序章
第168話 目覚めの前:side.白月
暗闇の中、誰かに呼ばれた。
「深淵へ来い。我に一番近き子よ。この世の守護にその身を捧げよ」
頭の中に低く反響するような男の声。その声の主に心当たりはないはずなのに、何故かひどく懐かしい感覚が心に広がる。
「……誰? それに、深淵って? この世の守護なら十分頑張ったよ。もう、いろいろ終わらせるの。」
そう決めたのだ。妖界の帝の座も結界の補強も。全て守り手と里の犠牲の上になり立つが故に起こる負の連鎖。日向家が背負う呪いめいたそれに、心底疲れてしまった。
怖くて、痛くて、辛くて、苦しくて。それでも全てが丸く収まるようにと思い、ここまできた。あとは最後の仕上げだけ。もう、そろそろこの重荷から開放されても良いだろう。
それなのに、声の主は私の思いとは裏腹に、無遠慮に話を続ける。
「我の代わりが必要だ。この世が闇に飲まれる前に。深淵が広がり鬼界の闇は深まり続けている。結界が崩れる日は近い」
聞きたくもなかった重たい話に、思わず嫌な顔になった。
「……それ、私じゃなきゃダメなの?」
これ以上、頑張る気力がわかない。私はただ、このまま消えたいのだ。
しかし、
「
という返答が戻って来て、負の感情で飽和し凪いだようになっていた心に、ずしりとした何かが落ちた気がした。
「汝は、人と獣として生まれ、妖に転じ、鬼の因子を取り込んだ。全てでありどれでもなくなった、我の血を引く子よ。我に近い汝にしかできぬ。」
……聞かなきゃよかった。
自覚はなかったけれど、この体に鬼の魂を入れたことで、否応なしに鬼の因子を取り込んだということなのだろうか。
『全てでありどれでもない』だなんて。もはや、自分が何に成り果ててしまったのかすらわからない。心底気持ちが悪い。
「……ねえ、人でも獣でも妖でも鬼でもないなら、貴方は一体何者なの?」
自分が一体何に近づいているのかを確かめたくて、恐る恐るそう尋ねる。声の主は、話しぶりから考えるに私の先祖なのだろうが、人でも妖でもない者に心当たりがない。私の知る限り、最初の大君の時代まで遡ったって、日向の祖先は妖の血の混じった人間だった。
「我が何かなど、今はどうでも良い。我の元までくれば、いくらでも教えてやる。そんなことよりも、闇を抑える力が弱まり、我自身がこの世に溶けて還ろうとせんときに、我の代わりになりうる汝が現れたということが何より重要なのだ。汝には我の力を引き継ぎこの世を守る使命がある」
……冗談じゃない。
自分が何者かを教えてくれもせず、そんな重たすぎる使命を勝手に課されても困る。私はそんなこと望んでない。これ以上の重荷は必要ない。
「無茶なこと言わないで」
私はただ、普通の人間や兎で有りたかったのだ。でも、もう望んだところで普通になんて戻れない。人界でも、妖界でも、逃げて隠れて暮らせないことはないかもしれないけれど、そんな事をする気力もなくなってしまった。全部を捨てたいと思っているのに、そこに使命だなんて重たいものを乗せないでほしい。
「私はもうこれ以上、何にも煩わされたくないし、静かに全部終わらせたいの」
私がきっぱり断ると、声の主は「ふぅむ」と少し考えるように黙り込んだ。しかし、諦めてくれたかとホッと息を吐きかけたところで、再び声が響いてくる。
「何にも煩わされたくないのなら、我のところに来れば良い。邪魔の入らぬ平穏を与えてやれるぞ。来るまでが少々面倒やもしれぬが」
「……もう面倒事を抱え込みたくないって言ってるんだけど」
一体、何を聞いていたのだろう。平穏を得るために面倒を抱えなくてはならないなんて、本末転倒だ。
「しかし、このまま何もせず生きていれば闇が迫り、更なる面倒事は免れぬぞ。それに、全てを捨てて自死を選べば輪廻によってより辛い生へ導かれる。いずれにせよ、汝の願いは叶わぬ」
……何それ、八方塞か。
私がなかなか首を縦に振ろうとしないせいか、困ったように発せられた言葉に、私は頭を抱えたくなった。
山羊七のように厄介ごとから逃げ隠れしながら1人密かに暮らすのも、逃げ切れないと諦めてすべてを捨てるのも、どちらを選んでも平穏は訪れないと宣告されるなんて。
私が言葉を失ったことに気づいた声の主は、気遣うような素振りで畳み掛ける。
「そもそも、汝は本当にこの世が滅びても良いのか? 本当に全てが闇にのまれて消え失せるぞ。汝が動けば救えるものを、本当に全て見捨てて良いのか? 汝が知る者皆が苦痛に満ちた死を迎えることになるのだが、それでよいのか?」
……皆を人質にとって、良心の呵責に訴えるようなことをするのは卑怯だと思う。
「ほんの少しだ。鬼界を抜け深淵へ来ればよい。あとは汝の望み通りに平穏をくれてやる。そうすれば、汝のせいでこの世が滅びることもない。」
いつの間にか、私が行かないせいで世界が滅びる事になっている。でも、鬼界だなんて、どれだけの困難を背負うことになるのだろう。
「どうせ鬼界に入った途端に、鬼に食べらて終わりだよ。辿り着けるわけない」
「鬼は鬼を食わぬ。鬼の因子を持つ汝が食われることはあるまい。
「虚鬼って何?」
「鬼の
私の持つ力も、共に生きてきた者たちを見捨てられない事も、何でもお見通しだと言わんばかりの声に、私はハアと息を吐き出した。
自死はNG。このまま人界や妖界のどこかにいても困難はやってくるらしい。まるでこれしかないとばかりに一本の道だけが示されている。
「汝が来れば、全てが丸く収まる。平穏という望みが叶い、世界が救われるのだ。何を迷うことがある。このままでは何もかも失うぞ」
……私だって別に世界が滅びれば良いと思っているわけではないけどさ。
立つ鳥跡を濁さずという言葉の通り、消えるにしても、もともと皆が困らないようにだけはしておくつもりだった。
誘導されて相手の思うつぼにハマってやるのは癪だけど……
「……わかった」
私は渋々、小さく頷いた。
すべてに納得したわけではない。それでも、何者かに課された使命とやらのために動くのは本当にこれが最後だと心に決めて。
「でも鬼界へは行けても、深淵への行き方がわからないんだけど」
鬼界に行くのは大して手間はかからない。陽の気と陰の気を操り、結界に穴を開ければいいだけだ。でも、深淵なんて初めて聞く場所に1人で辿り着けるとは思えない。
「鬼界での案内役を遣わそう。悪意のある鬼や虚鬼から汝を護るくらいはできよう」
「……案内役兼護衛役、か……」
せっかく行く気になったのに、正直、気が重くなる。
……怖いんだよなぁ……
信用して自分の安全を委ねる相手に、いつ刃を向けられるかわからない恐怖。信頼が覆る絶望。いくら頭を垂れていても、自分を害する理由なんていくらでも出てくる。それこそ本人に叛意がなくても。絶対的な信頼なんてあり得ない。
「なんとか私一人で行く方法はない?」
「場所を示す術がない。それに、汝に身を護る術があるとはいえ、1人では危険も伴う。我の前に辿り着く前に死なれては困るからな」
「……それはそうかもしれないけど……」
……まあ、信用せずに案内だけさせればそれで済む話か……いつか自分を殺すかもしれない存在だと最初から思っていれば、裏切られても痛くないし。
「ところで、その案内役はどうやって私のところにくるの?」
「我には汝の居場所がわかる。案内役と我は離れていても意思疎通できる故、迎えに行かせよう。少々時間がかかるやもしれぬから、汝は鬼界に来たら安全なところでじっとしておれ」
「……鬼界に安全なところなんてあるの?」
「何者にも見つからぬようなところに隠れておればよい」
なるほど……
「最後にひとつ。これが夢じゃないって証明できる? 無駄に鬼界に行くのはさすがに嫌なんだけど」
「うぅむ……ならば、目覚めたあとに一度だけ我に呼びかけよ。返事ができるようにしておいてやろう。我もそうそう汝に意識を飛ばせぬゆえ、たった一度きりになろうが」
声の主がそう言うと、不意に真っ暗闇の中でキラキラとした一滴の光が目の前に落ちてきた。
「それを手に取れ」
そっと手を差し出すと、まるで雪が手のひらに溶けるように、光の粒は消えてしまう。
「うむ。では、待っておるぞ」
満足そうな声音とともに意識がふわりと浮き上がり、緩慢にまぶたが動く。
明るい意識の外の風景は、幻妖宮の自室。いつもの布団のうえだった。
重たい体を起こして体を見下ろすと、起きる前まで見ていた玉雲のものではなく白月の体が見えた。
「……はぁ……」
思わず溜息が出る。何の問題もなく戻ってきてしまったことに。
「……ねえ、本当に返事をしてくれるの?」
そう声に出すと、自分のものではない低い声が頭の中で響いた。
「現実だとわかったら、さっさと鬼界へ来い」
本当にたった一言。でも、さっきまでのあれは本当に現実だったらしい。
「はいはい」
そう、聞こえているのかいないのかわからない相手に返事をすると、戸の向こう側で誰かが動く音がした。
「白月様、お目覚めですか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます