?」
藤子は移動時に使う布製の横掛け鞄の中から、竹の皮で包んだ物を取り出した。
広げると、小さめの俵型の結び飯が二つ並んでいた。
頼仁は寒いのに、身体の一部が温かくなるような感覚を覚えた。
「……いいのか? そんなもの今日の訓練に持ち込んで」
「規則で持ち込んではいけないと書かれていなかったので。それに野営の訓練という事は、どこで休息や食事をとるか、自分達で判断しなければならないのかなって思ったんです。ちゃんと人数分作ってあるので、一つ取って下さい」
頼仁は無意識に襟巻を握った。
「ああ、……じゃあ一つもらうよ」
御所では毒見をしていない物を食べてはならない、と言われていた。
だが今はそういう事を気にしたくないと思い、頼仁は結び飯を一つ手に取り、一口齧った。
がりっという妙な音が頼仁の口の中からして、頼仁は思わず目を剥いた。
飯米にはあるまじき固さだ。一瞬毒を盛られたのか、もしくは砂か炭を入れられたのかと思ったが、舌に広がる味ですぐに正体に気付いた。
「これ、岩塩をそのまま入れたのか⁉」
「はい。塩分は大事なので」
頼仁は恐る恐るもう一口、運んだ。
物凄くしょっぱい。いや、塩辛い。こんな結び飯食べた事がない。
宮家育ちの頼仁が知らないだけで、これが非常食では普通なのだろうか。いやそんなことあってたまるか。
横目で見ると、藤子は普通に結び飯を口に運んでいる。
「藤子、悪い事は言わない。他の奴らには絶対これを食わせるな」
「え? わ、わかりました」
頼仁の忠告に、少し戸惑った声音で藤子は返答した。本当に塩辛い。
かといって食べられなくもないし、せっかく渡された物だからと心の中で言い訳をしながら頼仁は咀嚼を続けた。
何とか結び飯を食べきった頼仁は、星の位置から現在のおおよその時刻を割り出す。
この状態で待機してから、既に二時間は経過している。
その間、遠くから他の組らしき者達の争う音が幾度か聞こえていたが、こちらにはまだ人の気配は一切ない。
周囲は暗いが、月の光が明るいのは幸いだ。
藤子が微かに腕をさすったのを見て、頼仁は声をかけた。
「寒いのか」
「いえ、大丈夫です。私も襟巻みたいなのがあれば良かったんですけど。そういえば頼仁さんはいつも襟巻をされていますね」
「ああ。これは……」
頼仁は襟巻に触れる。少し迷ったが、隠すほどの事でもないので正直に話した。
「俺が宮家の者だと知っているよな? 皇族の者は皆、幼い頃しつけのために養子に出される事がしきたりで決まっている。
俺はその養子先でしつけ……と称した折檻をされて、その傷を隠す為に御所に戻ってからもずっと巻いていたんだ。傷を見られたくなくて世話されるのを嫌がっていたら、我が儘だって言われたよ。今は治っているけど、ある方が落ち着くんだ」
頼仁の話に、藤子は痛ましげな表情を浮かべた。
「そんな事が……辛い事に触れてしまってごめんなさい」
「別に気にしてない。俺も聞きたかったんだよ。お前はそうやっていつも俺に話しかけてくるけど、それは親王だからか?」
すると藤子は首を振った。
「それは違います。同じ仲間として、当たり前の事だからです」
その当たり前が、頼仁にとっては当たり前ではなかった。
女官に口を利かれない、父も自分を見ない、そんな凍えた屋敷に自分の居場所などなかった。
「俺は純粋なお前達の仲間にはなれないよ。帝や国の軍国主義に反発して、ここに入隊させられたからな。でも、だからこそ俺は決めたんだ。絶対にこの国を内側から変えてやるって」
「国を……変える?」
藤子は驚いて頼仁を見た。
「ああ、そうだ」
頼仁は口の端を上げた。その目には強い光を宿す。
「今のこの国は国際地位を少しでも上げるため、領土を広げたり戦争に参戦したりする機会を伺っているけど、俺はそんなやり方を変えたいんだ。戦争以外の方法を。結び飯の礼だ。特別に教えてやるよ。……秘密だぞ」
その瞳に魅入られかけた藤子は、慌ててこくりと頷いた。
「すごいですね。その点、私は……駄目ですね。砲術の訓練の時に教官に言われました。この銃弾を向けるのは、人であると」
藤子はうつむいて、目を伏せた。
「覚悟してこちらに来たけれど、やはり怖いです。国の為とはいえ、人に銃を向けるのは」
「ふうん。まあでも、そういう考えの奴もここでは必要だと思うぞ。同じように悩んでいる奴だっているだろうからな」
頼仁の言葉に、藤子がはっと目を開いた瞬間。
ざくざくと地面を踏みしめる音がした。
来た。開けた視界の向こうから、人影が現れた。
頼仁と藤子は息を潜める。だが、何か変だ。違和感がある。
本来、奇襲は相手に気付かれないように行う。だが、そんな様子は皆無だ。
藤子の眼差しが、穏やかなものから真剣なものに変わった。
月の光で、人影が鈍色の金属状の物を持っている事に二人は気が付いた。
このまま隠れてやり過ごすか、それとも気付かれる前に襲って相手が箱を持っているか確かめるか。
突如として足音が止んだ。
頼仁は本能的に顔を上げる。
月が陰り、先程の男が斧を振りかぶっているのが見えた。
「っ」
頼仁と藤子は咄嗟に後ろへと飛び、数瞬遅れて板の割れる乾いた音が響いた。
見ると二人の中心に置かれていた木箱が、バラバラになっていた。
もしも反応が遅れていたら、二人のうちどちらかは大怪我を負っていたかもしれない。
地面は抉れ、尋常ではない力で斧が振り下ろされたことがわかった。
頼仁の背中に冷や汗が流れた。
「……様子がおかしいぞ」
明かに目の前の男は訓練生ではない。もし教官らが不測の事態への対応を見る為、別の人間を訓練に入れたとしても、これはやりすぎだ。
「それに、何故俺達の居場所がわかったんだ」
「あっ」
藤子は何かに気付いたのか、軍服のポケットに入れていた小さい巾着の匂い袋を取り出した。
「ごめんなさい、私のせいかもしれません! お守り替わりに持ってて……」
「この香り、お前だったのか!」
先程から一帯に漂っていた柔らかい香り、どうやらそれを嗅ぎつけられたようだ。
目の前の男は、頼仁らに向かって斧を振りかぶろうと再び腕をかかげた。
藤子は地面に落ちていた石を掴んで、男の顔面に向かって鋭く投げた。
顔の中心に石が当たった男は重心を崩してよろめき、斧は手から滑り落ちた。
よく見ると男の手足の震えが強く、動きはぎこちない。
頼仁はその隙に笛で緊急時の信号音を鳴らした。
短い音三度、長めの音三度、もう一度短めの音を三度吹く。裏山一帯に響く音だ。
「俺が気を引くから、お前は人を呼んで来てくれ」
頼仁は護身の為に所持していた懐剣を、移動時の鞄から取り出した。
一応追い出されたとはいえ親王の身分はまだ残っているため、護身として特別に所持が許可されているのだ。
男は正気ではないのか、鞘から抜かれた刃に気にする様子もなく、爛々とした目で頼仁に掴みかかってきた。
頼仁が威嚇のために振るった懐剣は、弧を描いて男の手の平を一閃した。
男の手から血液がぱっと舞った。
だが、それは一瞬の出来事であった。何故なら頼仁の目の前で出血が止まり、男が血を拭うと何事もなかったような肌が見えた。
「なっ⁉」
頼仁は懐剣と男の手を交互に見た。いよいよ本当に嫌な予感がして、懐剣を構えたまま、じりじりと後ずさる。
そして頼仁を残す事に躊躇している藤子に向かって叫んだ。
「早く行け!」
頼仁が声をあげたのと、首に男の手が絡んだのはほぼ同時だった。
間合いをとったにも関わらず、男は一瞬で頼仁の懐に入って首を掴んだのだ。
まずい。そう思った頼仁は懐剣を振るおうとしたが、それも反対側の手で止められた。手首の骨が軋む音がする。
藤子は近くにあった石を掴んで再び振りかぶろうとする。
次の瞬間、外套をまとい軍帽を被った人物が、頼仁に掴みかかる男の背後に現れた。
外套を来た男は、白い手袋をはめた左手で首元を抑え込むと右手に持っていた注射器を構え、暴れる男の二の腕に針を深く打ち込んだ。
そして頼仁から引き離すと、今度は地面に足をかけて抑え込む。
別の注射器を外套の裏から取り出すと、今度は首元を抑えてそのまま首筋に注入した。
男はしばらくもがいていたが、やがてその手足はぐったりと弛緩し、意識を失った。
謎の人物に助けられた頼仁は大きく息をつく。そして藤子は無事かと顔を上げて彼女を探した。藤子は少し離れた所で、石を手に持ったまま外套の男を驚いた表情で見つめていた。
「怪我はないか、二人とも」
外套の人物は、男が動かなくなった事を確認すると、頼仁と藤子にそう声をかけた。
「兄様……?」
藤子は声をあげる。
月明りに照らされ、男の顔立ちが先程よりしっかりと見えた。
軍帽の間から覗く髪質は藤子に似たくせのある黒髪だった。
その前髪から覗く目は切れ長で、一見冷たく感じたが、藤子を見ると柔らかく笑った。
けして大柄というわけではないが、軍人の若者らしく均整のとれた体格で、外套の下は軍服を身に着けていた。
「兄ってことは……」
「
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