第191話 拠点からの移動
……風邪をひいた。
まさか、鬼界に来てこの短期間で熱を出すとは思わなかった。
恥ずかしいとか言っている場合じゃなく、あまりの寒さに白鷺姿の椿の翼の中で震えながら耐え忍んでいるのが現状だ。インフルエンザにかかった時のように、体の節々は痛いし高熱が出ているのが自分でもわかる。
妖界から持ってこられた温泉水は万が一の時のために残しておいた方が良い。その為、璃耀が持ってきてくれた病に効く蓮華の花弁をちょっとずつ食んでいる。
「温室育ちのお坊ちゃまですからねぇ」
と亘に揶揄されたのには腹が立ったけど、実際、普段から鍛えて危険をくぐり抜けている妖連中と比べればひ弱だという自覚があるので、言い返す言葉もない。
ここに来て、人界でいかに恵まれた環境で育ってきたのかをヒシヒシと感じている。
砂や土がつかない清潔な家、匂いもなくキレイなトイレ、ゆっくり温まれる風呂、柔らかく温かい布団、様々な食材と味付けでできた食事。日光が気分の調整をしてくれていた事にも今更気がついた。
「……自分に向けて陽の気を放ったら、暖かいのかな……」
ぼそっと呟くと、椿が体をビクリとさせた。
「お止めください!」
「……さすがにここではやらないよ。椿に離れてもらってから……」
「それもありますが、奏太様は動いてはなりません。陽の気を使うなんて、御身体に御負担がかかります」
確かに、陽の気を放つような元気は今のところない。でも、切実に温かい陽の光を浴びたい。
「せめて、火を焚けないかな? この穴の中だと一酸化炭素中毒になりそうだけど、空気が通る場所なら……」
「いっさんか……なんです?」
「……いや、なんでもない……」
自分が言い出したことだけど、ちょっと説明するのもしんどい。
「この穴の入口あたりで焚き火をできないか聞いてきましょうか?」
「駄目だ。いくら結界があっても、穴の入口は危険過ぎる」
巽の提案を亘が即座に却下した。でも、そんな気はしてた。仕方がないので、椿の羽毛に体をギュッと寄せる。
璃耀達との情報交換に行っていた汐が戻って来ると、ほんの少しだけ困った顔をされた。
「御加減は良くなりませんか?」
「今のところ変化なし……」
蓮華の花弁が効いてきても良いと思うのに、一向に良くなった実感が沸かないのがもどかしい。
「妖界の先発隊が、新たな拠点づくりの為にこちらを出ました」
先発隊は拠点づくりをする和麻を含む数名だ。本当は今日先発隊が場所を定めて拠点を築き結界を張るところまで行い、安全確保の上で俺たちが明日合流する予定だった。
「我らはしばらく動けそうにないな」
「……ごめん……」
予定を狂わせて申し訳ない。
「仕方がありませんよ。今はゆっくりお休みください」
椿の慰める声に俺はハアと息を吐いてゆっくり頷き目を瞑った。
体が回復してきたのはそれから三日後。完全回復とはいかないが、ようやく動けるようになってきた。まだ熱っぽさはあるものの、数日前に比べれば断然体が楽になっている。
後二三日様子を見て次の拠点に移動するかどうか、という話をしていたのだが、突然、柾の補佐官である
「突然申し訳ありません。問題が発生しまして、直ちに御移動をお願いしたく」
「移動って、次の拠点にってこと?」
「はい。誠に申し上げにくいのですが、恐らく長く拠点内に居た為に、この真上の地面から草花が芽生え始めているのです」
聞けば、最初に鬼界に降り立って生やした草花は、翌朝には殆どが茶色く枯れてしまい、気づけば綺麗さっぱり消え去っていたらしい。陽の気が一部に注がれて一時的に育ったものの、時間を置くことで陽の気が周囲に拡散してしまったせいでは、というのが璃耀達の見立てだそうだ。
一方で、この穴蔵に入ってからは濡れた砂が土っぽく変わることはあっても、地面の中だった為か草花が咲くようなことはなかった。しかし地中からじわじわと俺の陽の気が注がれていったせいで、この真上の土地は時間をかけて陽の気が地表へ染み出していき、ついに広範囲で草花が咲き始めたのではないか、と空木はいう。
「砂の色が多少変わるくらいであれば問題無かったのですが、緑の絨毯が広がっている状況は非常に外から目立つのです」
空木は申し訳無さそうに眉を下げた。
「緑の地が貴重なんだとしたら、この上の状況を見て鬼が集まってくるかもしれないってことだね」
俺が言うと、空木はコクと頷く。
寝込む前に出発できていればそんな事にはならなかったんだろう。空木の言う通り、長居し過ぎたということだ。
「わかった。移動しよう」
「奏太様、御身体は?」
椿が心配そうに俺を見る。でも、具合が悪いなどと言っている場合じゃない。万が一鬼が集まってきたらここを出ることすら難しくなる。
「少しくらいなら大丈夫だよ。ただ、落ちた時のために亘の少し下を飛んでもらえると助かるけど」
「……私が落とすとお思いですか?」
「今まで何度か振り落とされそうになった記憶があるんだけど?」
ムッとしたように言う亘に茶化して返すと、亘は一転、きれいに口角を上げた。
「そうですか。お望みとあらばお応えせねばなりませんね」
「え、ちょっ……」
「椿、お前は周囲の護衛だ。巽が下を飛べ。汐は念の為、奏太様と同乗しろ」
慌てて声を上げた俺を無視して、亘は周囲に指示を飛ばし始める。
「人界の妖はほとんど残っていますから、我ら全てで周囲をお護りします」
空木が言うと、亘が眉を顰めた。
「綻びの前で奏太様に武器を向けなかった者だけで周囲を固め、それ以外は奏太様から離して周辺の警戒につかせろ」
「しかし、それでは奏太様の身の回りが手薄に……」
困ったように俺と亘を見比べる空木に、亘はフンと鼻を鳴らす。
「柾とお前がいるだろう。他にも数名居たはずだ。ああ、状況を瞬時に飲み込めず戸惑うだけで武器を取れなかったような愚図は外せよ」
「ですが、柾さんは……」
「柾は、奏太様が寝込んでいる間に妖界の後発隊とともに既に次の拠点に移動したわ。病人には付き合っていられないと言って」
口籠った空木を見兼ねたように、汐が遠慮なしに言い放った。柾はそういうやつだよな、と思っただけだけど、空木が心底申し訳無さそうな顔をしている。
「空木のせいじゃないよ」
「柾さんらしいですしね」
巽がハハっと空笑いしながらフォローにもならないフォローを入れた。
「なるほど。確かに柾が居ないのは痛いな」
亘が同意を示すと、空木はほっとした表情を浮かべる。しかし、すぐに亘はジロリと厳しい目を空木に向けた。
「たとえそうであっても、方針に変更はなしだ。奏太様の周囲に不安があるなら、離れて警戒をする奴らに死ぬ気で鬼の足止めをさせろ」
空木は助けを求めるように俺に目を向けた。
鬼界に来てしまえば、きっとあの時のように俺たちと敵対するようなことはないのだろう。同じ人界の仲間であることは確かだし、天秤にかけられたものが悪かったとも思う。でも、俺を鬼界に送る選択をして武器を取った人界の者達の姿への衝撃は強かった。
いつ鬼が襲ってきてもおかしくない鬼界で、万が一あんなふうに手のひらを返されたら……そんな想像が頭を過る。
「いざという時に奏太様を売ろうとした者共など、信用できると思うのか? 己の命を賭して死ぬ気でお護りできるだけの気概を見せねば、奏太様には近寄せられぬ」
「亘、やめろ」
亘もだいぶ腹に据えかねているのだろうとは思うけど、いちいち煽る必要はない。
「空木、悪いけど、今回は亘の言う通りにしてもらえる?」
気持ちの整理と歩み寄りの時間が、少なくともこちら側には必要だ。
「……承知しました。今一度、配置の見直しを行うようにいたしましょう」
空木はまだ何か言いたそうな顔ではあるが、しぶしぶといった様子で頷いた。
「半刻ほど後に出発いたしますので、御準備をお願い致します」
一礼して踵を返して戻っていく空木を見送ると、汐が状況確認のためにその背を追って出ていった。
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