第134話 柾の言い分

 薄暗く窓のない部屋の中で目を覚ます。

 柊士に険しい顔で薬を飲めと脅すように言われた所までは覚えてる。


 薬のおかげか、それとも夢も見ずにしっかり寝られたおかげか、ここ数日、靄がかかったようになっていた頭が何だかスッキリしていた。ずっとシクシク疼いていた胸の痛みもない。


 俺を取り巻く環境は、多分目覚めた今も改善していない。

 でも、重くて重くて仕方のなかった体が嘘のように以前の健康な状態に戻ったことで、心の殆どを占める程に膨れ上がり溺れないようにと必死でもがいていた、恐れや憂い、憤りといった負の感情が減っているような気がした。


「……奏太様」


 そう躊躇いがちに呼びかけられて、声の主の方に視線を向けると、俺の傍らには汐が座っていて、酷く辛そうな表情で俺のことを見ていた。


「……汐?」


 俺はムクッと体を起こして汐に目線を合わせる。


「……何でそんな顔してるの?」


 汐の様子が心配でじっと見つめると、汐は言いにくそうに俯く。


「奏太様が、なかなかお目覚めにならなくて……それで……」


 俺の事を心配してくれていたらしい。でも、汐の表情はやっぱり浮かないままだ。何かを言い淀み、ギュッと膝の上で拳を握っている。


 何だかいつもの汐らしくないのが気になって、汐の顔を覗き込む。


「……あの、心配かけてごめん。でも、その様子じゃ、多分それだけじゃ無いだろ。何か他に……」


 そう言いかけると、汐は顔を上げ、少しだけ目を見開いて俺の目をまじまじと見つめた。

 その拍子に、大きな瞳から、ポロッと涙が溢れ落ちる。


 今度はそれに、俺が目を見開く番だった。


「う、汐!?」


 汐が泣いてるのを見るのなんて、汐を人界に置き去りにして亘と二人で妖界の戦に加わった時以来だ。


「ご、ごめん! 俺……!」


 慌てて体を起こし、アワアワしながら狼狽えていると、不意に、


「……あの、奏太様……」


と別の方向から椿に呼びかけられる。


 汐から視線を離して周囲を見回し、そこで初めて、亘を除く護衛役達が揃っていることに気づいた。


「あ、あのさ、椿……汐に一体何が……俺、なんかした?」


 そう声をかけると、じっと俺を見つめる椿の瞳にも涙がみるみる内に溜まっていく。堪えきれなくなったように俯くと、ポタリと拳に涙が落ちた。


「えぇ!?」


 女の子を二人揃って泣かすような事をした覚えはまったくない。

 それとも、さっきまでの俺はそんなに危ない状態だったのだろうか。


 そう思っていると、突然、ドカッと巽に飛び掛かられて、ギュウと両腕で体を締め付けられた。


「今度は何だよ!」


 勢いで倒れそうになりながら、巽から逃れようと身を捩って声を上げる。


 すると巽もまた小さく震える声で、


「……良かった……」


と呟き、ズズッと鼻をすすった。



 落ち着いてよくよく話を聞くと、皆の様子がおかしかったのは、ここ数日の俺の言動のせいだった。

 覚えていないわけじゃない。ずっと苛々していたし、酷い態度をとっていたと思う。

 言い訳だけど、ここ数日、俺の頭の中は、あの日のことでいっぱいだった。眠れなくて、そのせいで余計に頭が働かなくて、その上に具合が悪くて、心に一分の余裕も無かった。


 特に、汐まで亘みたいになったらとそれが無性に不安で汐を俺の側に近寄らせたく無かったし、椿の顔を見るとどうしてもあの時のことを思い出してしまい、俺を護ろうとする護衛役としての行為そのものが怖かった。


 だから、誰にも護られなくても良くなるように、柾に稽古をつけてもらったりしたけど、それも全然駄目だった。そんな短時間でどうにかなる問題じゃないから当たり前なんだけど……


 汐と椿が涙を零したのも巽が急に抱きついてきたのも、この数日、俺がまるで別人になったようで、いつかちゃんと元に戻るのか、精神的な安定が得られるのか、それが不安で仕方がなかったかららしい。

 以前と同じ様な俺の態度にホッとしたのだと、椿が目元を指の背で拭いながら言った。


 自覚はそこまで無いけど、相当酷いものだったのだということは、皆んなの反応でよくわかった。


「まるで、刀の切っ先に触れるような感覚でしたね。」


 ようやく落ち着いたのか、俺の傍らにストンと座った巽にそう言われ、なんだか居た堪れない気持ちになる。

 その言い方だと、荒れて手に負えない思春期の子どものようだ。


「……ごめん……ホント……」


 絞り出すようにそう言うと、椿は首を横に振った。


「毒のせいもあったのでは、と伺いました。拓眞様の御部屋から出てきた赤黒い液体は、近くで直接臭気を吸い込むだけで心を何者かに支配されるような強い不快感がしたそうです。奏太様はそれを口にされたのですから……」


 ……支配されるような不快感?


 俺が感じたのはそんなものじゃなく、心臓を握りつぶされるような強烈な痛みだった。本当にそれは、俺が拓眞に飲まされそうになったものと同じものなのだろうか。


「あの赤い液体の匂いを吸い込んだ時から胸が痛かったのは確かだけど、支配っていうのとは違う気がするけど……」

「では、もしかしたら、支配されそうになる心とずっと戦っていらっしゃったのかもしれませんね。」


 ……そんなものだろうか。

 それに、椿はそう励ましてくれるけど、本当にあの赤い液体のせいだったかは分からない。

 だって、未だに心のなかには、後悔も自分への憤りも誰かを失う恐れも、いろいろなものが混ざりあって、まるでドス黒いヘドロの様に心の底に溜まっている。

 膨らんで埋め尽くされていないだけで、薬を飲んだところでそれが無くなった訳ではない。


「ちゃんと寝られたことで余裕が生まれただけで、ここ数日で考えてた事は今もそんなに変わってないよ。やっぱり俺が少しでも自分の身を守れてれたら、亘はああはならなかったかもしれないし。まだ目覚めて無いんでしょ?」


 汐を見ると、小さく首を様に振る。


 いつになったら目覚めるのだろうか。まさか、このままずっと目覚めないなんてことは……


 床に伏せたままの亘の姿を思い出し、俺はグッと奥歯を噛む。汐はそれに、仕方が無さそうに視線を少しだけ下げた。


「手は尽して頂いています。護衛役には過剰なほどに。今は、待つしかありません。」

「……分かってる。」


 結局、俺には何もしてやれない。あの時も、今も。亘自身の力に頼るしか無いんだ。


「あのさ柾、悪いけど、また稽古に付き合ってよ。」


 せめて、二度とあんな事が起こらないように。少しでも足手まといにならないように。今俺にできることはそれくらいだ。


 俺は今まで部屋の隅でずっと黙ったままだった柾に視線を向ける。すると、柾は訝るように少しだけ眉を上げた。


「心が弱いままでは、いくら鍛えたところでただの徒労です。力など付きません。」

「ま、柾さん!」


 慌てて巽が制止しようと立ち上がる。でも、俺は巽の腕を掴んで引き止めた。

 柾は多分、正しいことを言っている。ここ数日、あんな状態の俺に、ずっと同じ様に言い続けていた。

 最初に稽古をつけてくれと頼んだ時も、小鬼を始末しようとした椿の前に出た後も。淡々と切り捨てる様な物言いに食い下がって嫌な顔もされた。でも、柾が正しい事はわかってた。


「信念と覚悟が足らないのです。力を着けた後に同じ事が起こったとして、再び晦を盾にされたら、今度は晦ごと敵を討つ事ができるのですか?」

「……それは……」


 自分の弟のことなのに、当たり前のように選択を突きつけてくる柾に、俺は口籠る。


「相手の盾が、晦ではなく汐ならどうです。貴方にその覚悟が決められますか?」


 そんなの、想像しなくたってわかる。俺はきっと、同じ轍を踏む。多少抵抗できたとして、その先に見える未来は、きっと同じものだ。


「……柾が俺に求めてるのは、自分を守る為に他を犠牲にする信念と覚悟が必要ってこと?」


 何度も言われたそれは、結局のところ俺にとって、柾の言うようなものにはなり得ていない。意味と理由はわかっても、俺にはその覚悟が決められない。今回の件で思い知った。多分どこまで行っても、俺には無理だ。


 そう思っていると、柾は不思議そうな顔で首を傾げる。


「は? そのようなもの、私に聞かれても困ります。己で決めたものなら何だって良いのでは?」

「……何だって? でも、柊ちゃんと亘は……」

「柊士様はよくわかりませんが、亘がそう言ったのだとしたら、奴自身が自分の信念を守り抜く為に、貴方に一端を押し付けただけでしょう。本来己の内側から湧き上がるべきものを他人に押し付けられて、覚悟など決められるはずがありません。」

「……でも……」


 それがあるべき姿なのだと思い込んで悩んでたのに、真正面から否定されて、なんだか道を見失ったような気分だ。


「あのような場面で晦ごと拓眞を討つことは、別に正でも誤でも、どちらでもありません。貴方があの場で為したかった事によって、正にも誤にもなるのですから。」

「あの時俺が為したかった事……?」


 ……そもそも俺はあの時、何かを為したいと思っていただろうか……

 起こっている事態にただただ右往左往して、目の前で傷つけられる者達を前に喚いていただけだった。

 俺は逃げたかったのだろうか。助けたかったのだろうか。倒したかったのだろうか。

 今となってはそれすら分からない。


「己の信念が無ければ力の振るいどころを誤ります。怒りに我を失い味方すら陽の気に晒したのは良い例です。」

「柾さん、言い過ぎです!」


 今度は椿が俺を庇うように柾の言葉を咎めたが、俺は反論できずに口を噤む。

 あの時の事は覚えていない。それでも、力を制御できずに傷つけるつもりの無かった者達を自分の手で傷つけたのは確かだ。


 柾は椿を無視して続ける。


「信念は確固たる己の行動の指針です。そして、覚悟が無ければいざという時に動くことはできません。拓眞にすらあったそれが、貴方にはないのです。実際問題、武など磨かずとも、貴方にはそれなりの武器があるのですから。」

「……確固たる……指針……」

「絶体絶命の事態に追い込まれた時に標となるものがあるかどうか、瞬時に迷いなくその為の行動が起こせるかどうか、です。

 亘にはそれがあったから、迷わず貴方の盾になったのでしょう。結果、奴が望んだ通り、貴方に大きな怪我はなかったわけですし。」


 確かに亘はそうだった。俺の盾になることに迷いも躊躇いも見せなかった。

 それが亘の行動の指針だったから、なのだろうか……

 だとしたら、俺の指針は何なんだろう……俺の揺らぐことのない信念は何になるのだろう……そもそも、そんなもの、あるのだろうか……


「……柾の信念は何なの?」

「強いて言葉にするのであれば、死ぬ直前まで己を磨き高め続けること、でしょうか。全てのものはその踏み台でしかありません。守り手様の護衛役を引き受けたのもそれが理由ですし。本来、護衛役ではなく鬼退治の方が力はつけられるのですが、友に気持ちよく相手をさせる為ですからね。そういう意味でも、しばらくはお付き合いはするつもりです。その代わり、護衛中に脅威が現れたとして椿の時のように邪魔をなさるのなら、真っ先に貴方を黙らせますが。」

「「柾さん!!」」


 巽と椿が揃って声を上げたが、あまりに柾らしい言い分に、なんだか肩の力が抜ける。


「それでいいよ。その方が気が楽だ。」


 俺がそう言うと、柾は挑戦的にニッと笑う。


「ようやく話が通じるようになって何よりです。では、貴方なりの答えが出たら、お聞かせ願いましょう。それまで稽古は御預けです。先日は巽の顔を立てましたが、いくら守り手様の言とはいえ、私とて、無駄なことはしたくありませんから。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る