第87話 初夏の雪③
「死んでいては贄としての意味をなさぬ。抵抗する故、黙らせただけだ。其奴はまだ生きておる。今のところは、だが。」
少女の言葉に、俺は自分の手の中に横たわる蝶をじっと見つめる。生きていると言われても信じられないくらい、汐はピクリとも動かない。
「……そもそも、何で汐がこんなところに……」
「何者かを捜して彷徨っていたところを捕らえたのだ。しきりに誰ぞの身を案じていたが、もしや汝のことだったか? であれば、命を失う前に会えてよかったの。」
「いいわけないだろ!?」
感情のこもらない少女の声に、俺は思わず叫び返した。
汐と亘は、俺達の方へ向かっていると聡が言っていた。
つまり、汐は俺を探しに来たところを、この少女に見つかり、生贄としてここに連れてこられたということだ。
「なあ、汐。亘はどうしたんだよ……一緒にいたんじゃないのか?」
汐の翅に人差し指の背でそっと触れてそう声をかけてみるが、やはり答えは返ってこない。
一方で少女の方が、小さく発した俺の言葉を拾い上げた。
「ほう。他に妖が居ったのか? であれば、探して捕らえておけば手間がなかったな……
まあ良い。ひとまず、ここにいる者だけで歯止めをかけてから探せば良かろう。」
少女はそう言うと、倒れている男女の襟首を片手で一人ずつ掴み、ズルズルと引きずっていく。
今まで気づかなかったが、燃え盛る炎の塊が蠢く穴のその両側には、先に鈴が沢山付いた金属製の長い棒が左右に一本ずつ転がっていて、二本が鎖で繋がれていた。
さらに、中央にある注連縄の巻かれた大岩の周りには、投げ出されたスコップと掘り返された跡がある。
しかも、その中には赤い光に照らされる白くて細長い何かが複数と、丸い……
そこまで考えて、ゾワっと全身が粟立った。
……まさか、白骨……?
俺が目を見開いてそれを凝視している間に、少女は男女を岩の周りの穴に無造作に放り込む。
そして、化け物蠢く大穴の両側に転がる鈴のついた棒を一本ずつ地面に突き立てた。すると、赤く燃える化け物の前に、鈍い光を映す鎖が僅かに弧を描くように張られる。
「汝もその蝶を連れてこちらへ来い。」
少女は作業の一環のように淡々とこちらへ言い放った。しかし、この状況でそんなことを言われて黙って行くわけがない。
「……俺達がそっちに行ったらどうなるんだよ。」
俺は汐を奪われないように、手を胸の前まで引き寄せもう片方の手で覆ってジリっと後退りをする。
緊張のせいか、立ち込める禍々しい空気のせいか、暑さのせいか。とにかく、口がカラカラに乾き、息がしづらくて胸が苦しい。
すると、少女は怪訝な表情でこちらを見据えた。
「ああ、ここまで来て逃げられては堪らぬな。」
そう言うと、少女は俺達の背後の扉の方に向って徐ろに掌を向ける。
それと同時に、扉がギギっと重々しい音を立てて動き始め、地を鳴らすほどの勢いでバタンと閉じた。
「さて、これで逃げられぬ。
こちらに来たらどうなるのかと問うたな。生きたまま埋めるのだ。この穴に。既に朽ちたこの者らのようにな。」
まるで何でもない事のように発せされたその声と共に、キーンと耳鳴りがする。
「埋める……? 俺達を……? そんなことして、一体何に……」
「気の力を吸わせて岩の養分にするのだ。岩が力を持てば結界となり、此奴を再び封印できる。」
……岩に気の力を吸わせて、結界にする……?
その言葉に、俺は少しだけ引っかかりを覚えた。
心臓がドクドクと煩い。むせ返るような暑さと重苦しい空気に頭がクラクラする。ただ、その引っかかりに何か糸口がある気がして、俺は脳みそを必死に働かせた。
……岩に気の力を……聞覚えのある言葉だ。ハクは、妖界を守るのに、結界石に陽の気を注ぐのだと言っていなかったか。
そう思いつつ、化け物が蠢く穴の円周上に目を向ける。
あの化け物の周りにある黒いものは、鬼界へ繋がる穴で渦巻いているものとよく似ている。
穴が大きすぎて引き伸ばされて、まるで黒い囲いのようになっているが、恐らく同じ物で間違いない。
それなら……
「……岩に気の力を持たせたいんなら、わざわざ俺達を埋めなくても、直接気を注げば済むんじゃないの?」
俺は出し抜けにそう問い掛けた。すると、少女はそれに、不思議そうな顔をする。
「気を注ぐ?」
俺の中の仮説はある程度、確信めいている。それでも、少女の反応に不安がよぎる。
……それではダメなのだろうか。でも、もしあの穴が鬼界の穴で、気の力で閉じられるのなら、人や妖を埋めたりなんてしなくても、俺が気を注いで閉じれば良いはずだ。
俺は、手の中の汐を見て、グッと奥歯を噛んだ。ここで引き下がるわけにはいかない。
「それ、鬼界の穴だろ。妖界にある結界石と同じ仕組みなら、俺が岩に気を注いで塞げばいいはずだ。無理なら直接あの穴に気を注ぐ。だから、ここにいる誰にも手を出すな。」
俺がそう言うと、少女はこちらを探るように見た。
「汝は鬼界を知っておるのか。それに、妖界の結界石とは。……ああ、そういえば先刻、陽の気がどうのと言っておったな。そうか、半妖とは思っていたが、その血筋の者であったか。」
少女は自分の言葉に納得するようにブツブツと呟く。しかし、すぐに俺に首を横に振ってみせた。
「原理はだいたい同じだが、たとえ汝が陽の気の使い手であったとて、ここを塞ぐには到底及ばぬ。」
「何でだよ! 原理が同じなら……!」
俺がそう声を上げかけると、少女は冷静な物言いで俺の言葉を遮った。
「まず、汝の力では陽の気が足らぬ。人二人分で足りるかどうかだ。汝一人分の気を全て吸い尽くしたとて足りぬだろう。それに、これはただの結界の口ではない。人界とも妖界とも鬼界とも違う、奴の気だけに満ちた空間だ。そこに奴を強固に封印するには、奴と同質ではない陰の気が必要だ。汝の力で陽の気が足りたとて、陰の気が出せぬ以上、その蝶は貰う他ない。むしろ、妖があと一ほしいくらいだ。汝も埋めれば、多少は足しになろうが。」
「……つまり、陽の気の使い手がもう一人と、陰の気を注げる妖がいれば良いってこと?」
もしそうであれば、どちらにも心当たりはある。
柊士の協力を得られれば、俺達を埋める必要はなくなるはずだ。
そうであって欲しいと願いながら少女を固唾をのんで見つめる。すると、少女は少し考えるようにしてから、
「……まあ、そうだが。」
と呟いた。
「それなら、」
俺はこのまま交渉してしまおうと口を開きかける。しかしまたしても、俺の言葉は少女に遮られた。
「しかし、時がない。今は、妾の力で山全体を包み、奴を抑え込んでおるだけだ。いつまでも抑えはきかぬ。妾の力が及ばなくなれば、此の世は火の海だ。汝らを埋めたほうが早く事が済む。」
少女はそう言うと、こちらへスゥっと地面から数センチ足を浮かせて飛んでくる。
「ま、待ってよ!」
俺はそう言いながら、汐を奪われないように、汐を載せたままの手を少女から隠そうと背後にまわした。
「じ、時間稼ぎはできないの? 例えば、陽の気だけでも注いで、他の者達が来るまでの間、堪えるとか……」
表情の読めない少女がこちらへ近づいて来るのを警戒しながらそう提案すると、少女は小さく首を傾げる。
「何もせねば、四半刻もすればヤツは出てくるだろう。陽の力を注いで耐えうるとして、もって半刻。しかし、半刻を待たずに汝の力が先に尽きれば、ヤツは程なく出てくるだろう。今から呼びに行き、戻って来られるのか? 間に合うとは思えぬが。」
「間に合わせてもらう。空を飛べば、そんなに時間はかからないはずだ。少しでもいい。時間制限をつけてもらってもいい。とにかく、時間がほしいんだ。」
俺がそう言い募ると、少女は
「ふむ。」
と考えるようにしながら、俺の目の前でピタリと止まった。
「制限付きか。……まあ、良かろう。妾も人や妖を無闇矢鱈に害したい訳では無い。土地神としてのつとめを果たせればそれで良い。」
土地神という言葉は気になるが、助かる道筋が見えたことに、俺はホッと胸をなでおろす。
「ただし、四半刻。それが限度だ。越えれば有無を言わさず穴に埋める。汝の力がその前に尽きても穴に埋める。逃げようとしても同様だ。先程も言ったが、奴がここから出てまき散らす災厄を考えれば、贄くらい躊躇うようなものではない。」
……四半刻。半刻が一時間。つまり、猶予は三十分だ。間に合うだろうか。
それに、連絡手段はスマホだけ。圏外なら、それだけで希望は潰える。
でも、今はこれに縋るしかない。
俺は少女の言葉に神妙に頷くと、引っ掴んで持ってきていた上着を引き寄せ、スマホを取り出した。
どうか、圏外じゃありませんように!
そう祈りながら、スマホのサイドにあるボタンを一度押す。画面に明かりがつき、右上に出た電波表示は一本。ギリギリだ。でも、生命線は僅かにだけど、繋がっている。
俺はその中から柊士の連絡先を探し出し、通話ボタンをタップした。
スマホが使えたところで、これで柊士が出なければ、それだけでタイムロス。三十分の間に繋がらなければ、アウトだ。
スマホの向こう側でコールが鳴る。
とにかく出てくれと祈る他ない。
プルルと、一回、プルル、二回、プルル、三回。
それが七回続き、だんだん絶望感が押し寄せて来る。
柊士を呼べなければ、汐も俺も、生贄確定だ。
プルル、八回。プル……
コールが途切れる。僅かの時間、無音が続く。
……え……まさか、切られた……?
そう思った時だった。ようやく、スマホの向こうから、低い柊士の声が響いてきた。
「どうした、奏太?」
柊士の声に、これ程安堵するとは思わなかった。涙が出そうだ。
俺は、それをぐっと堪えて口を開く。
「柊ちゃん、今から位置情報を送るから、すぐに来てほしいんだ。三十分以内に。陰の気で結界を張れる者も何人か連れてきて。じゃなきゃ、俺と汐とあと二人が、生贄として地面に埋められる。」
「……は? 生贄? 埋められるって誰に? 亘はどうした? 一体どういう状況なんだよ? しかも、三十分以内って、お前今どこに……」
矢継ぎ早に質問を受けるが、俺に答えられることなんて殆どない。
「俺だって、何がなんだかわかんないよ! ただ、目の前に巨大な結界の穴が空いてて、向こう側に火の塊みたいな化け物がいるんだ。結界を強固に閉じないとそいつが出てくるって言われた。塞ぐには、陽の気と陰の気がいる。俺達が注ぐか、人と妖を直接地面に埋めるしか方法が無いらしいんだ。」
「直接埋めるって……今、お前と汐がそうされかけてるってことか?」
「そうだよ! 俺一人じゃ陽の気も足りない。柊ちゃんの力が必要なんだ!」
半ば叫ぶように言うと、一瞬、柊士の言葉が途切れた。
冗談だと受け取られたり、何とかしろと投げられたりすれば、俺にはここを切り抜ける手段がない。
「……頼むよ。」
大した時間でもないその無言の時を祈るように待つうちに、心の声がそのまま口から漏れ出た。
すると、ようやくそれに応えるようにスマホの向こう側から柊士の声が響く。
「わかった。すぐに行く。それまで、余計な事せずそこで待ってろ。危ないと思ったら、自分の身を第一に守れ。絶対に無茶な真似はするなよ。」
スマホの向こうのその声は、いつものように説教臭く、そして、ハッキリと力強いものだった。
通話を切ると少女は、
「離れた者と話ができるとは、人の世とは便利なものだな。」
と感心するように呟きながら、胸の前で掌を上に向ける。すると、一体何処からでてきたのか、少女の掌の上に懐中時計が一つ現れた。
急に現れた懐中時計をまじまじと見つめていると、少女は小さく肩をすくめる。
「境内には置き去りにされるものが多いのだ。きちんと動く。イカサマはせぬから安心せよ。」
そう言いながら、少女は時間を確認すると、再びふっと掌から時計をかき消した。
羽もないのに浮き、手をかざすだけで扉を閉める少女だ。もう、一つひとつを気にしていても仕方が無い。
俺も、念の為にスマホで時間を確認する。三十分。ここからが勝負だ。
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