第111話 汽水湖の怪

 着いた先は、海にほど近い大きな湖だった。

 黒い渦が浮かんでいるのは、砂に覆われた岸に程近いものの湖の上だ。しかも、絶妙に陽の気を注いでも届くかどうかという距離感。


「……湖に入らないとダメってことだよね。船とかないし。」


 そう言いつつ仲間たちを見回すと、椿と巽は気まずそうに視線を逸らす。しかし、柾だけは満足そうにニコリと笑った。


「暑い時期ですし、丁度良い水浴びになりそうですね。」


 ……うん、まあ、ポジティブなことは良いことだけど、さっきから何だかズレてるんだよな……感覚が……


 それに暑い時期というが、この場所は涼しいというか、夏場なのに薄ら寒いというか、何だか妙な気配だ。ジメッとしていて、気味が悪い。


 そんな中で暗い湖に入っていかなくてはならないのは、それなりに勇気がいる。


 俺はスウと息を吸い込んで吐き出した。

 嫌だと言ったところで、あの黒い渦を消滅させられるのはこの場で俺しかいない。


 本家にはあんまり帰りたくないが、さっさと用を済ませてさっさと自宅に帰りたい。


 俺は覚悟を決めて、荷物を地面に起き、履いてたズボンの裾をめくりあげて湖に入った。


 着替を持ってくればよかった。

 そんなことを思いながら靴を脱いで水に入ると、冷やとした感覚が肌に触れる。

 下は砂利や岩ではなく砂なので、痛みがないのが救いだ。


 そのまま思い切って先に進むと、後ろから柾が犬の姿のまま追ってきた。更にその上を、巽がスウと飛んでくる。

 椿は、と姿を探すと、遥か上空で周囲の警戒に当たっていた。


 俺はジャバジャバと小さく水しぶきを上げながら歩いていく。湖は遠浅のようで膝下くらいの深さで進んでいける。

 しかし、ある程度進むと周囲にだんだん霧がたちはじめた。視界が悪くなり、そのせいか、頭にまで靄がかかったような感覚に陥る。


 注意散漫になっていたせいもあるのだろう。突然、足がズボッと砂に取られた。


「う、うわっ!」


 思わず声を上げる。片足だけ嵌まった状態だったが、それを引き抜こうとしてもう片方を踏み出すと、もう一方もズボッと嵌る。


「何なんだよ、もう。」


 俺は悪態を付きながら、脚を引き抜こうと力を込めた。しかし、どういうわけか、足が抜けない。

 というか、嵌まった足首に何かが絡みつき、足を抜こうともがけばもがくほど、ズズズと沈み込んでいく。


 足首が、スネが、膝下が……まるで底なしのようにどんどん砂に埋まっていく。


「え、ちょっと、これ、ヤバ……!」


 そう声を上げて周囲を見回す。

 が、気づけば周囲は真っ白な霧に包まれてしまっていて、自分以外の誰の姿も見えなくなっていた。


 サアと血の気が引いていく。


 既視感というやつだ。この状況はよろしくない。以前、鬼界の綻びを塞ごうとして霧に包まれたことがあったが、あのときも汐と亘の姿を見失い、鬼の幻覚に惑わされて捕われた。


「柾! 椿! 巽!」


 そう叫んでみるが、まるで霧に吸収されるように声が広がらないし、誰からの返答もない。

 せめて動ければ良いのだが、足はズブズブと砂の中に沈んでいくばかりだ。

 既に膝上まで沈んだ。このまま沈んでいったら……そう考えて、ゾッとした。


 どうにかここから抜け出す術を……そう思考を巡らせている時だった。


 ズキッと急に胸が痛みだし、あまりの痛さに手で押さえ込む。


 以前も似たような痛みがあった。今回は、それよりも更に酷い。

 それに、霧が濃くなるにつれて、なんだか妙に頭がぼうっとしてくる。熱に浮かされたときのような、正常に物事を考えることを手放したくなるような、そんな感覚だ。

 目の前がチラチラする。

 正常な状態を取り戻したくて、目元を抑え、目を瞬く。

 すると、薄っすら霧の向こうに何かが見えた。


 古びた石造りの鳥居、鬱蒼とした木々、崩れた祠。


 今いるのは広い泉のはずだ。目の前にそんなものがあるわけがない。

 それなのに――自分の体は半分以上水に浸かっているのに、まるで森の中に入り込んだような錯覚すらする。


 胸が、まるでしっかりしろとでもいうように、ズキズキと痛む。でも、ぼうっとする頭は、それすらも忘れて森の中に意識を引きずり込んでいく。


 そこへ、見覚えのある人物が姿を現した。


「……柊ちゃん……? それに、淕と栞も……」


 翼を広げた淕に乗って、柊士と蝶の姿の栞が地面に降り立つ。その後ろから、大きなミミズクと、それに乗った三尾の黒猫が追ってきた。

 淕とミミズクと猫は、地面に降りると直ぐに人の姿に変わって周囲を警戒し始め、栞がキラキラとはねを月明かりに輝かせながら柊士の周りを舞う。


「柊ちゃん!」


 俺は声を張り上げる。

 しかし柊士からの反応はなく、こちらを振り返ることもなく鳥居を潜っていく。それどころか、その場にいる誰も、こちらに気づいている様子はない。それに向こうの音もこちらには聞こえない。手を伸ばしても、木々も鳥居も俺の手をすり抜けていく。まるで、VRなどの360度の映像を無音で見せられているようだ。更に、足は動かないのに視点だけが柊士達を追っていく。


 幻だろうか、現実だろうか。境が曖昧でだんだんとわけが分からなくなってくる。

 時折感じる胸の痛みが、これは幻だ目を覚ませと疼く。

 ただ、俺は吸い込まれるように、目の前で繰り広げられる柊士達の様子に惹き付けられていった。


 柊士の向かう先にある祠の上には、大きめの黒い渦が浮いている。綻びの前に立ち手を打ち付けると、キラキラした光の粒が柊士の掌から溢れ出す。


 何の変哲もない、光景。

 しかし、事態は急変する。


 木の上に潜んでいたのだろうか。人間の大人と同じ体格の鬼が複数、陽の気で綻びを塞ぐ柊士目掛けて落ちてきたのだ。


 柊士を守る三人が鬼の相手をしようと立ち向かう。でも、誰も相手のできていない鬼が二体いた。


 淕が別の鬼二体を相手にしながら、何事か柊士に叫ぶ。柊士を守る者はいない。

 柊士は自分に向かってくる鬼に陽の気を向けた。しかし、対応できたのは一体だけ。


 もう一体が陽の気を逃れて脇にまわりこむ。同時に、月明かりを浴びて振り上げられた鬼の鋭い爪がきらりと光った。


「柊ちゃん!!」

 ―――柊士様!


 聞こえないはずの淕の声と、思わず叫んだ俺の声が重なる。


 刹那、金色の蝶の姿だった栞が、人の形をとって両手を広げ、柊士の前に立ちはだかった。


 振り下ろされる鬼の爪は、栞の体を無惨に切り裂く。栞がその場に崩折れると、柊士は陽の気を発しながら大きく目を見開いた。


 ―――栞!!


 柊士が叫ぶ。

 恐らく動揺したのだろう。鬼へ向けていた陽の気がブレる。その隙をついて、皮膚を焼かれた鬼が、しぶとく柊士に飛びかかろうと構える。

 栞を切り裂いた鬼もまた、ニヤと笑って蝶に戻った栞を見下ろしたあと、柊士に狙いを定めた。


 俺は慌ててパンと手を打ち付け、柊士に駆け寄ろうと足を動かす。しかし、そこで自分の足が砂に取られたままであることを思い出した。動かない。足が、体が。こんな時なのに、動けない。


「なんで動けないんだよ!! 柊ちゃん!!」


 声を張り上げる。でも、届かない。


 周囲を見回すが、淕も他の二人も目の前の鬼の相手で動けないままだ。柊士は悔しそうな表情を浮かべ、栞を守るようにしながら再び陽の気を発した。

 ただ、片手ずつ二体の鬼に陽の気を向けたところで、一人では限界がある。

 抵抗も虚しく、一体の鬼の手が柊士に届く。

 陽の気の届かぬ場所に回り込まれ、ぐいと腕を引かれて引き倒され、うつ伏せに地面に押し付けられる。


 陽の気が止まり、もう一体もまた、柊士に覆いかぶさる。鋭い牙を口から覗かせ、もがく柊士を抑え込んだまま、ニタリと気味の悪い笑みを浮かべ、首元に顔を寄せていく


「やめろ!!」


 そう叫んだところで、鬼の動きは止まらない。

 牙が首筋に突き刺さり、じわじわと血が滲み出る。地面に頬を擦り付けたまま、柊士の表情が苦痛に歪む。

 地面の砂を掴み何とか逃れようとしているが、更にもう一体が背に向けて長い爪を思い切り振り下ろした。

 鮮血が周囲に飛び散る。


「柊ちゃん!!」


 柊士の瞳が、一度大きく見開かれた。もがき続けていた体から力が抜け、地面を掴んでいた拳が解かれる。

 そして、まるで最後の力を振り絞るように、震える手を地面に落ちた栞の方に伸ばし、そっと触れた。


 ―――ごめんな……


 柊士の唇が、そう小さく動いた。


 心臓がドクンと大きく鳴る。

 知ってる。あの感覚を経験したことがある。神社の地下、悪鬼の封印の前で、意識を手放そうとしたときと同じだ。


「ダメだ! 柊ちゃん! 諦めるなよ!」


 俺は柊士に向かって必死に手を伸ばす。


 逝かせてはダメだ。殺させてはダメだ。居ないと困るんだ。

 教えてもらいたいことも、頼りたかったことも、いっぱいある。今までだって、これからだって、柊士が居ないと困るんだ。


「勝手に諦めて、居なくなるなよ! 頼むから!!」


 でも、どんなに叫んでも、喚いても、体が動かない。足が一歩も前に進まない。この手に何も届かない。


 鬼は容赦なく柊士の体を切り裂き、喰らいつく。


「……なんだよ、これ! 何なんだよ! 柊ちゃん!!!」


 栞に手を添えたまま、柊士はもうピクリとも動かない。その瞳には、恐らく何も映っていない。まるで人形のように、蒼白の顔色のままだ。


 俺はただただ、鬼に背を切り裂かれ血が飛び散り血を啜られ肉を食いちぎられる柊士の姿を見せつけられる。


「やめろ! やめてくれ!」


 頭痛がする。胸が重くて痛い。助けられないのに、駆けつけることも出来ないのに、見ていられなくて目を覆っても、それが脳裏に繰り返される。俺には何も出来ない。ただ、己の無力さに絶望する。


「……もう……やめてくれよ……頼むから……!」


 誰にとも無く懇願するように、そう声に出した時だった。


 突然、ブワっと周囲に突風が吹き付けた。

 それとともに、バシャッという大きな水音が聞こえ、周囲の霧がサアっと晴れていく。


 森も、祠も、柊士も、鳥居も、淕達も……霧とともに薄くなり、その姿が掻き消されていく。


 そうして目の前に広がった光景は、先程まで俺達がいた湖だった。

 柊士達の姿はどこにもない。もちろん、古びた石造りの鳥居も壊れかけた祠もない。


 状況をつかめず呆然と周囲を見回していると、


「柾さん! 奏太様のすぐ側、たぶんしんです!」


という巽の叫び声が背後から響いた。


 それと同時に、俺の身長を越すほどの巨大な黒い何かが、バシャッっと派手に水飛沫を上げて俺の横を物凄いスピードですり抜ける。

 瞬く間に俺の目の前に黒い巨獣が躍り出たかと思うと、鋭い牙をのぞかせて無造作に水の中に顔を突っ込んだ。


 ギャアァァァ!!


という耳をつんざくような甲高い悲鳴が周囲に響き渡る。


 思わず耳を塞ぐと、すぐ頭上から、


「大丈夫ですか、奏太様!?」


と、俺を心配するような椿の声が降ってきた。


「……椿……一体何が……」


 頭の中は未だに靄がかかったようにハッキリしない。胸の痛みはもう無いし、目の前で繰り広げられていた地獄のような光景ももうない。でも、柊士を目の前で失った締め付けられるような苦しさは抜けていかない。


「恐らく、蜃という妖の仕業です。幻を見せ、周囲を惑わすのです。」

「……幻……? じゃあ、柊ちゃんは……」


 もしあれが幻ならば、柊士は無事だという事だろうか。何もかも、今までどおりに会えるという事だろうか。


「ごめん、椿。柊ちゃんの無事を確認したい。ここから動けないんだ。引っ張り上げてくれないかな。」


 もう、砂に体が沈んでいく感じも、足元が捕らわれている感じもしない。


 俺の言葉に、椿は後ろからふわりと俺の胴に腕を回す。それからグイっと体が持ち上げられると、先程まで動けなかったのが嘘のように、ズズズッと砂から体が抜けていった。


 湖の少し先では、柾と思われる巨大な黒犬が、自分の顔より一回り小さい二枚貝をザバっと水面から咥え上げてバキバキと噛み砕くのが目に入る。


「蜃の始末も済んだようですね。」


 いつの間にか近くに来ていた巽が、ほっとしたようにそう言った。



 椿に陸地に降ろしてもらうと、荷物を置いてあったところまで駆け寄り、乱暴にバックの中を探ってスマホを取り出す。


 焦る気持ちを抑えながら、柊士の連絡先を見つけ出してコールする。


 お願いだから、出てくれよ。

 そう願いつつ、汗がジワと滲む手でスマホを握りしめる。


「……もしもし、どうした?」


 スマホの向こう側から、いつもの調子の柊士の声が聞こえてくると、痛いくらいに打ちつけていた鼓動がようやく小さくおさまった。


「……柊ちゃん……良かった……」


 息を吐き出しながらそう声に出すと、思わず涙が溢れそうになった。


「は? どうしたんだよ、一体。」


 戸惑うような柊士の声に、俺は一度鼻をすすり、短い袖で目元をぐいと拭う。


「何でもない。柊ちゃんが無事ならそれでいい。」

「無事って……? お前こそ、大丈夫か?」


 たぶん、声が掠れて鼻声になったからだろう。柊士の声が心配そうな音を帯びている。


「うん、大丈夫。ごめん。結界塞いだら、直ぐに戻るよ。」

「それならいいけど……それよりお前、亘と柾が仕出かしたこと、あとできっちり説明してもらうからな。」

「…………は? いや、あれは、俺の知らないところであいつらが勝手に……」

「あいつらの主人はお前だろうが。奴らにでも修理させて、お前がみとどけろよ。じゃあ後でな。」


 柊士はそこまで言うと、プッと一方的に電話を切った。


 通話が終了し、元の画面に戻ったスマホを見て、俺は思わず苦笑する。


 柊士が元気ならそれでいい。相変わらずの態度も、説教も、いつも通りにそこに居てくれるなら。

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