第173話 事件の傷跡:side.淕

 ハアと息を吐き出し、柊士様は額を手のひらに預けて机に肘をついた。


「根を詰めすぎです。少し休まれた方がよろしいのでは?」


 そう声をかけたのは本日幾度いくど目か。そろそろ本気で休ませた方が良さそうだ。しおりに目を向けると、金髪の小さな案内役は心得たようにコクと頷く。

 当の主はチラと自分と栞を見ただけで、体を起こして手元にあった冷めたコーヒーを口に含んだ。

 

「休んでる暇なんてないだろ。妖界の使者は常駐するようになったし、事件の後処理は片付いても安定には程遠い状態。みなとが証拠隠滅に始末した部下と共に抱えていた仕事が多すぎて不明点が多すぎるし、そもそも手が足りてない。さかえは榮で自分にとって都合の良い要所はきっちりおさえて勝手をしていたせいでグチャグチャだ。どうりであいつらが好き放題できていたわけだ」


 結界の綻びの監視や後処理、鬼への対応、各地に潜む人界の妖の取り締まりなど、武官が関わる仕事は粟路あわじ様が率いる雀野すずのの領分だったが、それらを除く里の行政一切を取り仕切っていたのが亀島だった。 

 その当主が次子の起こした事件を受けて処刑され、あとを継いだ長子は家長交代直後に末子の起こした事件の責任を取って西の里の長の座を降ろされ、里の仕事の面倒事一切を引き受けていた末子は事件の元凶だったことで処刑された。


 責任者が一斉に処分されて明るみになったのは、榮や拓眞、湊による不正の数々だった。 

 亀島家に連なる者たちのほとんどがそれらの不正に関わっていたことで処分を受けるか、湊によって殺されているか、再起できない程に支配されていた。

 今は、手探り状態で御番所で働く残った者達への聞き取りや過去の書類を漁り、前日向当主代理の力も借りて、なんとか里を動かしている状態だ。


 ただ、今のこの状態は凝り固まった旧い体制を一新する好機でもある。すべての不正を一掃して正しい在り方へ立て直せれば、主の立場も盤石なものとなるだろう。


 それでも……

 

 幼い頃から見守ってきた主の体と心が心配でならない。仕事に……いや、目の前に仕事を積み上げることで何とか耐えている贖罪しょくざいという名の重圧に、いつか押し潰されてしまうのではないかと。


 幼い身で母君を亡くし、夜になると毎日のように布団を被り声を殺して一人泣いていた姿を思い出す。母君が居ないことを馬鹿にされ歯を食いしばって帰って来られたこともあった。日暮れ、主をからかった相手に泣きながら立ち向かった従妹の手を引き、涙を堪えて歩いていた姿を見つけた事もあった。

 よく喧嘩をし、時に怒鳴り合い、それでも互いに支え合いながら守り手として成長していく柊士様と結様の姿を見て、母君を亡くされても、主はきっとこのまま立派に力強く生きていかれるのだろうと、そう思っていた。


 せめて次代であってほしいと願った転換の義の対象が主に決まったときには、目の前が一気に暗闇に包まれた様な気分に陥った。何故この方がと思わずにはいられなかった。

 そして、御役目で向かった先で結様が鬼に襲われ、その命を無駄にしないため三百年に一度の大役を担うことになった時には、心の何処かでホッとしていた。

 先々代、柊士様の御爺様おじいさまから託された忘れ形見。幼少より御守りしてきた主が、妖界に奪われずに済んだことに。


 代わりに主を奪われた亘と汐への後ろめたさはあった。柊士様と共に幼い頃から成長を見ていたはずの結様が死の際に立たされ妖界へ行ったというのに、それでも送り出したのが柊士様でなかったことにホッとした自分に罪悪感もあった。そして、結様に決まった事が湊の企みの一部であったと知って少しばかり心の荷が軽くなったようにさえ思えた自分は、きっと、とことん狡いのだろう。


 しかし、当の主はそうではなかった。 


 母は自分達を助ける為に死んだ。結は自分の代わりとなって人の生を失った。結が経験した苦しみは自分が背負うはずだったのに、自分が人界で幸せに暮らして良いはずがない――

 

 毎夜うなされる夢の中で、柊士様が取り憑かれたようにそう繰り返していたと、栞が教えてくれた。

 

 奏太様が守り手となったことで護るべき存在ができ、白月様となられた結様の元気な姿を目にしたことで、柊士様の悪夢は遠のいていた。気づけば睡眠もしっかり取れるようになり前を向くようになった主に、栞と共に安堵していた。

 

 それなのに、あの事件以降、主は以前よりも酷い睡眠不足に陥っている。仕事を理由に眠るのを拒み、ようやく自室に戻ってもなかなか寝付けないと薬を飲み、寝付けたとしても夜中にうなされ何度となく起きる。 

 あの事件から、悪夢が増えたようだと栞は言っていた。 


 人の世では大人でも、自分達妖からしてみれば少年の様な年頃。あまりに重い負い目に圧し潰されないように何とか立っているその姿に、どうにも不安が押し寄せる。


 カチャリ、主の手元においてあった濃いめのコーヒーを、栞が何気なく白湯に差し替える。


「御身体を壊されては元も子もありませんよ。奏太様に御協力を仰いでも良いのではありませんか? お休みになられるのであれば、良い夢が見られるよう、お目覚めのお時間になるまで私がお側におりましょう」


 ニコリと愛想よく笑う栞に、柊士様は頬杖をついて胡乱うろんな目を向けた。


「……余計なことに気を回すな。それに、奏太はダメだ。」

「何故です? 汐も何も言ってきませんし、余裕がおありなのではありませんか?」


 とぼけるように首を傾げているが、栞も事情は承知している。何度となく同じ問答も繰り返している。それでも、今の主の姿を見ていれば、言いたくなるのだろう。

 柊士様は呆れたような、疲れたような表情で栞をみたあと、浅く息を吐いた。


「気遣ってくれるんなら、何度も同じ事を言わせるな」

 

 転換の儀の一件以来、双子の関係が悪化していると栞と汐の父であるよう殿から聞いた。栞と汐だけではない。亘はともかく椿や巽でさえも、当たり障りのない情報しか寄越さなくなった。

 柊士様にその気がなかったとしても、亀島が居なくなっても、白月様の手紙でその必要がなくなったように見えても、それでも再び日向に自分たちの主を奪われるかもしれないというほんの僅かな可能性を捨てきれなくなってしまったからかもしれない。

 

 今は案内役としての形式張った報告書、瑶殿を経由した簡素な補足、護衛役の命令まがいの呼び出し、柊士様から本人への聞き取り以外に、御役目での奏太様の様子を知る術がない。姉妹間での雑談や愚痴からもたらされる情報こそが大事だったのだ。

 奏太様の周囲の情報が欠損していれば、重大な事柄を見過ごす可能性が高い。ここのところ、主が目に見えて苛々としている理由の一つだ。

 お優しいが故に感情に振り回されてしまいがちなもう一人の守り手様は、傍から見ていると何とも危うい。主の心労になるような事はしてくれるなと常に願っているのに、あの方はどうにも想像の斜め上をいく騒動に巻き込まれる。


 そして、亡くした母君の代わりに、身代わりにした幼馴染の代わりに、主は残された自分と同じ守り手である奏太様のことを、何よりも護ろうとする意識が強い。もう二度と失うまいと。

 

 栞はそれが気に入らないのだ。

 

 主の責めでないとがを自ら背負い償うように奏太様を護ろうとすることも、奏太様が危険に巻き込まれるたびに心労と仕事を積み上げることも。

 見ていられないと思う気持ちはわかる。

 

 先日、事件のあとの様子を聞く為に呼び出した椿つばきが、自分達に聞こえるかどうかというくらいの本当に小さな声でポソリとこぼした。


――白月様の失踪はあの方のせいじゃないのに……


 栞が、湊と白月様の一件で柊士様の仕事が増えたのだから配慮して協力させろと婉曲えんきょくに嫌味を言った時のことだった。すぐに柊士様が栞をたしなめたが、椿から出たのは、不満ではなく後悔と悔しさと心配のにじむ、そんな言葉だった。


 あの方が姿を消したことについては、誰も奏太様が悪いなどと言っていない。

 

 むしろ、当主も前当主代理も不在のあの渦中で、最大の貢献をしたというのが里の上層部の共通した見解だった。湊の狙いを突き止め、被害を最小限に抑えて妖界側の協力を得られるように立ち回り、白月様の魂を元の身体に戻すよう動いたいたのだから。

 

 それなのに、その護衛役からそんな言葉が漏れた事が気になった。

  

 柊士様は、自分たちの内に留めておくよう指示を受けたからと渋る椿に脅しまがいの命令を下し、主の言い付けを守ろうとする気持ちに一応の配慮を示したうえで、淕と栞も含めて人払いをした。

 

 あとから聞けば、どうやら、奏太様は白月様が居なくなったことに随分と責任を感じているらしいということだった。

 

 曰く、湊の被害にあった白月様は、当初、元の体に戻ることをいとっていたそうだ。

 魂だけの状態になったのなら、そのまま消えてしまいたいと。それでも奏太様や柊士様、その子孫が負わねばならない責務を終わらせる為に元の体に戻ることに決めたのだと。 

 そして、その通りに日向の負うべき責務を現帝の名のもとに退け、別の方法を用意して居なくなった。

 

 白月様が元の体に戻る前に話をするチャンスのあった自分が、もう少ししっかり話をできていれば。そう、奏太様は悔やんでいるのだと。


 椿から聞いたその話を、努めて冷静さを取り繕いながら自分達に聞かせる柊士様の表情こそが痛々しかった。


 ――何もできなかった俺のほうが、余程責任がある。


 最後に落とされたその呟きが、胸の中に重たく落ちた。


 あの方が鬼界に渡ったのは心を壊したからだ、その不安からか、柊士様は奏太様にこれ以上の負担をかけぬよう、更に仕事を抱え込むようになった。

 栞や周囲が奏太様に仕事をさせろと言うたびに、


「あいつは、まだ学生だぞ」


ともっともらしい理由をつけて意見を退け、今まで以上に気を回すようになった。

 

 しかし、そう在ろうとする主の方がいつか倒れてしまうのではと、それが不安でならない。


「このままでは、柊士様が御身体を壊しますよ。奏太様がダメならば、もう一度、粟路様や父にお仕事の整理を頼んできましょう。ですから、今夜はゆっくりお休みください」


 仕方のない方ですね、と呆れた口調で言う栞の目には、懇願の色がある。


 柊士様もそれに気づいたのだろう。チラリと手元の書類に目を向けたあと、深く息を吐きだし、渋々といった様子で小さく頷いた。


「ふふ、今日はどの様な夢にしましょう?」


 嬉しそうな栞に、柊士様はうんざりしたような目を向ける。


「夢に入ってくるのは無しだ。栞に都合のいい夢ばっかり見たくない」

「素敵な夢ですのに」


 栞はぷくっと不満そうに頬を膨らませているが、主は一体、どんな夢を見せられているのだろうか。


「御薬はいかがなさいますか?」


 栞の意見が却下ならばと、体を重そうにしながら立ち上がる主に声をかける。


「用意してくれ。ちょっと多めに。」

「それは……」


 これ以上は体に毒だ、用量を守らせろと、尾定殿にキツく言われているのが頭を過る。


「必要以上に飲まれるなら、やはり私が御側につきます」


 即座に断らなかった自分を睨むように栞が言った。

 多少量を増やしてでも、ぐっすり眠ってほしい、そう迷ったのが態度に出てしまったようだ。


「尾定殿の言いつけがあります。今日はいつも通りとして、明日、御相談しましょう」


 新たな薬の処方はないだろうが、診察はしてもらったほうがいい。それから、今日は柊士様が眠ったあと、当たり障りのない夢をこっそり見せるように栞に願おう。

 心の中でそう決意した。

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