第104話 疫病神の再来③

 姿を顕した鬼に、恐怖で体が凍りつく。両手は掴まれたままだ。


 ―――いや、落ち着け。


 俺はゴクリとつばを飲み込む。


 この鬼は多分知らないのだ。触れずとも陽の気を出せることを。今、俺の手は掴まれていても鬼の方を向いたまま。この距離なら確実に届く。逃げ出す希望が潰えたわけじゃない。


 既に手は打ち付けた。あとは頭に浮かんでくる祝詞を声に出すだけだ。

 頭の中の言葉と自分の声、湧き上がる陽の気にだけ集中する。

 すると、目の前の鬼が、ギャアと声を上げて俺から手を離したのがわかった。


 俺は奥の部屋を覗き込む。猫の瞳はもうなんの光も宿していない。ただ、うわ言のように


「……お……にげ……」


と言うだけだ。

 俺は奥歯をぐっと噛みしめた。再び体を掴まれそうになり何とか避けると、もう一度鬼に向けて陽の気を放つ。

 怯んだ隙に、そのまま踵を返して部屋を出口に向かって走り抜けた。


 部屋を出ると玄関に向かって兎に角走る。背後から怒声が聞こえる。ドタドタと追ってくる足音も。鬼は老人だったとは思えないくらいのスピードでぐんぐん迫ってくる。俺はそれを振り返ることなく無我夢中で窓のない寺の廊下を必死で逃げた。



 角を曲がると長い廊下の向こう側に玄関から差し込む光が見えた。あと少しだ。


 しかし、希望が見えた途端、うなじにガリっとえぐられる様な痛みが走った。服の襟首をグイと掴まれて足が滑り体が背中側に傾く。そのまま、ダーンッ! と音を立てて背中と後頭部を思い切り床にぶつけた。


 痛みと衝撃に呻き声を上げ床の上でのたうつ。涙に滲む目を開くと俺の上に影が一つ落ちた。

 グイと乱暴に真上から両手首を押さえつけられ馬乗りにされ、鬼の顔が真上から覗く。


「手こずらせるなよ、小僧が。」


 ―――殺される。


 瞬時にそう理解した。この状態では助けも呼べない。陽の気を出そうにも手を打ち付けることもできない。先程見た猫の姿が思い浮かぶ。俺はギュッと目を瞑り、それを何とかして頭の中から追い払いながら、次にやってくる衝撃を覚悟した。


 その時だった。


「すみませーん。さっき来た☓☓大学の者ですが、友人が来ませんでしたか? 戻ってこないので気になって……」


 まさか、遥斗が来てくれるとは思わなかった。


「はるっ……!」


 思わず、遥斗! と声を上げかける。

 しかしすぐに、鬼に思い切り首を締められて声を失った。喉仏を力の限りで押さえつけられ、ギリと痛いくらいに締め付けられる。


 でもそのお陰で片手があいた。


 俺は遠退きそうになる意識を必死に奮い立たせてもう一度手を打ち付ける。声にならない声を出し、自由になった方の手で鬼の顔めがけて思い切り陽の気を注いだ。


 グァっと声を上げ怯んだところでもう片方の手を振り払って陽の気を放ったまま鬼の下で身を捩り、何とか這って抜け出す。

 顔面を焼かれて目を押さえている隙に、咳き込み涙が出て目が霞むのも無視して俺は脱兎の如く玄関に走った。


 ガララっと勢いよく玄関を開けると、遥斗が驚いた様に目を見開く。


「そんなに慌ててどうしたんだよ。」


 しかし、答えている余裕はない。俺は飛び出した勢いのままグイと遥斗の腕を掴んで、燦々と日が差し込むところまで走り出た。


 開け放たれた玄関の向こうは降り注ぐ太陽の光も手伝って暗がりの中でよく見えない。ただ、確かにそこに、こちらに殺気を向ける鬼の気配を感じた。


「早く戻ろう。」


 日が暮れたら、きっとあいつはやってくる。

 安全なところに移動して、すぐにでも助けを呼ばなければ。


 言葉少なに歩き出した俺の後を、遥斗は小走りに追ってくる。


「ちょっと待ってよ奏太! その首! 後ろ、すごい血が出てる! 腕もだ! しかも……」


 そう言いながら俺の正面に周り込み、青い顔でこちらを見る。


「その痣、どうしたんだよ!」

「……猫が……」

「は?」


 喉が詰まりそうになる。頭がクラクラして重い。


「……気づかなかったけど、あの寺、すごくデカい猫がいたんだ。ちょっかいだしたら思いっきりひっかかれてさ。」


 あの猫を思い出す。こんな言い訳に使うつもりは無かったのに、そんな言葉しか出てこなかった。

 自分への嫌悪感で吐きそうだ。


 それでも、訝しげな表情をする遥斗の注意を反らしたくて、まるで何でもないことのようにニコリと笑ってみせる。でも、引き攣った笑みしか出ていないことは自分でもわかった。


 遥斗は眉を顰める。


「そんなことで、傷口がそんな紫色に腫れるわけないだろ! それに、その痣は何なんだよ!」

「猫だよ。ホント。じゃれてたらこうなった。それだけだ。大して痛くないし、後で自分でどうにかするよ。それより、さっさと戻ろう。」


 俺はまだ何か言いたそうな遥斗を無視して歩みを進める。すぐそこに人を喰う鬼がいるだなんて言えるわけがない。これ以上ここにいたくない。遥斗を巻き込むのもゴメンだ。


 俺はバッグからスポーツタオルを一枚取り出し、首に巻き付けた。



「あの……もしもし……柊ちゃん?」


 宿舎に戻ると、理由をつけて遥斗から離れ、真っ先に柊士に電話をした。柊士からは、呆れたような、疲れたような声音が返ってくる。


「……連絡来ると思ってたよ。事前に先回りして様子を見に行かせてたのに、意味なかったな。」


 それに、心臓がドクンと鳴った。


「……それって猫の妖?」

「ああ。あと飛べる者を一人。」


 柊士の言葉に、俺は目元に手を当てた。


 ここまで、できるだけ考えないようにしていた。逃げるしかなくて、自分が助かることに必死で、置き去りにした。


「……ゴメン……鬼に殺られた……俺のせいだ……」


 あれ程出掛けるのを避けろと言われていたのに。そんな俺を守るために様子を見に来た者達だったのに。

 最後まで俺の身を案じていたのに……


 胸が痛くて壁を背にズルズルとしゃがみ込む。


「……ゴメン……」


 その後、柊士に状況を尋ねられ何とか説明し終えると、柊士は鬼退治の為に早々に複数の兵を派遣すると約束してくれた。


「分かっていると思うが、亘は向かわせられない。代わりに今日だけは淕と汐を行かせる。あまり気に病むなよ。あいつらは、お前を護るのが本分だ。それを全うしようとしたんだ。感謝してやれ。その方が喜ぶ。」


 電話口の向こうの柊士の声はいつもと違って殊更に優しく、俺を宥めるように響いた。



 首の後ろと腕の怪我は、ペットボトルに入れて持ってきていた妖界の温泉水をかけた。基本的に持ち歩かされている常備品だ。

 誰もいない洗面台で躊躇うことなくダバダバと傷口にかけた。

 ついでに目元も一緒に洗うと、赤くなった目もすぐに元通りになった。


 ただ、浅い傷ならすぐに治るが、内出血にはかけただけでは効かないらしく、痣は残ったままだ。仕方がないので、先程と同じ様に首にタオルを巻くことで誤魔化した。



 日暮れ。宿舎の広場でバーベキューの準備が進められていた。その後、キャンプファイヤーに花火、肝試しが用意されているとのことだったが、俺は体調不良を理由にバーベキューのみの参加にすると決めた。


 鬼の心配もあるし、皆と楽しむような気分にはどうしてもなれなかった。


 ほどほどに準備を手伝い、皆が楽しそうにバーベキューをしているのを少し離れたところから一人眺める。

 遥斗がこちらをちょこちょこ気にしていたが、ここぞとばかりに集まってきた女の子達に囲まれて動きにくそうにしていた。


 不意に、青い蝶が何処からか飛んできて、俺の肩にとまる。


「酷いお顔を為さっていますよ。」

「……顔は温泉水で洗ったよ。」

「それでも、です。お話は柊士様から伺いました。」

「そう。」


 素っ気なく返事をすると、汐は困ったような声を出す。


「奏太様がお気に病まれる事ではありません。」

「……柊ちゃんにも言われた。」

「それなら……」

「ただ、あの時少なくとも、あの猫はまだ生きてたんだ。俺はそれを見殺しにした……置き去りにして逃げたんだよ……」

「それは、正しい判断です。何よりも護るべきは貴方御自身。貴方が御無事だったのなら、その死を誇ってやるべきです。」

「……そんなもの……誇れるわけないだろ……」


 呻くように声に出し、両手に顔を埋める。

 すると不意に、足元にふわりとした感触がした。見ると、いつの間にか灰色の二匹の子犬がそこに居て、俺の足に擦り寄って来ていた。

 声は発しない。でも、じっと俺を見つめるその四つの瞳から、俺を心配していることがよくわかった。


 俺は二匹をそっと撫でる。


「……死なないでくれよ……誰も。」


 思わず、そんな言葉が漏れ出た。


「淕と柾が鬼の元へ向かいました。きっとあちらは大丈夫でしょう。今晩は、我らが周囲を御守りします。」


 知っている者が側にいてくれる安心感はある。

 それでも、何も知らずに楽しそうなあちら側と血に濡れたこちら側での世界の違いに言いようのない孤独感が湧き上がる。複雑な気持ちのまま、俺はただただ小さく頷いた。

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