第144話 土牢の鬼②
狐の面の男に連れられて遥斗は出ていった。ご丁寧に、扉にきっちり鍵をかけて。
でも、そうじゃなかったとしても、あの狐面が言っていた事が本当ならば、このまま一人で逃げることはできない。
普通なら冗談だと笑い飛ばすような話。
でも、あの一瞬だけ、凍えるほどに冷たく発せられたあの男の言葉が、どうしても頭にこびり着いて離れなかった。
戻らなければ確かめようがない。いや、戻ったところで確かめられるかどうかも分からない。それでも、この鬼を放って残していくわけにはいかない。
二人が出ていったあと、真実を確かめたくて、俺は半信半疑で鬼に声をかけてみた。
目の前の鬼は、今まで遭遇してきた鬼とはやはりどこか違う。声を大きく出すのが辛くてズリズリと這うようにして近づいたところで、怯えと戸惑いの混じった目で俺を見るだけだ。
いくつか質問をしてみたが、鬼は首を縦か横に振るばかりで何も言わない。あの男が言ったことの真偽を問えば、声も出さずに小さく首肯した。
今までの経験上、鬼は話すことができる者と、そもそもコミュニケーションを取ることが難しい者がいる。あの男の言っていたことが本当ならば話ができてもおかしくはないはずだが、この鬼は喋ることが出来ないのだろうか。
事情を詳しく聞けないのでは、不明なことが事が多すぎて、判断に迷う。
不意に、以前、生き物ならば鬼火とでも話ができると言っていたネズミが遊園地にいたのを思い出す。もちろん、こんなところへ連れて来る事なんてできないけれど、言葉を発しない鬼火と話せたあいつなら通訳できるのだろうか。そんなの、今この場ではどうしようもないけど……
そこから時間が経つに連れ、次第に慣れのせいか、胸の痛みが少しだけ和らいでいる気がしてきた。でも足の痛みは相変わらずだし、胸の痛みの代わりに、頭に靄がかかったようで上手く働かなくなっていく。
考えなくてはならないことも沢山あるし、どうにかしてここから出る努力も必要だ。でも、どうにも考える気力がわかない。周囲に立ち込める匂いも気にならなくなってきた。
……ああ……良くわかんないけど、これはマズいヤツかな……
そんな事を思いながら、俺はくたりと地面に体を預けた。
そのまま、いつの間にか眠っていたのだろう。
突然、上にしていた脇腹を鋭い何かに貫かれる激痛に襲われ、何が何だかわからないままに、俺は目を見開いた。
ぎゅうっと奥歯を噛み締め、横向きに膝を抱えるように丸まりながら、痛みを逃がそうと息を歯の隙間から吐く。でも、そんなことで和らぐような痛みじゃない。一番痛む場所を押さえると、生暖かいヌメっとした感触があった。
目が霞むのは、寝起きだからか痛みのせいか。
ヌメッとした何かに濡れた手を震わせながら目の前に持っていくと、自分の手が真っ赤に染まっていた。
脇腹が燃えるように熱くて痛い。息がしにくくて苦しい。ハッハッと浅くしか空気が入ってこない。
唐突に起こった出来事に頭の中でクエスチョンマークを浮かべて呻いていると、何者かにグイッと上にしていた方の肩を掴まれ、ごろりと仰向けにされた。
あまりの痛みに思わず声にならない叫びが空気とともに漏れる。
涙目になりながらその何者かを確かめようと顔を僅かに動かすと、刀を血で濡らした狐面の男が俺のことを冷たい目で見下ろしていた。
男は俺のそばにしゃがみ込むと、俺の胸元やポケットなどをしきりに叩いて何かを確認し始める。スマホを見つけて近くに無造作に投げ捨て、更に何度か体中を叩いていく。しばらくすると、ようやく納得したように、小さく頷いた。
それから、スッと立ち上がり、視界を外れてどこかに向かっていく。
でも、これ以上身じろぎすらしたくなくて、俺はその姿を追うことなく、男に転がされた体勢のまま土でできた天井を見ていた。
もう、痛いのか熱いのかも良くわからない。息をするのも辛い。こんな状態でも戦おうとしていた亘を思い出して、情けなくて泣きたくなる。
近くで、ガチャンっ! という金属音が響いた。
「さあ、自由だ。」
低く静かな男の声がしたと思えば、それとともに、こちらへ走り寄る小さな足音が聞こえてくる。それがピタリと俺の側で止まると、その人物がスッと膝をついたのがわかった。黒い髪を垂らした美しい顔が、真上から俺を覗き込む。
先ほどまで鎖で繋がれていたはずのあの鬼が、痛ましいものを見るような表情を浮かべて見下ろしていた。
鬼はゆっくりと、俺の頭と体を支えるようにして持ち上げる。腹の傷がズキッと悲鳴を上げ、歯を食いしばって何とか耐える。俺にさわるなと抗議の声を上げたいのに、そんな声すら出てこない。
ふざけんな、と心の中で悪態をついていると、ふわりと柔らかい何かの上に頭が置かれた。
覗き込む鬼の顔との位置関係から、膝の上に載せられたのだと察しがつく。
まさか、こんなことをされると思わず目を見開くと、鬼は困ったような顔をした。
もしかして、やっぱり、この鬼は…………
狐面の男がフンと鼻を鳴らすのが耳に届くと共に、男のものと思われる足音が俺達から遠ざかっていく。向う先は、多分扉の方。思った通りにギィっと扉が開くと、バタンと大きな音を立てて閉まった。
結局、あの男が何をしたかったのかは謎のままだ。俺にとどめを刺すでもなく、捜し物が見つからなかったことを悔しがるでもない。鬼を鎖から解放した割に外に連れ出そうとするわけでもない。
ただ、痛くて辛くて苦しいし、無意味に叫んでのたうち回りたいくらいしんどいけど、もう一度刺されたり、殺されたりしなくて良かったとも思う。
鬼に抱えられたまま、時々冷たい手が頬や額に当てられる。どうやら、体にが持ち始めた熱を冷やそうとしてくれているらしい。
そうやって、痛みに耐え続けてどれほどの時間が経ったのだろう。ほんの僅かな時間だったかもしれないし、何時間も経ったのかもしれない。どちらにせよ、俺にとっては永遠とも思える時間をひたすら奥歯を噛んで過ごしていた。
いつまでこんな時間が続くのだろう。
いっそ終わりにして貰った方が楽になるのに、そう思い始めた頃だった。
突然、
ダーン!!
という大きな音と共に、部屋に数人の足音が聞こえた。
「奏太様!」
聞き馴染みのある高い声が自分を呼ぶ。
「汐! 巽! 奏太様を!」
続いた怒号のような低い声が亘の声だと認識してから大して間も置かずに、俺を抱えるようにしていた鬼が俺から引き離され、代わりに別の誰かに体を支えられた。
それと共に、バシャッと冷たい何かを腹と足に思い切りかけられる。
覗き込んだのは、心配そうな汐と巽の顔だった。
「奏太様、お体は……」
汐の声と共に、先程まで痛くて痛くて仕方がなかった腹と足の痛みが、じんわりと少しずつ和らいでいく。大丈夫とは言い難いが、それでもゆっくり息ができるようになった。
「……ありがとう……なんとか……。あの鬼は……?」
「大丈夫です。亘さんが今、始末を。」
安心させるように発せられた巽の言葉に、全身が粟立った。
「っダメだ!!!」
「は?」
間抜けな声を出す巽を無視して勢いで身を捩ると、痛みで息が止まりそうになる。思わず横っ腹を押さえて前のめりに蹲ると、
「動いてはいけません!」
という汐の鋭い声が響いた。
妖界の温泉水をかけたところで、すぐに全てが元通りとはいかない。完全に治るわけじゃないのは経験済みだ。でも、今はそれどころじゃない。
今、あの鬼を殺したらダメだ。万が一あの男の言葉が真実だったとしたら大変な事になる。
痛みに耐えつつ何とか体を起こすと、壁に追い詰められた鬼と、刀を構える亘の姿が目に入った。
「……亘、やめろ!!!」
「奏太様! 大人しくなさってください!!」
俺をとどめようとする汐と巽を無視して声を張り上げる。しかし、亘はピクリと反応したものの、止まる気配はない。
「やめろ、亘!!! 巽、亘を止めろ! あの鬼を殺させるな、絶対に!!」
「しかし……」
未だに痛む傷に奥歯を噛みながら必死に巽を押しやり亘のところへ向かわせようとする。
しかし、巽が動くよりも早く、ヒュッと小さく風を切る音が聞こえた。
鬼は、血しぶきをあげてその場に倒れ込む。その悲痛な表情に、俺は思わず鬼の方へ手を伸ばした。
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