第136話 亘の指針
いざ亘の側に座ると、何も言葉が出てこなかった。いろいろ言ってやりたいこともあったのに、良いことも悪いことも、何も出てこない。
「汐から伺いました。最後までお護りできず、申し訳ありません。」
以前、雪の日の後に謝られたのと同じように頭を下げる亘に、俺はどう応えたら良いのか分からなかった。
怪我をしたのは亘だ。俺を護ったせいで生死の境を彷徨うことになったのは亘の方だ。それなのに、何で亘が頭を下げているのだろう。
「……やめろよ。俺の方こそ……」
そこまで言いかけて言葉に詰まる。ごめんも、ありがとうも、なんか違う気がした。
「……奏太様?」
俺が口を噤んだままなのが気になったのか、亘は少しだけ頭を上げて俺の様子を窺う。
無言が続く中でこちらを心配しているのがわかって、何かを言わなくてはと整理ができないまま俺は口を開いた。
「…………護ってもらった事は感謝してるよ……ホントに……」
でも、このまま先を続けて良いものか一瞬迷う。言葉を切ると、真意を探るような目でじっと亘に見つめられて、思わず視線を下げた。
「…………けど、正直、怖かった。襲撃を受けた事が、じゃなくて、あんな風に護られることが。……目の前で、自分のせいで死に向かう姿を見せつけられるのが。……俺がお前を、死に追いやっているような気がして……」
俺を護って死ぬということは、俺のせいで死ぬということだ。いつも側で支えてくれていた者が、俺のせいで……
それは、鬼に真っ向から襲われるよりも怖いことだった。
「……あれは私が望んでしたことですし、貴方がその様にお考えになるような事では―――」
「無いんだろ。頭では理解してる。お前に言われた事も、汐に言われた事も、柊ちゃんに言われた事も、わかってるんだ。でも、それは理屈がわかったってだけだ。柾に言われた。本来自分の中から湧き上がるべきものを他人に押し付けられて、覚悟なんて決められるはず無いって。俺もそう思うし、実際そうだった。」
俺が言うと、亘は困ったように俺の後方にある扉の方に視線を移す。それと同時に、扉を守っていた柾がフンと鼻を鳴らしたのが聞こえてきた。
「己の信念を押し付けて覚悟せよ、とは流石に乱暴が過ぎると思っただけだ。」
「……お前に乱暴などとは言われたくない。」
亘の表情が苦虫を噛み潰したように歪む。それに俺は小さく息を吐いた。
「……俺には、柾の言い分のほうがしっくりくるよ。でも、未だに信念がなんかのかは、よくわかってない。行動の指針だって言われて理解はしたけど、命を捨ててまですることなのか。なんでそんなことの為に命を捨てることができるのか。亘はなんであの時……」
なんであの時、あれ程迷いなく俺の前に出たのか。俺なんかのために、命懸けで体を張って護ろうとしたのか……
今までも似たような場面は何度かあった。でも目の前でいつも側にいた者が、俺を護るためだけに苦しみ倒れ命の灯を消していくのを見ている事しかできない恐怖を味わったのは初めてだった。
「……信念と覚悟、ですか。そんなに難しい話ではないんですがね。」
口籠った俺に、亘もまた、仕方が無さそうにハアと息を吐いた。
「私は信念とは、こうありたいと信じる己の姿だと思っています。信念の為に命を捨てようとしたのではなく、こうありたいという己の為にこの命が必要だと思ったのです。」
一体何が違うのかがわからなくて、俺は首を傾げる。意味があんまり通じていない事を悟ったのだろう。亘は気が進まなそうに、
「あまり、このようなことは口にするようなものではないのですが、仕方がありませんね。」
と言いながら、姿勢を正した。
「信念といえば聞こえは良いですが、私が常に持っているのは、言葉に置き換えればそうなる、というだけで、恐らく貴方が思っているような高尚なものではありません。
ただ私は、仕えるべき主を護りきれずに己だけ生き残る事に
亘が言おうとしている出来事に直ぐに思い当たり、俺は亘を見つめる。
「あの方の苦痛を、失ったものを、この命一つで取り戻せるのならいくらでも差し出すのにと、何度思ったか知れません。でも過ぎた事を元に戻すことはできません。だからせめて、そのような後悔をもう二度としたくないのです。誰のためでもなく、私自身が、全てが終わったあとに後悔に苛まれないように、命を賭ける必要があっただけなのです。」
亘は気負った風もなく、当然でなんでも無いことのように言う。
「……亘自身が後悔しないように?」
「ええ。信念云々はおいておいても、行動原理は至極単純ですよ。貴方を失いたく無かった、ただそれだけです。
貴方だって、私が盾になったあの時、『もういい』と仰ったでしょう。私がその場を動けば、御自分が危険に晒されるのに。
それは、御自分の命より、咄嗟に私の命を案じてくださったからではないですか?
失いたくないと、思ってくださったからではないのですか?」
……確かにそうだった。
自分のせいで亘が死に向かっていくことが怖かった。それは多分、失う恐怖が一番大きかったんだと思う。
「私もまた、失いたくなかったのです。貴方を。主を失った未来で後悔を背負うことが死の淵に立たされるより辛く苦しい事だと知っているから尚の事。
最初に申し上げた通り、私が、そう望んだのです。命を引き換えにしてでも主たる方を護り抜くことを。誰の為でもない、己の未来の為に。」
「……己の……未来の為……」
俺は噛みしめるように、そう声に出して繰り返す。
失いたく無い。
失うくらいなら……後から後悔するくらいなら……
……あの時、俺も多分そうだった。亘をあのまま死なせるくらいならと、そう思った。
同じだったのだろうか。
あの日、あの時、俺が抱いた思いと、亘が抱いた思いは。
でも、思いが同じでも、俺は自分の無力さに奥歯を噛むだけで何もできなかった。何かを捨てることも、守ることも、できなかった。結局皆を危険に晒し失うところだった。
眉根を寄せて考え込んでいると、亘はまるでそれに答えるかのように続ける。
「もし、貴方と私に違いがあるとすれば、私にとってそれが明確で常に持ち続けている指針であったからでしょう。」
……指針。柾も言っていたことだ。
亘が言うように、あの時俺には、亘や皆を失いたく無いとは思っても、明確な指針はなかった。ただただ急場で迷い慌てることしかできなかった。
「……俺に指針があれば、ちゃんと皆を危険に晒さ無いように動けたのかな……亘のことも、晦や朔のことも……」
俺がそう呟くと、亘はあからさまに嫌そうな顔をした。
「すべてを等しく護ることはできません。何かを護ることを指針とするならば、対象と範囲、その優先順位を明らかにせねば、結果的に全てを失うことになります。それに、貴方に全てを護ろうと動かれると、私が護りたい者を護れなくなります。」
そう言う亘の表情に、自分の信念の為に亘が俺にその一端を押し付けたのだと言っていた柾の言葉が思い浮かぶ。
「……誰を盾にされても自分を優先しろって俺に言ったのは、亘の指針の先に晦達が入ってなかったから?」
俺にはとても切り捨てるなんてことはできない。そう思っていると、亘は小さく肩を竦めた。
「範囲も対象も優先順位も、それぞれですからね。個人であることもあれば、家族、仲間、里、国、と広がる場合もあります。ただ、範囲が広がれば、それだけ個人の存在は薄くなり枠組みの重要度が増すものです。
貴方に危険が迫っていない状態ならばまだしも、私の手はそれ程広くありません。
私自身が本当の意味で護り抜かねばならぬのは、白月様……正確には結様と貴方だけです。
柊士様と貴方を天秤にかけられれば、私は迷いなく貴方をとります。晦や朔ならば尚の事。それが汐であっても、里そのものであっても、自分自身の命であっても、取るべきは貴方の命です。
でも、きっと貴方はそうではないでしょう?
私が何よりも護りたい貴方の命を、貴方は恐らく一番に考えてくださっていないのです。あの日、それを改めて実感しました。」
じっと見つめられて、何だか居心地の悪い気持ちになる。そっと視線を逸らすと、亘は諦め混じりのため息をついた。
「一応申し上げておくと、私とて、貴方が失いたくないと願うものも出来る限り護りたいとは思っていますよ。以前申し上げた通り、後悔などない明るい道を歩んで頂きたいですから。
白月様を救いたいと言った貴方を妖界にお連れしたのも、柊士様を死なせたくないと言われて鬼界の綻びまでお伴したのも、貴方が余計な後悔を背負わない様にするためです。
でもやはり、それは出来たらであり一番ではありません。
私の手に負えず貴方に危険が及ぶなら、白月様を一時的に他の者に任せてでも、柊士様を見捨ててでも、貴方を危険から遠ざけるつもりでいましたから。」
白月様の時には貴方を遠ざけた後に一人で戻るつもりでしたが、と亘は小さく付け加えた。
「とにかく、貴方自身の命が護られることが私にとっては最も重要な事で、その為ならば貴方が護りたい誰かを犠牲にすることになったとて、致し方無い事とも思っています。結果的に貴方が拭いきれない後悔を背負うことになったとしても、天秤にかければ貴方の命の方が勝ります。
私自身の有りたい姿の為には主を失う事は最も避けなければならない事で、その為には貴方に生きていて頂かねばなりませんから。」
……俺のためではなく、亘自身の有りたい姿の為に。
亘の主張は思っていた以上に明快でシンプルだと素直に思った。
俺が自分の命より重くて守りたいものであっても、それは亘にとって、主である俺の命よりも優先されるものではない。例え亘自身の命であったとしても。そしてそれは、俺のためではなく、亘自身のためだというのが根底にあるのだ。亘自身が後悔を背負わない為に。
晦を盾にされても自分の身を最優先にしろと言われた事も、亘の指針に照らせば筋が通る。
でも、俺にはやっぱりそれが出来ないと思うのは、まだ明確では無いにせよ、失いたく無い範囲と対象が俺と亘では違うからなのだろう。
それが合っているとか間違っているとかではない。皆違っていて、それが当たり前なのだ。
丁寧に説明されてみれば、それは至極当然のことのようにも思えた。
「……なんか、ちょっとわかった気がするよ……」
そう小さく言うと、亘はほっとしたように表情を緩めた。
「御理解頂けて何よりです。では、今後は私の為にも御自身の身を第一に……」
「少なくとも、お前の指針に無理に合わせる必要がないって事はわかった。俺は俺自身の後悔が無いようにしていくよ。」
範囲も対象も、そもそもが違うのだから、無理に同じ指針に則る必要は無い。そしてその指針を否定する権利は誰にもない。
亘は亘の未来の為に、俺は俺の未来の為に、最善の選択するだけなのだ。
まだ俺の指針は曖昧だ。でもそれが明確になった時、自分の為にそれを貫き通せれば良い。亘が俺の制止を聞かずに命を張ったように。
「は、いや、あの……」
俺の宣言に、亘は想定と違うとでも言うように戸惑いの声を出し、汐が近くで盛大な溜め息をはき、柾が面白がるようにクッと笑いを零した。
心の底にずっと重たくドロドロと沈んでいたどす黒い何かは、本当に少しずつだけど、徐々にどこかへ流れ出ていっているような、そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます