七章
第141話 遥斗の呼び出し①
スマホが突然枕元で鳴ったのは、休日の早朝のことだった。
眠い目を擦りながらムクッと少しだけ体を起こして手を伸ばす。そこに表示されていたのは遥斗の名前だ。
「何なんだよ、こんな時間に。」
そう悪態をつきながら通話ボタンをタップすると、焦ったような声が向こう側から響いてきた。
「奏太、よかった! 助けてほしいんだ!」
「…………は?」
寝起きの頭によくわからない状況を突きつけられて、フリーズしたまま間抜けな声が出る。
「助けてくれよ! お前の力が必要なんだ!」
遥斗からこんな電話がかかってくることも不可解だけど、その声音がなんだか緊迫していることに困惑する。情報を処理できないまま、
「……助けてって…………今、どこ?」
となんとか尋ねると、
「お前ん
という、更に不可解な返答が返ってきた。
「……は?」
……俺ん
頭の中で復唱して、ようやく意味を理解し、思わずガバっと飛び起きた。窓の外を慌てて確認してみたが、俺の部屋の窓からでは、遥斗の姿は見えない。
「……マジで言ってんの?」
「嘘ついてどうすんだよ! 頼むよ、待ってるから!」
遥斗はそう言うと、プッと一方的に通話を切った。
まさかと思いつつスマホだけを掴み、ドタドタと階段を下りる。母に声をかけられたが適当に返事をし、玄関を抜け、庭も走り抜けて敷地外に出た。
電話で本人が言っていた通り、遥斗は家の前の道路で俺を待ち構えていた。
異様なのはその格好だ。一見服の模様かと思ったが、袖や胸元などに赤黒い染みが出来ている。
「お前、何で……それに、その格好……」
……まるで、血が染み込んでるみたいだ、そう言いかけて口を噤んだ。
風と共にほんの僅かに、思い出したくもないあの甘い匂いがした気がしたからだ。気のせいかもしれない。周囲を見回したが、自分と遥斗しかいない。
遥斗はチラと自分の服を見下ろすが、すぐに視線を俺に戻し、ガッと俺の腕を強い力で掴んだ。
「そんな事、どうでもいい。早く来てくれよ。」
「いや、でもそれ、怪我してるんじゃ……」
「俺の血じゃない。いいから早く!」
遥斗は早口でそう捲し立てる。本人が言う通り、怪我をしているような様子ではない。
でも、遥斗自身の血ではない、ということは、何者かの血ではあるということだ。しかも、服に染みを作るほどの量の。
「……何処かで誰かが怪我してるのか?」
「まあ、そんなトコ。」
これ程焦っているのだ。よっぽどの事があったのだろう。急いだほうが良い状況なのかもしれない。
これが夜ならば、護衛役の誰かに着いて来てもらえば良かっただろう。でも、今は早朝。夏らしい日の光がさんさんと降り注いでいる中、妖連中が外に出ることはできない。
せめて柊士にと思ったが、今は伯父さんと遠くに出かけているらしい。
どうすべきかと悩んでいる間に、遥斗はぐんと俺の腕を引いて歩き出した。
「なあ、せめて、どういう状況か教えてよ。何もわからなきゃ、助けられるものも助けられないだろ。」
「お前がいればそれでいい。急いでるんだ!」
「けどさ……」
そう言いかけるが、遥斗は俺を引きずるように先へ進む。その手は痛いほどに握られていて、遥斗の必死さが伝わってくるような気がした。
……現場を見ないと判断できないけど、この周辺で起こってることだ。万が一妖が絡むようなことがあれば、救急車や消防などで事を荒立てない方がいいよな……
何がどうなっているかはわからないけど、せめて状況確認だけはしておいたほうがいいのかもしれない。
幸か不幸か、今は日中だ。亘達が動けない代わりに、鬼も妖も自由には動けない。
「……わかった。行くよ。」
大怪我をしている者を放置はできない。
俺が応じると、ホッとしたのか、遥斗は口元に小さく笑みを浮かべて俺の腕を放した。
遥斗は山へ続く道を小走りに向かっていく。本家の裏山の方角だ。坂道を登っていくと次第に舗装された道路から獣道に入りはじめた。
「……なあ、ホントにこっちなのか?」
「こっちで間違いないよ。」
俺達は土の道を進み更には草をサクサクと踏み分け進んでいく。
一体、こんな山の中で誰と何をしていたのだろうか。今の時点でも歩きにくい状態なのだ。誰かが誤って足を滑らせたり、転んで怪我を負っていてもおかしくない。
腰丈ほどに生える雑草を掻き分け、山道を登り、降り、また登る。さすがに山に入った時の勢いのままというわけにはいかず進むペースが落ちているが、それでも段々と息切れがしてくる。
恐らく本家の裏山から出てはいないのだろうが、自分がどの辺りにいるのか、もはや検討もつかない。
このままでは自分たちの方が遭難するのではと不安になる。
「なあ、ここが何処か、分かってるのか?」
迷いなく進んでいく遥斗の背にむかってそう声をかける。しかし、遥斗からは、
「分かってるよ。」
という返答しか返ってこない。
「何処まで行くんだよ?」
「もうすぐだ。」
しかし、そんなやり取りをした後も、行けども行けども遥斗が止まる気配はない。
『本当にこんなところに怪我人が?』
『一体どういう状況なんだ?』
『怪我をしているのは一体誰だ?』
『遥斗はそもそも、何でこんなところまで入り込んだよ?』
尋ねてみるが、遥斗から満足な答えは返ってこないままだ。
「お前の事を調べようと思ってふらふらしてたら偶然入り込んじゃったんだよ。」
と繰り返すだけだ。
舗装されていない山道と夏の湿った空気と暑さに、ぐんぐん体力が奪われていく。疲れと息切れと共に、思考もどんどん奪われていくようだ。
それからどれほど歩いただろうか。さすがに疲労が溜まり立ち止まって休憩したいと思い始めた頃、遥斗はようやく、背丈より高く生茂る笹薮の前で立ち止まった。隙間なく枝を交互に絡ませあい、もっさりとした壁のようになっている。
「この奥。」
「……いや、この奥って……」
この先に何かがあるとは思えず戸惑いの声が出る。どう見ても、人が入って行くような場所ではない。
しかし遥斗は気にする様子もなく、僅かに隙間のある場所を選んで手で掻き分けながら当たり前のように中へ入って行った。
遥斗の姿が笹薮の向こうに消えると、何だか途端に不安になる。
あまり進んで行きたい場所ではないが、ここで遥斗を見失うのはまずい。救助の意味もあるが、もはや自力で帰れる気がしない。
俺は覚悟を決めてキッと笹薮を睨みつけ、細枝を絡ませる笹に手をかけた。
ガサガサと遥斗が突き進む音を聞きながらそちらを目指して進んでいく。
最初は気づかなかったが、行く手を阻む様な笹薮の中で、遥斗が進んでいくルートは上手いこと笹と笹の間に狭く細いトンネルのような隙間ができていて、まるで知っている者だけを選別するかのように奥へ奥へと導いていく。
それは次第に広くハッキリとしてきて、気づけば天井を笹に覆われた小道に変わっていた。
木漏れ日と青々とした天井に、何だか御伽噺の世界にでも迷い込んだみたいな気持ちになる。
まあ実際に、近くに御伽噺のような不思議の里があるわけだけど。
前方を歩く遥斗の背が見えるくらいまでトンネルが広くなると、土と雑草の壁にぶつかった。そこには、ぽっかりと人が二人並んで通れるくらいの穴が空いていて、何故かその奥には、まるでこちらを誘うかのようにチラチラと灯りが壁に映って揺れるのが見える。
どう見ても自然にできた穴じゃないし、灯りがある以上、何かの目的で使われている場所なのだろう。
笹薮で巧妙に隠された先にあったその穴の前で、俺は思わず足を止める。
何だか嫌な雰囲気だ。それに、日の当たらない場所に足を踏み入れるのは躊躇われる。
これ以上進んで良いのだろうか。本家に……亘や汐に知らせなくて大丈夫だろうか。
しかし、遥斗は迷う素振りもなくどんどん中へ入っていく。
日の当たらない暗い場所は、妖や鬼の領分。妖ならばまだ良いが、それでも人にとって敵か味方かはわからない。
俺はある程度先に進んでしまった遥斗を慌てて追いかけ、遥斗の腕を掴んで引き留めた。
遥斗の少し先では、先程の灯りの元が揺れている。鬼火のランプだ。つまり、ここは人が作った場所ではない。
なら、先に居るのは何者か……
「遥斗、ここから先は危険かもしれない。」
「危険なことないよ。すごくキレイな女の人がいるだけ。でも、怪我をして血を流してるんだ。」
そう言う遥斗の表情には、表面を取り繕うような憂いの中に、隠しきれない静かな興奮が混じっているように見えた。口元が不自然に歪み、何だか背筋が薄ら寒くなる。
「戻ろう、遥斗。日が暮れたら、怪我をしてる人は俺が助けに戻ってくるから。」
「バカな事言うなよ。日暮れまでなんて待てない。」
遥斗はそう言うと、驚くほどに強い力で、俺の腕を掴み返してくる。
「あの人のところに行くんだ。お前も。連れてこいって言われたんだ。じゃないと、あれを貰えないだろ。お前が必要なんだよ、奏太。」
「……遥斗?」
遥斗は恐ろしいほどの形相で、ギリリとその手に更に力を込める。あまりにもいつもと違う不気味な雰囲気に思わず手を振り払おうとしたが、振りほどく事ができない。
遥斗に掴まれた手を空いているもう片手で放させようと試みるが、一体遥斗のどこにこんな力があったのかと思うほどの力が更に込められて外せない。
「お前が来ないと、あれをもらえない。もっと欲しい。お前を連れていけば、あの人が、あれをくれるって約束してくれたんだ。」
なにかに取り憑かれたような遥斗に、俺は抵抗を忘れて唖然とする。
……あれって何だ? 遥斗は何を飲んだ? あの人って誰だ? そいつが遥斗に何かしたのか?
熱に浮かされたような目が、揺れる鬼火に照らされる。目の前に居るのは、本当に遥斗か。
「……あぁ、あれが欲しい、足りない。足りないんだ。もっと、もっと、もっと……」
相対している者の狂気に気圧されてジリっと一歩引くと、逆にグイッと引き寄せられる。
更に、遥斗はゴソゴソと自分のポケットを探って何かを取り出すと、一つの小瓶を俺の目の前に突きつける。
見覚えのあるそれに、背筋に氷が滑り落ちたような感覚がした。
「抵抗するなら飲ませろって言われたんだ。ホントは俺が欲しいのに……でも、お前を連れて行ったら、もっとたくさんもらえるから、今は、我慢、しないと……」
中で赤黒い液体が揺れる。
遥斗の手の中にあったのは、拓眞が持っていたあれだった。
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