第156話 妖界の使者②

 扉をノックする音とともに、忠を連れてきたという巽の声が響いた。扉が開くと小さなネズミがちょこんと姿を現し、巽に軽く背を押されて中に入ってくる。


「……あ、あの……お呼びとうかがったんですけど……」


 パタリと戸が閉じて一人取り残され、忠はおずおずと声を出した。宇柳が訝しむような視線を向けると、うぅっと小さく呻く声が漏れ聞こえてくる。

 

 ……やっぱり宇柳さんの前に出すのは可哀想だったかも……


「ごめん、忠。もう一度協力して欲しくてさ。」


 俺が言うと、忠は宇柳の前に置かれた水晶玉に目を向ける。それから、何か言いたげな顔をしたあと、躊躇いがちに視線を下げた。

 

「……は、はい……あの……俺は、大丈夫です。……ただ……」


 忠はそこまで言うと、眉根を寄せて、言葉を切る。


「ただ?」

「……えぇっと……あの……中の方が協力してくれるか……どうか……」

「どういう意味だ。我らには協力できぬとでも?」


 宇柳が厳しい声音で問うと、忠は小さく体を竦めた。

 

 いつもは柔らかい雰囲気のある宇柳だが、今日はどこか緊張感があり、ハクのことでピリピリしているのが伝わってくる。


「あの、待ってください。さっきも言った通り、彼は里の者ではないし、こちらの事情も知らないただの協力者なんです。何か理由があるはずです。」


 俺が声を上げると、宇柳は険しい表情のまま俺を見る。しかし、こちらの対応を見定めるためか、それ以上は何も言わずにそのまま口を閉じた。

 

 俺は気を取り直して、忠に目を向ける。


「あのさ、忠。ハクが協力したくないって言ってるの?」

「……い、いえ……協力したくないというか…………その…………」


 忠はそこまで言って再び口を噤んだ。

 きっと伝えたい事があるのだろう。そう思い、何も言わずにじっと忠の言葉の続きを待つ。すると、忠は床の上で視線を彷徨わせたあと、覚悟を決めたように、ぎゅっと一度、目を瞑った。

 

「この前お話を聞いた時に、その……白月さん、戻りたくないと、言っていたので……」


 声をどんどん小さくしぼませながら言う忠の言葉に、俺は思わず眉を顰めた。

 

「……は? 戻りたくない?」


 言葉の意味がすんなり理解できずに繰り返すと、忠は慌てたように口元を両手で覆う。


「……す、すみません!」

「あ、いや、ごめん。忠を責めてるわけじゃないんだ。ただ、ちょっと意味がわからなくて……ハクがなんて言ってたか、詳しく教えてもらえるかな?」


 俺が表情を取り繕いながらそう付け加えると、忠はほっとしたように口元から手を下ろし、再びポツリポツリと話しはじめた。

 

「…………あの……俺も詳しくはよくわからないんです。この前のお話も、俺、馬鹿だからあんまり理解できなくて……でも、白月さん、ずっと何かに怯えてて……そこから出たくないって言ってて……」

「……出たくないって、水晶玉から? ……でも……」


 水晶玉の中から出なければ、ハクは元の体に戻れない。出たくないということは、つまり、元の体に戻りたくないと、そう言っているということだ。

 ……でも、なんで……


 そう思っていると、忠が言いにくそうに言葉を続けた。

 

「……その中は暖かくて、痛くも苦しくもないし、もう殺されることもないって……何度も死ぬのは嫌だ、外に出るならそのまま消えたいって……そう言ってたんです。………俺には、『何度も死ぬ』っていうのがよくわからなかったんですけど……」


 忠から語られたハクの言葉に、ここに居る皆、思い当たることがあったのだろう。言葉を失い、じっと水晶玉を見た。俺の視界の端に、汐が唇を噛んで俯いたのが映る。その手にそっと、椿が手を添えたのも。

 

 今回のことに限らず、痛い思いや怖い思いをハクは数え切れないほど味わってきたはずだ。結として守り手を担っていた時期、ハクになって妖界の政変を走り抜けた時期、帝になり識と遼が起こした事件、そして今回のこと。その度に死ぬような目にもあっているし、結から白月、白月から玉雲、玉雲から今の状態に至っては、その度に肉体を失っている。それが、どれほどハクの心に負担をかけているか……

 こんな魂だけの状態で、いつ割れるともわからない水晶玉の中で、ハクがどんな気持ちでいるのか、そんな事にも俺は頭が回っていなかった。


「……俺、言えなくて……奏太様達が、白月さんを必死に元の体に戻そうとしてたから……

 でも俺、鬼火と話ができるからわかるんです。魂だけになった鬼火は凄く不安定で、この世に強い思いのある者以外、空に帰りたがるんです。それが、魂だけになった者にとってあるべき姿だから……白月さんは鬼火じゃないけど、同じような状態なんですよね? だから、きっと……」


 そこまで言ったところで、忠はふっと再び口を噤んだ。

 最初、言いにくいことがあって口を閉じたのかと思った。しかしよくよく様子をみてみると、じっと一点を見つめて耳を澄ませているようにみえる。視線の先にあるのは、宇柳の前に置かれた水晶玉だ。

 

 しばらくすると、忠は戸惑う様な声を上げた。

 

「……え、あの……でも、いいんですか? この前あなたが言ってた事を無視して奏太様に伝えなかったの、俺、ずっと気になってて……だから……その……せめて貴方の望みを伝えるくらいはと思ったんですけど……」


 突然、脈絡なく話はじめた忠に、宇柳が眉根を寄せて頭を僅かに傾ける。


「一体どうしたのだ、急に。」

「……きっと、水晶玉の中のハクが、何かを言ったんだと思います。少し様子を見ましょう。」


 ハクの気持ちを忠が俺達に伝えた直後だ。ハクから何らかのリアクションがあったのだろう。それなら、忠には正確にハクの言葉の意図を汲み取ってもらった方が良い。今は忠だけが頼りなのだ。


 忠は水晶玉に続けて問いかける。


「……えぇっと……あの、一度戻らないと終わらないっていうのは、一体……」


 困惑した表情で忠は首をかしげた。

 

「……やるべきこと……けじめ、ですか……? その為に、元の体に戻ってもいいと? でも……」


 忠の言葉から類推することしかできないけど、昨日の時点では『戻りたくない』と言っていたハクが、『戻っても良い』と言っているようにも聞こえる。

 

 昨日今日で心情にどんな変化があったかはわからない。でも、もしそうであれば、良い方向にハクの気持ちは変わっているのかもしれない。

 

「……そう……ですか。……いえ、貴方がそう言うなら……」


 忠がそう納得したところで、俺は忠に声を掛ける。

 

「ねえ、忠。ハクがなんて言っていたのか、教えてくれる?」

「……ええっと……元の体に戻ると……言ってます。」


 俺は、その言葉にほっと息を吐いた。張り詰めたように水晶玉と忠、それから俺を見ていた宇柳の表情も、いくらか和らいだように見える。

 しかし、胸を撫で下ろしたのは一時の事だった。


「…………一度自分が戻らなければ、奏太様や自分以外の誰かが同じ痛みを背負うだけだからって……テンカンノギ? っていうので、自分以外の者を妖界に送るわけにはいかないって……」


 その言葉に、重たい何かが胸の奥に滑り落ちた様な感覚がした。

 ハクの気持ちが良い方向に変わっているんじゃない。ハクの気持ちを変えたのは、さっきまでの俺達の話。妖界に陽の気の使い手が不在になった時のこと。ハクはそれを聞いていて、元の体に戻ろうとしているだけなんだ……


「……ハク、ごめん……俺……」


 元の体に戻れということは、日向家が背負う最も辛い役目を再び押し付けようとしているのと同義だ。どんな危険に遭おうとも、どんなに辛くとも、妖界に戻って妖界と人界の為に重荷を背負えと。

 ハクを元の体に戻すのは正しいことのはず。このまま魂を失わせるわけにはいかない。それなのに、ハク自身にとって、それが本当に良いことなのかがわからなくなってくる。


 しかし、ハクになんと声をかければ良いか迷っているうちに、忠が口を開いた。


「……謝らなくて良いと言ってます。ウリュウさんと言う方に、ゲンヨウキュウへ連れて帰るように伝えてほしいって。妖界のことは自分が戻って何とかするからって。」

「……でも……」 

「……ええっと……どっちにしても、自分が帰らないと、またウリュウさんって人がカミちゃんさんとリヨウさんに責められるだろうからって」


 まるで茶化すようなハクの言葉を忠が付け加える。これ以上、俺に思い悩ませまいとするハクの気遣いに、俺はそれ以上、何も言えなかった。

 

「……あの、さっきからお名前が出てるウリュウさんて、そこにいらっしゃる方ですか?」

「え、あ、ごめん。紹介してなくて。」


 不意に忠自身の言葉で問いかけられて、俺はハッとした。そういえば、忠がこの部屋に来てから、宇柳の名前はおろか、どこから来たのかすら伝えていなかった。ハクとの関係も。

 

「いえ、いいんです。ただ、中にいるのが白月さんだと確認したいなら、何でも質問してくれていいと言ってます。宮中のことでも戦のことでも、その前の旅のことでも。ウリュウさんに信用してもらわないと、帰れないからって。」


 忠が言うと、宇柳は小さく息を吐いて、ゆるく首を横に振った。


「もう結構です。お話から考えれば、貴方が白月様であることは確かでしょうから。」


 ハクが背負っているもの、今まで経験してきたこと、宇柳と翠雨と璃耀のこと。宇柳の顔も名前も知らなかった忠が知っているわけがないし、中にいるのが別人だったとして、ハクが帝位につく前のことを質問されて答えられる者は、ほとんどいない。

 

「あ、あの……それなら、今から言う事をそのまま伝えてほしいと言われてるんですが、いいですか?」


 忠はそう言うと、水晶玉と宇柳を交互に見る。宇柳がコクリと頷くのを確認すると、忠はじっと水晶玉の声に耳を澄ませた。


「……えーっと……信じてくれるなら、このままウリュウさんに行方を託すと。烏天狗の質になった、あの時みたいに、だそうです。」

「…………こんな時に、嫌な事を思い出させないでください……白月様……」


 宇柳は困ったように、眉を下げて小さく言った。


 

「それで、どの様にすれば白月様は元に戻れるのですか?」


 気を取り直したように宇柳はじっと俺を見る。その眼の前に、俺はもう一つの水晶玉を差し出した。中央に光のない白の半透明の方だ。

 

「今のハクの体にこの水晶玉を入れて、ハクの体を使っている鬼の魂を移します。それに関しては、一度鬼の体からハクの魂を移しているので問題ないと思います。」

 

 あの行商人は、同じ水晶に同じ者の魂を籠める事はできないと言っていた。

 これは鬼の体に埋まっていた方だ。つまり、ハクの魂が入っていた方。もう一度ハクの魂を入れることはできない。でも、ハクの体を使っている鬼の魂は入れられるはずだ。


「それから、ハクの体に今度はこっちの水晶玉を入れて、空の体に魂を移します。」


 俺は宇柳の前の小さな箱に入った、オレンジの光が灯る方を指し示す。


「こっちは俺達では試していないので、正直、確実とは言えません。ただ、鬼の体にハクの魂が、ハクの体に鬼の魂が移っている以上、こちらも問題なく戻せるはずです。」

「……確実では無いのですか……それで、もしも上手くいかなかったら……」


 宇柳はギュッと眉間に皺を寄せた。確実性のないことに賭けるのは俺もできるだけ避けたい。でも、急がないといけない理由もある。

 

「方法を知ってるはずの商人がまだ見つからないんです。ただ、時間をおくと魂が水晶玉から抜け出てしまうそうで……どれくらいの期間でそうなるのかはわかりませんが……」

「……できるだけ急いだほうが良い、と言うことですね?」


 宇柳がぐっと奥歯を噛んだのがわかった。


「はい。念の為、やり方を知っている巽をつけます。一緒に連れて行ってください。」


 正直、今巽を貸し出すのは痛い。巽は機転が効くし、亘や椿程ではないにしろ、武官なのである程度危険が伴うことも任せられる。貴重な戦力だ。

 でも、失敗の可能性を少しでも減らす為には、やり方を知っている者がいたほうが良い。


「宇柳さんと巽に託します。必ず、ハクを元の体に戻してください。」

 

 宇柳はじっと俺の目を見返す。そして、一度目を閉じたあと、ゆっくり息を吸い吐き出した。


「白月様にも奏太様にも、随分と重大な御役目を託されたものですね。」


 それから、恭しく丁寧に、俺に向かって頭を下げる。


「恐れ入ります。側近の方をお貸しいただけるとのこと、感謝申し上げます。白月様は必ず元のお体にお戻しいたします。」



 人界と妖界を繋ぐ扉の前。

 巽は目立たないように、トンボの姿で宇柳の着物の袖の中に隠れている。当の宇柳には、しっかり二つの水晶玉を持ってもらった。ハクが入った水晶玉と、鬼の体に入っていた空の水晶玉だ。


 俺と汐、椿の三人で、宇柳と巽を送り出す。今はとにかく、上手く事が進むのを祈るだけ。

 

「……白月様は大丈夫でしょうか。」


 閉じた扉に向かって、ポツリと椿が不安そうにつぶやいた。


「大丈夫だよ、きっと。巽がついてるんだから。」


 魂をすくい上げる事だけなら、巽は経験済みだ。それに、嫌な前例ではあるけれど、魂を空の器に移すことについては、すでに湊が二回成功させている。巽は鬼の体に水晶玉が埋まっていたことも確認済みだ。行商人が言った通りにすれば、問題なく元に戻すことができるだろう。湊がやった事をもう一度やる、それだけだ。

 

 ああ見えて、巽はしっかりしている。自分に自信が無さそうなところはあるけど、亘や椿、柾とはまた違った意味で、頼れる護衛役だと俺は思ってる。


 ただ一つ、心配なのは、ハクの気持ちに目を瞑って本来の体に戻すこと。


 どちらの選択が正しいのか、そんなの言うまでもない。きっと、殆どの者にとっての最善を選んだのだとも思う。

 ただそれは、今まで辛い思いをしてきたであろう、ハクの気持ちを犠牲にしたということだ。


 元の体に戻ったあと、ハクが一体どう思うのか、それだけが気がかりだった。

 

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