第112話 幻の虚実①

 柊士の無事を確かめた後、気遣わしげな椿に促されつつ、俺は再び湖の中に入っていく。

 しかし、先程のように砂に足をとられることも、霧が突然湧いてくることもない。


 黒い渦の真正面まで近づくと、黒い巨犬がピタリと俺の背後に寄り添うのを感じながら、俺はパンと手を打ち鳴らした。



 帰り道、椿に乗りながら普通サイズまで縮んだ黒犬を撫でる。なんだか凄く疲れた。癒やしがほしい。例え目の前にいるのが亘と並ぶ問題児だったとしても、もふもふの毛並みに罪はない。


「ところで、結局さっきの幻はなんだったの?」


 あの時椿が何か言っていたが、正直それどころではなくて咀嚼しきれないままになっていたのだ。


 俺の問に、トンボ姿の巽から疲れたような声が返ってくる。


「恐らく、しんという、口から吐く霧で幻を見せる貝のような妖の仕業です。周囲が霧に包まれて奏太様のお側に向おうとしたのですが、僕も幻に捕われてしまい……椿が霧を吹き飛ばしてくれなかったらどうなっていたか。」


 どうやら、あの時に吹いた突風は、椿が起こしたものだったらしい。


「助かったよ、椿。ホントに。」


 俺がそう言うと、椿は小さく首を横に振る。


「いえ。もっと早く霧を吹き飛ばせれば良かったのですが、思いの外時間がかかってしまいました。」

「それでもだよ。ありがとう。」


 あのまま、柊士の体がズタズタになるのを見せつけられるなんて、多分耐えていられなかった。それだけ、俺にとって衝撃的なものだったのだ。


「それにしても、酷い幻でした。里が鬼に襲われるだなんて……あの様な幻を見せる妖ではないと思っていたのに……」


 巽がポツリとそう零す。


「里? 俺が見たのは、柊ちゃんが山の中で鬼に襲われるところだったけど。」

「では、別々の幻を見せられていたのかもしれませんね。柾さんも幻を見たんですか?」


 巽が尋ねると、柾はコクリと首を縦に振った。


「見たぞ。俺が見たのは、拓眞様の連れた鬼が、晦と朔を襲うところだった。奴らを鍛えてやらねばと再認識したよ。ああ、ついでに奏太様も戦う術を身につけませんか。御一緒に稽古でも。」


 柾は良いことを思いついたとでも言うように、尻尾を振りながら、黒いつぶらな瞳でじっと俺の目を見る。

 それに、巽が躊躇いがちな声を出した。


「……あの、まさかとは思いますが、柾さん、陽の気とも戦おうとされてません?」


 すると、柾は大きく頷く。


「一度、どの程度耐え得るのか試してみたいと思っていたのだ。」


 ……どのくらい陽の気に耐えられるのか試しみたかった……?


 一体何を言っているのか理解できず、俺は唖然として柾を見る。好き好んで陽の気を浴びようとするなんて、戦いが好きなのではなく、まさか自傷癖でもあるのではなかろうか。


「で、いかがです、奏太様?」


 柾は期待に満ちた目で小首を傾げる。


「あ、ああ、うん、そうだね。稽古する時は亘に……いや、椿につけてもらうことにするよ。」


 俺は、相変わらずパタパタ尻尾を振る柾に、何とかそれだけを返した。


 今までのいろいろを考えると、陽の気以外に戦う術を身に着けた方が良いのだろうとは思う。

 でも、陽の気を浴びたいとか言い出す柾に稽古をつけてもらうのはなんだか嫌な予感がするし、亘は亘で喜々としながらしごいてくる様子が容易に想像できてしまう。


 ……誰に教えてもらうか、結構重大な選択だ。

 というか、なんで問題児ばかりが俺の護衛役に……


 そんな思いが湧き上がり、俺は遠くの空に目を向けた。



 本家に到着したのはそれからしばらく経った頃だった。

 柾達を庭で待たせ、本家に入って役目完了の報告の為に柊士の姿を探す。

 村田に伝えるでも良いのだが、念のため、柊士の姿をしっかり確認しておきたかったのだ。


「村田さん、柊ちゃん、今、何処にいますか?」

「ああ、柊士さんなら先程、他で綻びが見つかったからと御役目に。」


 村田の言葉に首筋がザワリとする。


 ……いや、あれは幻だったはずだ。柊士の声はちゃんと確認したし、何も問題なんてないはずだ。

 でも、そのはずなのに何故か凄く嫌な予感がする。


「……何処に? 何処に行ったんですか?」

「ここから一時間程先にある、山中の古い祠だと伺いました。それが何か?」


 鼓動が大きくドクンと打ち付ける。


「……まさか……淕と栞の他に、武官二人とじゃないですよね? ミミズクと尻尾が三本ある黒猫が……」

「おや、よくご存知ですね。柾達から聞いたのですか?」


 いつの間にか握りしめていた手にジワと汗が滲む。


 ……幻? 本当に?


 こんな風に偶然が重なる事などあるだろうか。

 まさか、これから現実に起こることを見せられていたということは無いだろうか。


 あれが単なる幻ではなく、万が一、未来だったとしたら……?


 そんなわけ無いと笑い飛ばすことだってできる。でも、心の中のざわつきが治まらない。うるさいくらいに警鐘が鳴る。


「村田さん、詳しい場所を教えてください。」

「はい? 奏太さんもいらっしゃるんですか?」

「もしかしたら、柊ちゃんが危ないかもしれないんです。」

「いや、しかし……」

「いいから早く!!」


 俺は思わず怒声を上げた。村田は目を丸くして俺を見ている。

 でも、説明している時間が惜しい。もしあれが現実に起こることだとしたら、すぐに追いかけないと、間に合わないかもしれない。


 そう思っていると、不意に、


「奏太様、凄い声が聞こえましたが。」


という亘の声が廊下の向こうから響いた。


「ねえ、亘は柊ちゃんの居場所、知ってる? 柊ちゃんが危ないかもしれないんだ。」

「御役目の話を近くで聞いていましたから存じていますが、危ないとは?」

「事情は後。万が一ってことがある。柊ちゃんを死なせたくないんだ。場所を教えて。」


 俺がそう言うと、亘はじっと俺を見つめる。


「しかし、柊士様には先程盛大に怒鳴られたばかりなのですが……」

「そんな冗談言ってる場合じゃないんだよ。」


 イライラしながらそう答えると、亘はハアと息を吐き出した。


「ならば、事情は良くわかりませんが、私が共に参りましょう。」

「……いいの?」


 何の説明もしてないし御役目でもないのに一緒に来てくれると思わずまじまじ見ると、亘は小さく肩を竦めた。


「解任はまだされていませんし、その御様子では柊士様の為に何か無茶をなさろうとする未来しか見えません。前にも申し上げましたが、私にとっては貴方の御命の方が大事ですからね。」

「でも、俺の杞憂きゆうってこともある。」

「なら尚の事、いとま中の私のほうが宜しいでしょう。無駄足になったら、何らかの形で奏太様に埋め合わせしていただきますよ。」


 仕方のなさそうな顔をする亘に、俺はコクリと頷く。

 万が一の事があって柊士を失うくらいなら、亘の埋め合わせに付き合った方が何千倍もマシだ。


「なら行こう。時間が惜しい。」

「御意に。」


 亘が首肯するのを確認すると、後ろから村田が呼び止めるのも無視して、俺は本家を飛び出した。



 亘に乗って夜空に飛び立つと、不意にすぐ背後から


「奏太様、どちらへ?」


という声が聞こえてきて、俺は驚いて振り返る。そこには何故か、椿が柾を乗せて亘の後方を飛んでいた。


「椿、柾!? なんで……」

「何故って、まだ、帰宅許可をいただいていませんよ。」


 椿がいたずらっぽく言う。柾もまた、当然のような顔で俺を見た。


「いくら代理であろうと、私は奏太様の護衛役ですからね。それに、どちらへ行かれるおつもりか存じませんが、面白そうなことを逃すつもりはありません。」


 唖然と二人を見ていると、巽もまた、柾の後ろから、ひょっこり顔を覗かせた。


「あの、僕も居ますからね! 置いてかないでくださいよ!」

「巽まで……」

「なんとまあ、随分と賑やかになりましたね。」


 亘はそう言いつつ苦笑する。


「杞憂だった場合の埋め合わせ先が増えましたが?」


 面白がるような亘に、俺は真っ直ぐに前を向く。


「埋め合わせくらい、いくらでもするよ。」

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