第103話 疫病神の再来②
「あとは、明日の午前の時間を使って、鬼が住んでた峠を見に行くってとこかな。バスで行けるらしいし。石碑があるんだって。」
遥斗は歩きながらメモをペラペラめくる。
鬼が住んでた峠だなんて、気が重くなるような話だ。
そう思いつつ、時間を確認しようとスマホを入れていたポケットに手を突っ込んで、ハッと思い出した。
俺は慌てて遥斗を呼び止める。
「ごめん遥斗、これ預けてくるの忘れてた。集合時間もあるし、先に行ってて。すぐに後を追う。」
そう言いつつ掌に載せたキーホルダーと御守りを見せる。
「え? じゃあ俺も行くよ。」
「いや、返してくるだけだから一人で走って行ってくるよ。」
大した用でもないのに遥斗を付き合わせるのは申し訳ない。そう思って言ったのだが、遥斗は小さく首を横に振った。
「それならここで待ってる。大して時間かからないだろ?」
「わかった。じゃあ、行ってくるよ。」
俺は遥斗に頷いて見せると、踵を返して先程のお寺に引かえした。
「すみませーん! さっきの者ですが!」
ピンポーンと何度か押してみても反応がなく、玄関口からそう呼びかける。ただ、中から反応はない。
本堂の方も覗いてみたが人影はない。もう一度だけ呼びかけてみて出なかったら、メモと一緒にポストの上にでも置いておこうかな、と思ったその時だった。
ギャアァァー
という、けたたましい悲鳴が響く。声の元はこの寺院の奥からのように聞こえた。
俺は慌てて玄関の戸をガラリと開ける。
「すみません! 大丈夫ですか!?」
中はもう、先程までと同様にシンと静まり返っている。ただ、耳を澄ますと、くぐもったような小さな呻き声が聞こえたような気がした。
通常で考えればただの不法侵入だが、緊急事態だったら困る。俺は声の聞こえた方に向かって駆け込んだ。
何度か角を曲がりながら廊下を進んでいく。窓がないせいもあるかもしれないが、どこも似たような造りで迷いそうだ。
もう、何処から声が響いてきたのかもわからない。そう思った時、先にある一部屋から小さく声が聞こえた。
ドアの向こうを覗くが誰もいない。ただ、部屋の奥にはもう一つ小さな引き戸が見え、開け放たれていた。恐らく、声は更にその先から聞こえてきているのだろう。
「……まだ息があるとは。でも、もう抵抗できないでしょう?」
その猫撫で声に、ゾワッと全身が粟立った。
先程の叫び声を聞いて、住職に何かがあったのかと思っていた。
でも、今響いてきたその声は、先程の住職の声と同じもの。そして、それとは別の、ウウゥという別の呻き声が漏れてくる。
住職に何かがあったわけではない。住職が誰かに何かをしたのだ。しかも―――
「そんなに心配せずとも、あの方とやらも喰ってあげます。まずは、貴方からですよ。」
そんな声が耳に届いて、俺は後先考えず慌てて部屋の中に飛び込んだ。
考え過ぎだろうか。妖や鬼の世界に毒されすぎだろうか。でも、俺の中で、煩いくらいに警鐘が鳴り響く。
俺が部屋に入ると、物音に気づいたのか、訝しげな表情の住職が奥の部屋から出てきて、パタンと戸を閉めた。
「おや、どうされました?」
住職は俺に視線を留めると何事もなかったかのような柔和な表情を浮かべてこちらを見る。
でも、その作務衣の袖口には不自然な赤黒い染みがある。
「あの……向こうに、何が……?」
ドクンドクンと打ち付ける鼓動が煩い。
「奥ですか? 何もありませんが。」
「でも、叫び声が聞こえました……それに、呻き声も……。」
「ああ、間違えてテレビの音量を上げすぎてしまいまして。それに、猫がいるので、その声が聞こえたのかもしれませんね。」
ジワリと嫌な汗が出る。そんな言葉、鵜呑みになんてできない。
「じゃあ、その袖口についてる血は何ですか……?」
「ああ、これは困りましたね。趣味で絵を描くのですが、絵の具がついてしまったようで。」
いや、あれは多分本物の血の色だ。少量では済まないくらいの量を何度も何度も見ている。絵の具だとしたらそうと意図して作られた色だ。
「それよりも、いったいどうされたのです? 何かお忘れ物でも? それならば、先程のお部屋に戻って一緒に探しましょうか。」
住職は何食わぬ顔でこちらに歩み寄る。俺は思わず、ジリと後退りした。
「忘れ物じゃありません。さっき、外で拾い物をしたんです。それを預けに。」
人かそうで無いかを確かめる方法はある。俺の勘違いならそれでいい。本当に住職が言うとおりなら、笑い飛ばして終わりだ。
俺は住職に気づかれないように小さく手を打ち付けてから、キーホルダーを住職に差し出した。
「おや、これはこれは。ありがとうございます。」
住職が掌を広げてこちらに差し出す。
俺は小さく、聞こえるか聞こえないかというくらいの声で祝詞を唱えつつ、わざと触れるようにキーホルダーを渡した。
瞬間、ジュっという音と焼けるような臭いがその場にのぼる。
住職は目を見開き慌てたようにバッと手を引いた。その拍子にキーホルダーがポトリと床に落ちる。
住職はそれを、おやおやと言いながらかがんで拾い上げると、ニタリと笑みを浮かべてこちらを見上げた。
「いったい何をされたんです?」
「……いえ、俺は何も……静電気じゃないですか?」
違う。静電気なんかじゃない。陽の気に焼かれたのだ。少なくとも、こいつは人間じゃない。
「こんな湿気の強い時期に?」
「ええ、俺、たまにあるんです。」
「不思議なこともあるものですね。」
住職の声は未だ、妙に落ち着き払っていて、それが恐怖を掻き立てる。
たぶんもう、穏便に部屋の向こうを見るのは難しい。ただ、絶対に何かいる。目の前の老人の餌食になりかけている何かが。
「あの、部屋の向こうを少し見せて頂けませんか?」
「酷く汚れているのです。とても他所様にお見せできるような状態ではありません。さあ、玄関までお送りしましょう。」
住職は、不気味に笑いながら俺の方に手を伸ばし、肩を掴もうとする。
俺はそれを思い切り振り払い、部屋の隅にある戸に飛びついた。そして、引き戸を勢いのまま開ける。
目に飛び込んできた光景に、俺はウッと息を呑む。
そこにあったのは、血溜まりの中で無惨に腹を裂かれ腸を引きずり出されて倒れ伏す大きな猫の姿……
周囲には血が飛び散って付着し、クッションの中の羽毛をばらまいたように白い羽が散乱している。
吐き気のするような光景がそこに広がっていた。
「……なんだよ……これ……」
思わず声に出すと、音に反応したのか、殆ど光を失った双眸が俺を捉える。
「…………そ……た……さま…………お……にげ……」
振り絞るように発せられたその声に、ザワッとしたものが体の中を駆け抜けた。
俺にはその猫が誰かわからない。でも、確かに俺の名を口にしたのだ。
それは、普通の猫ではなく、里の者であることを意味する。
「……っ! 待ってろ、今助け……!」
そう言った時だった。パシッと腕を掴まれ、
「ほら、猫だと言ったでしょう。」
という穏やかな声が背後で響いた。
もう一度、ドクンと心臓が大きく脈打つ。
更に腕はギリリと強く握られ、何かが突き刺さるように強烈な痛みが走る。
グっと声を漏らして腕を見ると、先程までは普通だった住職の爪が鋭く長く生え、俺の腕に突き刺さっていた。
ポタリと床に血が滴り落ちると住職はニヤと笑い舌舐めずりをする。
「その猫は、“守り手様に手を出すな“ などと懐かしいことを言う妖でしてね。貴方が来た途端暴れ出したので、抑えるのに苦労しました。」
そして、もう片方の掌を広げてしげしげと赤く爛れた小さな火傷痕を見る。
「この火傷はまるで日に当たった後のようですね。陽の気を使う守り手様とやらは、いったいどの様な味がするのでしょうね。ああ、五百年も経ってこの様な機が巡ってこようとは。」
クククッと気味の悪い笑いを零す様にゾッとする。
俺は咄嗟に、住職に掴まれたままの手をもう一度パンと打ち付けた。しかしすぐにもう一方の手首をガッと掴まれる。
「ニ度も同じ手は食いませんよ。人の生き血を見るのは久々です。屍肉ばかり喰らってましたからね。」
そう言うと、住職の頭から黒い角が二本生え、口元から牙が付き出す。瞳もまた、赤く血塗られた様な色に変わった。
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