第86話 初夏の雪②

「……にえ……?」


 紗月が恐る恐る呟く。


「どこぞの阿呆が、悪鬼の封印を壊した。再び封印するには、陰と陽。二つの種族の贄がいる。陰の部分が少ないが、半妖とは丁度よい。」

「……半妖って……」


 俺が言うと、少女は首を僅かに傾げる。


うぬにはどちらの血も流れておるだろう。」


 半妖なんて呼ばれ方をしたのは初めてだ。でも、最初の大君の血を引いていると散々言われている事を考えれば、そういう事になるのかもしれない。


「……でも、なんで、それを……」

「纏うものが違う。匂いが違う。しかし、そのような問答、どうでも良い。人が二、妖が一。それでもまだ足りぬ。人などどうにでもなるが、妖が足りぬ。時が惜しい。共に来い。」


 少女はそう言うと、窓の向こうから、白く細い手をスッと車内に差し込んでくる。


 ヒヤッとした凍るように冷たい手が、俺の手首をギュッと掴む。思っていた以上に強い力だ。

 そして、そのままぐいっと窓の向こう側へ引き寄せられる。


「ま、待てよ! 贄って生贄のことか!?」


 潤也が叫ぶように言う。


「しかも、他にも捕まってる人がいるの?」


 絢香もまた、震える声を出した。

 それに、少女は感情のこもらぬ声音で淡々と言い放つ。


「そうだが? 悪鬼が暴れれば犠牲など贄どころの騒ぎではなくなる。数名の贄でどうにかなるなら、その方が良かろう。時が惜しいと言っておるのだ。早く出てこい。」


 少女はぐいと再び俺の腕を引く。

 しかし、逆側の腕を潤也にぐっと押さえられた。


「お前、絶対に行くなよ。」

「陽の気使え、奏太! 逃げて時間を稼ごう!」


 聡も後ろから俺の肩を掴む。


「陽の気? そのようなもの、妾に効くわけがなかろう。鬼や妖じゃあるまいし。」

「……鬼や妖じゃない……? じゃあ、一体……?」


 俺が問いかけると、少女は痺れを切らしたように、その眉間にくっきりとしわを作ってこちらを見た。


「そのようなこと、どうでも良い! うぬが来ぬなら、この箱を氷漬けにした上で、全員纏めて贄にするぞ!」


 手首は、少女のものとは思えないほどに強くギリギリと握られている。更に、少女に握られている場所から次第に白く薄い氷がパキパキと纏わりついていき、皮膚が刺すように痛む。


「選ばせてやる。汝が贄になるか、全員纏めて贄になるか、だ。」


 俺は車内の皆の顔を見まわす。絢香と紗月は青い顔でこちらを見ている。潤也は未だ俺の腕を握っているし、聡にも肩を掴まれたままだ。

 行かせまいとしていることが伝わってくる。


 でも、俺だけか、皆を巻き込むかと問われたら、選べる選択肢なんて決まっている。

 俺は潤也にドアをロックされる前に鍵を解除し、ガチャっと開いた。


「聡、潤也、もし亘と汐が来たら、ごめんって伝えておいて。」

「バカ! 奏太!」


 引き留めようとした二人の手を振り払うと、俺は上着を掴み、勢いのまま牡丹雪の降りしきる外に出る。そして、悲鳴のような声を上げる友人達を他所に、バンと車の扉を閉めた。


「さっさとそのようにすれば良いものを。」


 少女が吐き捨てるように言ったかと思うと、俺は背中から服をぐいっと掴まれ、上方向に引っ張られる。瞬間、俺の体は服に支えられた状態でグラリと揺れ、宙に持ち上がった。


「う……うわっ!」


 物凄く不安定な状態に、思わず叫び声が出る。

 バランスを間違えれば、直ぐに落下してしまいそうだ。


「暴れるな。贄になる前に死なれては敵わぬ。」


 少女は冷たく言うが、そんなの、俺だって願い下げだ。というか、生贄だって願い下げだ。

 皆からこいつを引き離せたんだ。あとは隙を見て逃げ出さなければ。


 そう思いながら俺は下を見る。視界はぐんぐん上にあがっていくし、俺達が乗っていた車もどんどん小さくなっていく。

 雪に遮られて視界が悪い中、皆が外に出て俺達の方を見上げ、何かを叫んでいたのが見えた。



 凍えるような寒さの中、体をガタガタ震わせて着いた先は、小さな鳥居と社の前だった。


 周囲は一面が真っ白。

 それなのに、奇妙なことにその鳥居の内側だけは雪が一切無く、真っ直ぐに社に続く石畳とその周囲の土、更には青々と生える雑草までが、ハッキリとその姿を見せていた。

 まるで、ここだけ季節が違うようだ。


「一体これは……」


 俺は驚きに目を見開き思わず呟く。すると、俺を掴んだままの少女は、


「悪鬼が目を覚ました証だ。急がねば。」


と、苦々しい声音でそう言った。



 朱色の鳥居も、木造りの社も、きちんと手入れをされているようで、寂れたような様子はない。


 少女はその境内をスイっと通り抜ける。

 社の前まで行くと、格子の引き戸がまるで自動ドアかのようにガタガタ音を鳴らしながら開いた。


 社の中には祭壇があり、よく磨かれた大きな鏡が中央に鎮座し、白の陶器の花瓶に入った榊がその両側に供えられている。

 そして、まるで暖房が効いているのではと思うくらいに暖かい。


 周囲を見回しても、エアコンやストーブなどの暖房器具は見当たらない。

 俺がキョロキョロしている間にも、少女は、その祭壇を避けて後ろ側に回り込んだ。


 そこで、俺は思わず息を呑む。

 そこには、吸い込まれそうな程の暗闇を湛えた地下へ続く階段が、ぱっくりとその口を開けて待っていて、全身を蝕むような、妖界の陰の気を何倍にも凝縮したような気の力とモワッとした熱風がその地下階段の下から吹き上げてきていた。


 少女は俺をつかみ上げたまま、迷わずその階段を降りていく。

 それにつれ、周囲はどんどん暑くなっていく。それなのに、体が震えるほどに背筋が寒い。気温のせいじゃない。多分、恐怖から湧き上がる震えだ。

 この先に何があるのかもわからないのに、ただただ押し寄せる恐怖に抗うことができない。


 どこまで続くのかと思うほどの長い階段を降りていくと、次第に階下の明かりが見えてくる。オレンジ色の光は、まるで向こう側で火事でも起きているのではと思うくらいに一番下の数段を照らして揺れる。


 立ち込める空気はますます暑くなってくる。まるで真夏の太陽の下にでもいるような暑さだ。


 ようやく階段を降りきった先にあったのは、開け放たれた重厚な両開きの扉だった。

 扉の手前側には、バールが無造作に投げ出され、扉は一部が破壊されている。


 扉の先には広い部屋が広がっていた。最奥に、黒の渦に縁取られた三メートルはあろうかという程の大きな穴が開いていて、穴の向こうで、穴と同じかそれより大きな、真っ赤に燃え盛る何かが蠢き、こちらに体を捩じ込もうとしている。

 炎の中心部には黒い塊。そこに鋭い目があり、ブラックホールのように全てを飲み込んでしまうのではと思うような大きな口がある。

 その口から、時折ブワッと焼け付くような熱風が吹き出てきていた。

 それなのに、纏わりつくような禍々しい気の力のせいで、背筋が凍えるようだ。


「何だよ、あれ……」


 そう呟くやいなや、俺は、茶色の土がむき出しになった地面にボトッと無造作に落とされた。

 地面に這いつくばりながら顔を上げると、若い男女が二名倒れていて、スマホの付いた自撮り棒が投げ出されているのが目に入る。

 さらにその向こうには、注連縄を巻かれた大きな岩。


 しかし、それよりも俺は、その二人の手前で翅を畳んだ状態で横たわる小さく青い蝶の姿に目を奪われた。


 ……あれはただの蝶なんかじゃない。

 見間違えるはずがない。

 いつも、俺の隣でヒラヒラと飛び、俺と亘を呆れたように窘めているその存在を……


「汐!!」


 俺は、先程まで感じていた恐怖も暑さも忘れて慌てて起き上がり、地面に倒れ伏す蝶に駆け寄る。


「汐! しっかりしろ!」


 そう声をかけるが、蝶はピクリとも動く気配がない。


 この状態の蝶を見たことがある。田舎町だ。虫なんてそこら中にいる。地面にポトリと落ちた虫の姿なんて、いくらでも想像できてしまう。


「汐!!」


 俺は声を張り上げて呼びかけながら、震える手で、一歩間違えれば潰してしまいそうなほどの小さな体を、そっと両手で掬い上げた。

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