第129話 里の出口③

 拓眞に渡された瓶のコルクを引き抜いた途端、甘ったるい嫌な臭気が一気に上がってくる。

 ハクの席から漂って来たものをもっとずっと濃く強くしたような匂いだ。


 それとともに、突然、呻きたくなる程の痛みが胸に走った。ギューと心臓を握りつぶされるような強い痛みがして、息がしにくくなる。


「……う……ぐっ……!」


 立って居られずしゃがみ込み、少しでも痛みを和らげたくて、胸を押さえる。

 手に持っていた瓶を取り落とすと、匂いがそのままブワッと上にあがって来て、荒い息と共にそれを思い切り吸い込んでしまい、辛さが一層増す。


「なん……だよ……これ……」


 戸惑いつつ苦痛に耐えていると、不意に、自分の前で大きく影が動いた。

 ダンッと思い切り岩壁に押し付けられ、拓眞が俺の体に半分伸し掛かる。更にそのまま、身動きの取れない状態で、乱暴に顎を掴まれた。

 拓眞は懐から、先程と同じ瓶を取り出す。中で赤黒い液体が揺れる。


「量があるわけじゃないんだ。無駄にするなよ。」


 拓眞は囁くような声で言いながらコルクを引き抜く。瓶の口が俺の唇に押し付けられると、赤黒い液体を口の中に流し込まれた。


 甘い匂いと鉄っぽい味が口の中いっぱいに広がり、吐き気がする。吐き出したいのに、顎を力いっぱい掴まれ上を向かされているせいで吐き出せない。喉を通さないようにするので精一杯だ。

 それなのに、目の前が揺れてチラチラするほどの激痛が胸に走り、それすら難しくなってくる。

 さっきよりも痛みの強さが数倍増した感じだ。

 堪えられない程の胸の痛みに、意識が遠くなっていく。


 ……もう……無理……かも……


 そう諦めそうになった時だった。

 ふっと急に拓眞の手が緩んだ。


 俺は何事かと確かめる余裕もなく、身を捩って口の中に入れられた赤い液体を吐き出す。

 涙目になりながら、唾と共にできるだけ口の中に含まされた異物を出し切ると、少しだけ胸の痛みが落ち着いたような気がした。


 なんとか体を起こすと、何故か拓眞の体が俺の前に倒れていて、そこには別の影が立ちはだかっている。


 ただ、その影もまた、ぐらりと揺れて、その場に膝をついた。


 胸の痛みと混乱する意識の中で、その影が何者かをようやく理解すると、俺は目を見開いた。


「亘!!」


 呼びかけると、亘は俯き加減で苦しそうに、ふーっと深く息を吐き出してから、ザッと向きを変え、俺を背に庇うように刀を構える。


「近づく者があれば、陽の気を迷わず放てと申し上げたでしょう……誰を盾にされようと、貴方自身の武器を捨ててはなりません。」


 俺に苦言を呈す亘の前には、武官が一人刀を構えて立っていた。刀からは血が滴り、亘の背には大きく切り裂かれた傷が出来ている。


「亘、背中が……!」

「……拓眞を始末したまでは良かったのですが……少ししくじりましたね……」


 軽口を叩くように言うが、傷の様子と、絶え絶えに発せられる言葉から、かなり状態が悪いことが分かる。


 それなのに、刀を血で濡らした武官の他に、もう一人がふわりと地面に着地して亘に向かって武器を構えた。


 周囲をみると、最初に空から落ちてきた武官、呻き立ち上がれない様子の拓眞の他に、もう一人が鳥の姿に変わり地面に倒れ伏している。


 椿の方は、一体の鬼の片手を落としたようだが、肩で息をしながら未だ二体と向き合っていた。


「奏太様、先程申し上げたことと同じです。壁を背に、向って来る者があれば、躊躇いなく陽の気で焼いてください。誰を盾にされても。」

「でも……」


 そう言いかけて、口を噤む。


 晦を盾にされた事で、拓眞に捕まった。そこから俺を助けようとして、亘はこの大怪我を負ったのだ。


 ……でも、どうしても、うんとは言えない。あの場で晦ごと陽の気をぶつける勇気は、俺にはない。


 亘は小さく息を吐く。


「御自分の身を、誰よりも、何よりも、優先してください。必ず。」


 亘はそれだけ言うと、目の前の武官が隙をつこうと思い切り振り下ろした刀を刀身で受け止めて押し返す。

 更に、グッと足を踏み込んで、思い切り刀を突き出した。亘の背から血が溢れ出る。

 俺は傷つきながら戦う姿に思わず目を背ける。

 すると、刀を合わせ激しく打ち合う二人を他所に、もう一人の武官が翼を広げて飛び上がったのが見えた。


 更に、手を突き出して俺達の方に向って構える。その仕草に、力比べで術を使っていた者達の姿が重なる。


「亘!」


 そう叫ぶと、亘もそちらの動きに気づいていたのか、俺の声とほぼ同時に、チッと舌打ちをした。更にバサリと翼を広げて飛び上がり、俺の真上に覆いかぶさるように着地する。


 同時に、バタバタバタと激しい雨が地面に打ち付けるような、雹が降った時のような音が周囲に鳴り響いた。


 亘の翼で視界が塞がれ何があったのかが把握できない。でも、


「亘さん!」


という椿の悲鳴が聞こえてきて、亘に何かがあったのだということは分かった。


 亘の顔がある場所を見上げると、キラキラしたガラスのような何かが無数に肩の辺りにあるのが見える。


「……亘?」


 そう名を呼ぶと、亘はニコリと笑った。


「どうせこの様にお護りするなら、奏太様ではなく、女子を護り尊敬されたかったですねぇ。」


 いつもの調子でそう言う口元からツゥと血が伝う。


 目を見開いて、何とか周囲の状況を掴もうと見回すと、亘の翼と地面との隙間から、夥しい数の大きなガラスの破片の様な物が地面に突き刺さっているのが見えた。


 亘が俺をあの破片から守ろうとして盾になったのだと思いあたり、全身が粟立つ。


 戦いの最中に大量の血を流し、背を刀で切り裂かれ、体中に鋭利な破片が突き刺さり、それでもなお、亘は俺を守ろうとそこに立ち続けているのだ。


 喉のあたりが熱くなってくる。

 守られるだけの自分の弱さと無力さに嫌気がする。このままでは本当に、亘は俺を守って犠牲になってしまう。目の前で、常に隣にいた信頼する護衛役を失ってしまう。


「……もういい。亘。」


 声が震える。もう、見ていられない。このまま俺のせいで傷ついていく姿を。命を削っていく姿を。


 それでも亘は平然と笑う。


「おや、普段なら憎まれ口しか返って来ないのに、まさか心配してくださるのですか? 」


 心配するに決まってる。何でこんなになるまで戦うんだよ。何でこんなになってまで、無理に笑おうとするんだよ。


 いつになったらこの地獄の様な時間が終わるんだ。どうしたら今までのように気軽に憎まれ口を叩きあえる状態に戻れるんだろう。


 こんな状況なのに、いつものように笑い、俺を安心させようとする顔を見るのが、痛くて辛い。胸が苦しくて、この状況から抜け出したいと叫びだしたくなる。


 それでも、敵は待ってなんかくれない。


 無情にも、再び先程と同じ様にバタバタバタという大音量が周囲に響く。


 俺を護る亘の表情が歪む。歯を食いしばり声を噛み殺しているのが分かる。背に降りかかる痛みを堪えて、何とか踏みとどまっているのわかる。


 俺が居なければ逃げられるはずだ。俺が居なければ亘だって応戦できるはずなんだ。俺が……


「……亘、もういい! 俺のことは、もういいから!」


 そう声を上げても、亘は一歩もそこから動こうとしない。

 それどころか、ククっと、まるで俺をからかう時の様に


「何という顔をしているのです。」


と笑う。


 でも、その声は小さく掠れ、ニッと笑うはずの口角は、ほんの僅かにしか上がっていない。

 瞳の光は、徐々に失われていき、無理やり作った表情も次第に無くなっていく。


「もういい! 頼むから! 亘!!」


 俺の前から居なくなるな。

 俺なんかを護って死ぬな。

 置いていくなよ。頼むから。


 翼の内側で護られたまま俺は縋る思いで亘の襟元を掴む。その拍子に亘の体がグラと揺れる。


 そのまま倒れ込み、ポトリと落ちたその体は、もう人の姿をしていなかった。

 柾の口の中に飛び込んだ時のような、ただ、普通の鷲の……


「亘!!!」


 傍らに膝を付き呼びかける。でも、亘の体はもうピクリとも動かない。震える手でそっと触れても、揺すっても。


「……何やってんだよ……起きろよ……」


 それはまるで、人形か剥製のようで、さっきまで俺にニコリと笑いかけていた者と同じとは思えない。


「……なあ、俺の側を離れるわけにはいかなくなったんだろ?」


 いつもの調子で笑いながら、からかうように言われたのは、ほんの数時間前の話だ。


「俺は、堂々として待ってれば良いんだろ? 汐が言ってたじゃんか。」


 汐だって、亘が居なくなったら困るだろ。いつもはあんなだけど、絶対に悲しむ。結ちゃんも亘も失って……汐だけが残されるなんて……


「それに、全部解決して戻ってこいって、命じただろ。」


 拓眞の件を片付けて、正式な護衛役に戻ってくるって約束しただろ。

 承知しましたって、俺の我儘に溜め息をつきながら言ってただろ。


 知らず知らずの内に涙が溢れ頬を伝っていく。


「起きろよ、馬鹿。……起きろって……!」


 でも、そう叫んでも、亘はもう……



 不意に、近くでザッっと何者かが歩み寄る音がした。


 敵の攻撃はもう止んでいる。目的を達したとばかりに笑みを浮かべて、こちらへやって来ようとしている。


 ……何なんだよ。何で笑ってるんだよ。お前らに、亘が何をしたんだよ。俺達が、一体何を……


 俺は、ギリと奥歯を噛みしめる。


 そして、喪失感と怒りと絶望が入り混じったグチャグチャな感情のまま、俺はパンと手を打ち鳴らした。

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