エピローグ

『師走、帰り着いたみたいだ』

『ああ』


【白イワナの分身は】


 水族の約束通りに、二人を戸和の滝まで運んだ。葉月と師走は言葉少なく、滝池の水面に向かって泳ぎ出す。


 滝音が響き、薄明前の乳白色に近い闇が映る水面に先に顔を出した師走は、小さな女の子がタヌキと遊んでいる影が目の前に見えた。


『おい、葉月』


 後から続いて水面に顔を出した葉月に、師走は目でその女の子を指した。そこには、一度はもう二度と会えないと覚悟した娘の八枝がいた。


 葉月は思わず目頭が熱くなり、いいようのない脱力感と気力とが混ざり合った思惟が流れた。その思惟に師走も周囲の木々もざわめいた。葉月は呼吸を整えると八枝に近寄った。


八枝やえ。八枝は一人なの?」


「パパちゃん!ううん。こんぺいとうと一緒!」

 足もとでうろうろしているタヌキを指さした。


「お?その子はこんぺいとうと、言うの?」

「うん」


「ママちゃんは?」

「パパちゃんが来るからいそがしい」と葉月に抱き着いた。


「パパちゃんが来るまで、ここで、こんぺいとうとふたりだけなの?」


「あっ、ママちゃんはパパちゃんが帰ってくるから、忙しくて疲れたからお昼寝中。あっち、あっち」


 滝横の岩陰に向かって葉月の腕を引っ張り、声をあげる笑顔が滝水に混じった。


 愛おしさが溢れる。八枝を抱きかかえると、その愛らしい小さい手が葉月のほほをなで「おひげ?」といいながら葉月の顔を覗き込んだ。


「ああ、おひげが伸びたな~」と葉月が微笑むと八枝は「おひげ!おひげ!」と顔を撫でまわす。そしてひげを持って「あっち、あっち」と少し離れた木陰を指さした。


 葉月に抱かれたまま、八枝やえは「きゃきゃ!」とご機嫌よく両手を離して後ろ向きに反り返る。葉月は「おおお!おいおい」と慌てた。


 八枝やえは、ひっくり返ったまま、滝横の岩場を指さした。そこには妻の渥美あつみがにこやかに立っていた。


「葉月、お帰りなさい。八枝、私、寝ていないわよ」と半年前と変わらずにいた。


『ぼくらはすべてを失うところだったな』


 師走に思惟を送りながら、葉月は涙が止まらない。師走もまた同じだ。葉月は涙を無造作に腕で拭きとり渥美に


「どうして、ここに帰るってわかったの?」と聞くと、渥美は当然のように


「滴叔母様から聞いたのよ。今日、白イワナが霊ろ刻に、あなたと師走さんをここに送ってくれるって、お母様とお父様から連絡が入ったって」


「えっ?いつ?」師走が驚いたように声を上げた。

「一週間前くらいかな?」と渥美は微笑んだ。


 葉月も師走も無言だった。



【しばらくして師走は】


「そうか…。おれも帰らなくてはな」と藤代の家の方を向くと、渥美は慌てて


「今ね、泉の屋でみんな集まって待っているのよ。上の駐車場に車を置いてあるから、帰りましょう。お腹すいたでしょ。すき焼きを用意してあるわ」


 というと、葉月の手を取って駐車場の方へ歩きだした。軽やかに歩く渥美は葉月と師走に当然のように質問をなげた。


「それで、いつお父様とお母様は帰ってくるの?」


 突然の質問に


「いや。それは…」

「長月は何も話してないのだな。まあ、あとでゆっくり話そう」


 躊躇する葉月をみた師走は元気に葉月の肩を抱いた。


「明るい~」

 八枝の甲高い歓喜の声につられ、師走が空を見上げた。


「おい、葉月。昔さ、文月叔母さんが言っていたろう、姫は、こくつまり、日の出を中心に前後二時間は一日が新たに産声をあげ、地表を滴が覆う霊的な力を持つ時間と考えたのだと…。毎日、新しい星で私たちは生きているって」


 その言葉に、葉月は空を仰いだ。そして改めて師走の顔をまじまじとみて


「おお、師走。そうだな。かか様と、とと様が二人でいちゃついているのを、気にしてはいられない。これからだな…」


「ああ、すべては、これからだ」


 

[霊ろ刻(ちろこく)物語 :うぶすな神の婿] end




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「霊ろ刻(ちろこく)物語」うぶすなの婿 中島 世期 @seki2007

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