第169話 鬼界の景色①:side.白月
手紙を残し、誰にも見つからないように黒い渦を出してくぐり抜けると、どこか冷として暗い空があった。周囲は処々に枯れ木の立つ荒野。綻びの向こう側から見えていた薄茶の大地は、雨が降ったあとの湿った砂のようにシャリシャリしている。
足元からは、何故かほんの僅かに陽の気が吸い出されていくような感覚がある。この程度であれば問題がないくらいの微量だけど、なんだか常に引き出されていくのが気持ちが悪い。
「なんか、大岩様に触れていた時みたいな感じだ」
あの時みたいに引き出される量が増えていくなら動けなくなるのは時間の問題かと思ったけど、ずっと一定量が引き出されていく感じはあっても、それが増えていく様子はない。
「一応、この世界にいても問題なさそうかな」
そう独り言ちながら、しゃがみこんで地面に触れる。不思議なことに、何故か自分が踏んでいる部分だけ、地面から余分な水気が抜け砂っぽさもなくなって、フカリとした土に変わっていた。
「へぇ。陽の気の効果かな」
そんな風に呑気に見ていると、何故か足元からピョコリと小さな双葉の緑の芽が飛び出した。
「へっ?」
すごく間の抜けた声が出た。
その芽はみるみるうちに背を伸ばし、私のスネ丈位になると小さな白い丸い花を咲かせる。しかも、飛び出した芽は一つだけではなかった。足元のふかふかの土が少しずつ周囲に広がり、その土から次から次へとピョコピョコと緑色が飛び出してくる。
すごく不思議な光景だ。気づけば私の周りだけ、緑色の丸い絨毯を敷いたように小さな
「――白月様!?」
不意に綻びの向こう側から私の不在に気付いたらしい凪の悲鳴が聞こえた。鬼界の不思議現象に気を取られて結界の綻びを閉じそびれていた事に今頃気付くなんて。せっかくこっそり居なくなるつもりだったのに。
私はその場で立ち上がり、パンと手を合わせて渦に掌をかざした。向こう側から見た黒い渦は、こちらから見れば灰色の渦だ。
祝詞を唱えれば、キラキラとした光の粒が掌から溢れて渦に吸い込まれていく。足元からも、少し多めに陽の気が引き出されていくのがわかった。
渦巻く灰色は次第に小さく縮んでいき、遂にはその姿を忽然と消し去る。
「……ごめんね」
結界の綻びが消えると、無意識にそんな言葉が口から漏れた。
私は小さく首を横に振る。もう決めたこと。すべきことはしたし、自分がいなくてもあちらはきっと大丈夫だ。
気を取り直しながら周囲を改めて見回す。迎えが来るまでどこかに隠れていろと言われたけれど、身を隠せるような場所がない。濡れた砂の中に入るのは最終手段にしておきたい。
私は少し向こうに見える枯れ木を眺めた。
……そういえば、妖界に送られた当初は人の姿になれなくて、小さな兎の姿で木の
あの時と同じだ。自分には何もなく、この世界がどのようなところかもわからない。
近くの枯れ木を目指して歩きだすと、私が歩いたところだけが少しだけ色の薄い土に変わり不自然に道ができていく。その場に留まる時間の問題か、緑の芽が吹き出すことはない。けれど、通った形跡だけはきっちり残るのだ。隠れる意味があるのだろうかと疑問が湧き上がる。不思議に思った誰かが色の変化した土を追って探せば、あっという間に見つかってしまう。
「注意しろと言われたけど、未だに
ただ身を隠すだけなら兎の姿でうずくまっておけるくらいの広さがあれば十分だけど、より安全だと思える場所がいい。
なんだか弱々しい雰囲気の木に不安になりながら片手でペタリと触れる。ガサガサに乾いた樹皮が手に刺さってチクチクとした感触が伝わってきた。木に触れながらぐるりと根本からてっぺんまでを見ながら木の周りを一周してみたが、洞のようなものはなさそうだ。でも代わりに、私が触れていた木が妙な変化を遂げ始めた。
最初は気付かなかったけれど、痩せ細りカラカラになりかけのその木の幹がなんだか次第に太くなっていくような気がした。不思議に思って見上げると枝に少しずつ葉が付き始め、唖然としているうちに緑の実がつきはじめる。それが一つ二つと増えていき、実の色が緑からオレンジ、濃いオレンジへと変わって行く。いつの間にかその木は豊かな緑を湛え、やや平べったい形の無数の実をつけていた。
「……陽の気の……おかげ……?」
そうつぶやくと、ザァっと風が吹き、ポトリと木の実が落ちる。足元に落ちたその実は、人界にいた頃によく見たものに似ている。平たい濃いオレンジ色で、手のひらに乗るサイズ。拾い上げて良く見ようとしゃがみ込む。
……柿かな? でも、なんかちょっと違う気がする。
なんだろう、と上から横から底からといろいろ手の中で回してしげしげと見る。
あ、ヘタの形かも。
人界でよく見ていた柿のヘタは四枚だった。実の形も少し四角っぽくて、切る時には四つの凹みに沿って切っていた。でもこれは、上から見た感じが四角形ではなく五角形。ヘタも五枚で星型に広がっている。
ヘタ以外は普通の柿。昔、底が平たいものが甘柿で尖ったものが渋柿だと教えてもらったことがあるから、これは甘柿だろうか。微妙に形がちがうし、鬼界であっという間に育ったこれがそもそも本当に柿かもわからないけど。
そんな事を思っていると、突然真上から影と聞き覚えのない声が落ちて来て、私はビクッと思い切り肩を震わせた。
「それ、食えるの?」
いつの間に来ていたのだろう。黒い髪に二本の短い白い角、緑の目を持つ、やせ細った体の少年が私を真上から見下ろしていた。
ドキリと心臓が大きく打ち付ける。
手に持っていた柿を落して飛び退くように体を反らせ、距離をとりつつ慌ててパンと手を打ち付けた。守り手時代や妖界での旅の経験、それから帝位についたあとにいやいや受けさせられた稽古で叩き込まれた自己防衛反応だ。
しかし、その鬼は私に襲いかかってくる様子はなく、不思議そうに首を傾げた。
「……なにやってんの?」
「何って……」
そこまで言いかけて、ハッとした。
そういえば、鬼の因子を取り込んだって言われたっけ。そして、鬼は鬼を食べないらしい。
キョトンとした表情を見るに、私を襲うつもりで近くに来たわけではないらしい。
私はハアと深く息を吐き出して、警戒を解いた。こんな風に警戒することなく鬼と向き合うのは初めてで、不思議な感じだ。
鬼の少年は人で言えば小学校高学年くらいの見た目。少年とは言うものの、妖や鬼の寿命は人より長く見た目と年齢が合わない事が時々あるから、実際はどうかわからない。
「ううん、ちょっと驚いただけ。ところで、私に何か用?」
そう問いかけると、少年のような鬼はすっと私が落とした柿の実を指差した。
「それ、何?」
「さあ。柿に見えるけど、ちょっと形が違うからよくわからないの」
「食えるの?」
「どうだろう。でも、口にしてみて変な味がしなければ大丈夫じゃないかな」
変な匂いはしなかったし、口に入れてみて違和感なければ大丈夫だろう……たぶん。
曖昧に首を傾げると、少年は木の幹に手を当てる。
「こんなにしっかりした木を近くで見るのは初めてだ。葉が緑でいっぱいなのも、あんなにたくさん実が生っているのも」
「珍しいの?」
「領主様や王様の森にならあるかもしれないけど、そのへんで見られるようなものじゃないよ」
何でそんな当たり前の事を聞くか、というような顔だ。
「領主様に王様、ね」
鬼界の社会構造はわからないけど、ひとまず国と領地があるってことはわかった。無法地帯かと勝手に思っていたけど、意外に秩序だっているのかもしれない。
「ここはどこもこんなに荒れてるの?」
「そうだよ。長老が言うには昔はこうじゃなかったらしいけど、今じゃ王様か領主様か王都の金持ちくらいしか豊かな森を持ってない。こんな辺境に緑の木なんて殆んどないよ。あ、もしかして、姉ちゃんは王都から来た人?」
少年はそう言いながら、一つ転がった木の実を手に取る。
「この実の名前も知ってるんだから、きっとすごい金持ちなんだね」
どう答えたものかと思いつつ、私はただただニコリと笑って誤魔化す。この世界はそこまで草木が貴重なものらしい。
『一部の支配者層が僅かな資源と食料を独占し、その他の者は搾取され続け、生きるだけで精一杯の世界です』
かつて妖界を脅かし先帝であった
あの時、幻妖京に鬼を放たれ、子どもも大人も関係なく市井の者達が襲われた。でも、その鬼達は食べるものもなくただ生きていける場所を求めた者たちだったとあとから聞いた。
私には幻妖京を救う以外の選択肢はなかったけど、彼らにも、豊かさを求める理由があった。ここはそういう世界なのだ。
恐る恐る拾い上げた実を口元に寄せ、小さな尖った牙でシャクリと音を立てて削り取った少年は、ゴクリとそれを飲み込むと、緑の瞳をキラキラと輝かせた。それから、貪るように次々と柿のような実を口に運んでいく。
「こんなに美味いもの、初めて食べた!」
本当に嬉しそうに自分の手の中にあった実を食べ尽くすと、期待に満ちた目で少年は木を見上げる。
「それが、あんなにたくさんあるなんて!」
痩せ細った少年のその様子に、胸がズキッと痛んだ。
『どうせ甘いのなら、こちらに同情して妖界を明け渡すか鬼界を変えてください。白月様!』
……ああ、
私自身の手で陽の泉に突き落とした、憎悪に満ちた鬼の目。その最期にどうしてもやりきれない気持ちになる。
少年はその間にもスルスルと木に登り、粗末な服を広げて残った実を持てる限りもぎ取っていった。
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