第190話 穴蔵の生活②:side.亘
「奏太様は眠られましたか?」
「ああ」
「では、翼で温めて差し上げなければなりませんね」
椿は妙に弾んだ声で白鷺の姿に変わる。もう良い歳だろうに初日に顔を真赤にしてあたふたしていた主の為に、寝入ってから鳥の姿に変わって温め、目覚める直前に何食わぬ顔で護衛につくのだ。
「御顔を赤くした奏太様もお可愛らしかったのですが、眠れなくなっては大変ですから」
と椿は笑っていたが、汐はいつにも増して仏頂面だ。椿が主に添い寝するのは気に入らないが、羽毛が暖かいのは否定しようがなく、主の安眠のためにと口を噤んでいる。
当初、汐は亘に毛布役をやれと突っかかって来たのだが、いざという時の護りに徹したいと言葉を重ねれば、しぶしぶ引き下がった。
鬼界という土地では何があるか分からぬ。妖界勢も人界勢も完全には信用できぬ。温室育ちで貧じゃ……繊細な主の心の平穏の為に許容したが、逃げ道のないこの部屋で万が一包囲でもされればひとたまりもない。穴の中にいる全てが信頼できる仲間であれば強固な守りになるが、本当にそうかは疑わしい。
それが、奏太に直接仕える側近全ての見解だった。
しかし当の主は、あの方を見つけるまでは大丈夫だろうと楽観的だ。
あの様な仕打ちを受けて、何故そのように考えられるのか亘には不思議でならない。以前から思っていたことだが、きっと危機感というものを母親の腹の中に置き忘れてきたのだろう。御人好しで能天気な主を見ると、どうしても心が波立つ。
「稽古の様子はどう?」
「どうもこうも、柾が邪魔で思うように進まぬ」
いくら能天気であろうとせめて自分の身を守れるようにと稽古を再開しても、偵察から戻った柾に稽古場で見つかれば問答無用で攻撃を仕掛けられ中断を余儀なくされる。柾に悪意はない。純粋な力試し。キラキラと楽しそうに目を輝かせ、口元に笑みを浮かべて武器を振りかぶってくるのだ。
すぐ近くにいる主を護るためにこちらも武器を出さざるを得ない。そしてそのまま戦闘に持ち込まれる。叩きのめすまで向かってくるので、時間を取られて仕方がない。
「柾さんに亘さんを連れて行かれて、
汐は巽の言葉に眉を顰める。
「……その間、奏太様は?」
「我らは護衛を離れるわけに行きませんから、仕方なく一人で素振りをされるのですが……」
椿は困ったような声音で視線を下げた。
「見兼ねた蒼穹殿が代わりに稽古をつけようかと奏太様に提案されて、お止めする前に二つ返事で了承してしまわれて……」
「それとなく稽古の中止を進言しても、せっかく鍛えてもらえるのだからと、聞く耳を持っていただけないんだ」
巽も申し訳なさそうに付け加えた。
亘も柾の相手をしながらその様子を見ていた。返す返すも腹立たしい。邪魔する柾も、何食わぬ顔で稽古をつけようと提案してくる蒼穹も、止められぬ椿と巽も、無防備に妖界の者を受け入れる主も、柾を瞬殺して駆けつけられぬ己も。
「結局、皆が偵察に出ている日中は亘さんの担当、夕方偵察後は蒼穹殿の担当って感じになってるよ」
諦めまじりに肩を落とした巽に、汐は小さく息を吐いた。汐は偵察隊が戻ってから本格的に情報収集や周囲の監視に動く。最も忙しい時間帯だ。側に居られないもどかしさもあるのだろう。
「そっちはどうだ?」
「大きな進展はなし。あと二日程偵察を続けたら、拠点を移すそうよ」
数日前に亘が偵察に出たときに見たのは、どこまでも続く砂地と、ポツポツと生える半分枯れた様な木。時折申し訳程度に生えた茶色の草。更に地平線の上に太い筆で墨を引いたように見えた奇妙な光景。
しばらく飛んで見つけたこじんまりとした集落には、粗末な服を着、やせ細った老若男女が生活していた。
亘達が空から様子を伺えば、目の色を変えて石を投げ、槍を飛ばし、矢を射てくる。空を飛べる者は居ないようだったのでこちらへの被害はなかったが、獲物を捕らえようとするギラギラした目は人界で見たそれよりも鋭かった。
威勢よく集落を飛び出し追ってきた者の一体を捕らえて集落から離れた場所で尋問を行うと、その理由が明らかになった。
詰まる所、極度の困窮。
鬼は人と同じで食料が必要だ。その一つが人や妖なのだが、鬼界に人や妖が紛れ込むことは殆どないらしい。妖界でも人界でも結界に守られ、穴が発見されれば即座に塞ぐようにしているのだから当然だ。
結局鬼達は、枯れた草木の中を必死に探して稀にある木の実を見つけ、広大な砂地の下に潜む爬虫類や鼠のような小動物や虫を見つけ、川や海に住む獰猛な生き物の目を掻い潜ってなんとか痩せた魚を獲るような生活をしているらしい。
突如飛来した妖達に目の色を変えるのも無理はない。
昨夜、食事の中になんの肉かわからない肉が出るようになったと奏太が首をかしげていたが、恐らくその時の情報をもとに捕まえた小動物かなにかなのだろう。
自分や家族の分まで集めないとならない鬼達と違って、こちらは奏太一人分を人海戦術で探す。食料の確保は今のところ任せているが、その食事づくりは汐に監視させ、主の知らぬ間に毒見をさせてから出させている。
主の食料問題がなんとかなりそうなのは良かったが、飢えた鬼への警戒心は一段引き上げた。
一方で、女神が降臨した村の詳細は未だにわからないままのようだ。
深淵と呼ばれる場所の近くの村だと聞いたが、そもそも深淵というのが鬼界を取り囲むような広大な土地で、飛んでいる時に見えた墨を引いたような場所を指すらしい。
深い闇に覆われ、夜になると襲ってくる
「深淵に沿って移動して、またその周辺で集落を見つけて聞き込みをするのですって」
「……拠点を移すのか」
穴の中に籠もっていられれば良いが、移動には危険が伴う。飢えた鬼に襲われないとも限らない。今まで鬼界で見たような鬼なら大丈夫だろうが、人界に紛れ込む鬼には強力な者もいた。
「今のところ、その奇跡の村だけが頼りですからねぇ。このままの生活が長引けば奏太様も体調を崩しそうですし、危険でも動いて手がかりを掴みにいった方が良いと思います」
奏太が寒そうに椿の翼を掴んで引き寄せたのを見ながら巽が眉尻を下げた。
「平気そうにされていますが、人にとっては日の光がそそぐ環境が当たり前でしょうから、ジメッとして肌寒く昼でも薄暗い環境では、いくら陰の気が吸い出されていたとしても御身体にも精神的にも良くないでしょうね」
椿は掴まれた翼から手をそっと離させ、雛を暖めるように、奏太を抱え込み体を寄せる。
「移動時は柾さんにも護衛に徹してもらいましょう。あれでも元護衛役代理ですし、誰の味方でもないのは明らかですから、他の者より信用できます」
「……護衛任務に集中できるのか、という意味では信用できないのだけど」
ぼそっと汐が呟いたが、亘も同意見だ。よくあれが、短期間とはいえ護衛役をできていたものだと感心する。
「御役目はきちんとこなしていましたよ。やってられるかと匙を投げた事もありましたが……」
ツイっと視線をそらした巽に、亘は小さく息を吐いた。柾に協力させるのはそれ程難しくない。あとで本気で相手してやるから手伝えといえば、いそいそ着いてくるだろう。約束は守る男だ。それでも、もう少し信用のおける護衛の手が欲しい。
しかし目に浮かぶのは、主を引き渡せと武器を向けた者達の顔ばかり。淕の顔を思い出し、結を失った時と同じ不信感が胸の中に広がり覆っていく。
椿の翼の中で丸くなる主は、人の年齢では成人したとはいえ、亘から見ればまだまだ小さな子どもと同じだ。何をするにも危うく、すぐに消えてしまいそうなほどに弱々しい。
こんなことを本人に言えば怒って言い返してくるのだろう。
それでも、たった一つ、手の中に残ったこの方を失うわけにはいかない。もう、これ以上―――
亘はギュッと、手のひらを握りしめる。
「せめて、あの時に武器を構えなかった者に協力させるか……」
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