第113話 幻の虚実②

 亘は闇を切り裂く様に夜空を飛行する。とにかく早くと急かした事で、いつも以上に速く飛んでくれているのが分かる。

 なんだかんだ言って、亘は多くを説明もしなくても、俺の気持ちを汲んで行動してくれる。


 ただ、亘に乗って向かう以外に今の俺には何もできないのがもどかしい。


 急く気持ちのまま亘の背を掴んでじっと先を見つめていると、亘はハアと息を吐いた。


「少し、肩の力を抜かれてはいかがです?」

「もしかしたら柊ちゃんが殺されるかもしれないのに、そんな余裕あるわけがないだろ。」


 焦る気持ちのせいで、どうしてもぶっきらぼうな言い方になる。しかし、亘はお構いなしだ。


「肩に力が入りすぎると、助けられるものも助けられませんよ。あと、そろそろ事情を聞かせていただけませんか? 柊士様の身に何が起こっているのか、奏太様が何を危惧されているのか。」


 そう言われて、そういえば亘に何の事情も説明していないということに、はたと気づいた。

 思っていた以上に動揺していたらしい。


 俺は大きく息を吸い込んで吐きだす。


「ごめん。」


 一言そう詫びると、俺は亘と本家で別れた後の事を順を追って説明していった。

 柾達と御役目に向かい、ついた湖で突然霧に包まれたこと。気づけば鳥居と壊れた祠の前にいて、柊士達が複数の鬼に襲われたこと。

 蜃という妖の幻だったと聞かされたけど、本家に戻って村田に聞かされた状況が、幻で見たものと全く一緒だったこと。


「―――蜃の幻ですか……」


 亘は考え込む様にそう呟く。


「何か知ってるの?」

「いえ、噂程度ですが、昔、蜃によく似た妖で未来を見せる様な種がいると聞いたことがあるのです。柊士様が向かわれた状況と奏太様がご覧になった幻が酷似しているのであれば、あるいはと……随分珍しい種だそうですが、その蜃はどうしたんです?」


 俺はそう言われて、あの時の状況を思い出す。


「……柾が噛み砕いてたと思う。」

「なるほど。殻を砕いたからといって死ぬものでは無いらしいですが、中身が生きていたとしても、見つけるのは難しそうですね。」


 残念そうな声を出す亘に、俺は眉を顰めた。


「そんな事言ってる場合じゃない。もし本当にそうなら、柊ちゃんは鬼に殺されるんだぞ。」

「……どこもかしこも鬼ばかりではありませんか。」


 亘はうんざりしたように言う。


 気持ちはよくわかる。

 本当に見せられたのが未来の光景だったとしたら、そんな事が本当に可能かは分からないけど、樹や碓氷の時の様に、意図的に鬼をけしかけられているのではと、どうしても思ってしまう。


「……拓眞の仕業なのかな……」

「さあ、どうでしょうね。ただ、もしそうだとしたら、どうやって、の方が気にかかりますね。」


 どこから連れて来るのか、どうやって操っているのか、か。


「樹と碓氷の一件から、拓眞様への監視の目が厳しくなっているそうです。その周囲も。ただ、あの方が里から出る機会も、妙な動きをしている様子もないと聞いています。万が一、何者かの関与が疑われる場合には、拓眞様以外に原因がある可能性も考えなくてはならないかもしれません。」

「……考えただけで嫌になってくるな……」


 いつまでこんな不安定な状態が続くのだろう。見通しの立たない問題事に、頭痛がしそうだ。


「同感ですね。まあひとまず、今回の件を片付けてしまいましょう。奏太様の杞憂であればそれで良し、そうで無ければ、里のゴタゴタを処理してくださる方をお救いせねばなりませんから。」

「……間に合うといいけど。」


 思わず本家を出てからずっと今まで溜め込んでいた不安が口をつく。


「柊士様が出られたのは、奏太様がお戻りになる直前でした。万が一のことがあっても、きっと間に合います。まずは状況を確認しましょう。」


 少しだけ口調を柔らかくした亘の言葉に、俺は小さく頷いた。



 亘が下降を始めたのは、それからしばらく経った頃だった。


 俺は思わず亘から体を乗り出す。一緒だ。あのとき見た鳥居、祠、周囲の雰囲気。鳥居の内側に複数の人影もある。

 一致なんてしていて欲しくなかった。あのとき見たのと同じ場所であってほしくなかった。


 押し潰されそうなほどの焦慮しょうりょが胸中に押し寄せる。


 街灯から僅かに外れたその場所の状況は、薄暗くてまだよく見えない。

 間に合うだろうか。全てが終わったあとでは無いだろうか。まだ生きていてくれるだろうか。

 焦る気持ちで目を凝らす。


 すると、淕達が数体の鬼に立ち向かい、柊士が二体の鬼に向かって陽の気放ったのが見えた。


 栞の姿はない。蝶の姿のせいで小さくて分からないだけか……いや、あの時見たものと同じなら、恐らく既に柊士を守って襲われたあと……


 やっぱり、ただの幻なんかじゃなかった。

 俺は悔しさにギリと奥歯を鳴らす。


 間に合わなかった。皆無事にとはいかなかった。

 でも、柊士がズタズタにされる前にはたどり着けた。

 今度はちゃんと体が動く。仲間もいる。これなら、助けられる。


「亘!」

「ええ。」


 亘は短く返事をすると、真っ直ぐに柊士に向かって降りていく。


「奏太様!」


 こちらに気づいた淕が、縋る様にそう叫んだ。

 柊士がその声に反応し、僅かにこちらに気を取られる。

 瞬間、柊士に向かっていった鬼が陽の気を避けて柊士の腕を掴み、柊士を引き倒した。

 ググっと柊士を地面に押さえつけ、更にもう一体が柊士に覆いかぶさる。


 俺は慌てて亘から飛び降りた。


「亘! 柾! 柊ちゃんからあいつらを引き剥がして!」


 叫ぶように言う。


 しかし、そう言うのが早いか遅いか、ぬらりと光る牙が柊士の首筋に当てられ、それとほぼ同時に、もう一体の鬼が鋭い爪を振り上げたのが目に入った。


 あと一歩、でもその一歩が間に合わない。

 無情にも、月明かりにキラリと光るその爪が柊士の背に真っ直ぐに振り下ろされた。


 背から血飛沫が上がる。


「柊士様!!」


 淕の悲鳴が周囲に響いた。


 亘と柾の二人が柊士の上に乗る鬼に飛びかかり取り押さえるのを横目に、俺は柊士に駆け寄り、妖界の温泉水を取り出してバッグを投げ捨てる。


 まだだ。まだ助けられるはずだ。あの時、柊士はまだ生きていた。栞に手を伸ばしたんだ。今なら、まだ救える。


「巽は栞を!」


 そう指示を出しながら、バシャっと柊士の傷口に温泉水をかける。椿が俺の周囲を警戒する中、俺は柊士の体を抱き起こした。


「柊ちゃん!」


 そう呼びかけると、柊士は薄く目を開く。


「……そう……た……?」


 ……良かった、生きてる。

 俺はほっと息を吐き出した。


「柊ちゃん、良かった……もう大丈夫だから。」

「……しおりは……」


 掠れ声の柊士の言葉に、俺はチラと巽の掌に乗せられた蝶に目を向ける。

 栞が動く気配はない。生きていてるかどうか、判断がつかない。

 でも今は、すべてを柊士に伝える必要はない。


「……大丈夫だよ。柊ちゃんはゆっくり休んで。二人とも、ちゃんと連れて帰るから。」


 俺がそう言うと、柊士は不安げに俺を見つめる。何でもない調子で言ったつもりだったが、少し表情に出ていただろうか。


「大丈夫だから。」


 もう一度、今度は努めてニコっと笑って見せると、柊士はようやく小さく息を吐いて、スウッと吸い込まれるように眠りについた。



 取り押さえていた鬼を始末した柾が加勢に向かった事で、淕達の方も何とか方がついたようだ。


「柊士様!」


 淕が焦ったようにこちらに駆け寄ってくる。

 体の傷は塞がったが、服は破けて大量の血で濡れている。それだけで、柊士がどれ程の大怪我を負ったのかを物語っていた。


「薬をかけたから大丈夫だと思うけど、戻ったら尾定さんを呼ばないと。」


 それに淕はコクリと頷く。


「……我らだけではどうにもなりませんでした。柊士様を御守りできず、失ってしまうかと…………奏太様が来てくださらねば、どうなっていた事か……」


 悔しそうにギリと奥歯を噛む淕に、俺はポンポンと背中を軽く叩いた。


「ちゃんと救えたんだ。今はそれで良しにしよう。巽、栞は?」

「大丈夫です。気を失っているだけかと。」


 良かった。

 俺が汐を失いたくなかったように、柊士もきっと、栞を失う事に耐えられなかっただろうから。


 俺は、綻びの上にぽっかり浮かぶ黒い渦に目を向ける。


「ひとまず、この綻びを塞いじゃおう。淕、柊ちゃんを。亘、柾、椿、周囲を頼むよ。」


 俺からゆっくり柊士を受け取ると、淕は大事にその体を抱え込み、心配そうに顔を覗き込んだ。

 もう危険に晒すまいと、傷ついた二人の武官も柊士の周囲の護りにつく。


 それを確認すると、俺は柊士がそうしていたように、壊れかけた祠の前に立った。


 柊士が途中まで塞いでいたためか、黒い渦は幻で見たものよりも随分小さくなっている。

 これならそれ程力を使わずとも塞いでしまえる。

 俺は背後を自分の護衛役達に守られながら、黒い渦に向かってパンと手を合わせた。

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