第66話 温泉地の鬼①

「……もし、あのまま、白月様を失っていたらと思うと、他人事ではいられません……」


 じっとハクと亘の様子を見守っていた凪の声が耳に届く。


「白月様をいつも背に乗せて飛んでいたのに、ある日を境に突然その方を失うなんて……」


 凪の言葉に、翠雨も璃耀もハクと亘を見て、眉根を寄せた。


 亘はハクに声をかけられ、涙を拭いながら立ち上がる。ハクはそれを宥めるように、柔らかい笑みを浮かべていた。


 俺は、人界の妖たちの間からその様子を眺め、ほっと胸をなでおろした。

 亘の後悔の念を聞かされてから、ずっと気になっていたのだ。

 これで、亘の心の中にずっと残り続けていたわだかまりは、解けて流れていったのだろうか。

 結の赦しを得て、ようやくその笑顔を見られて。


 そんな風に二人の様子を眺めていると、不意に、翠雨がハクを抱く紅翅と亘の方に一歩踏み出した。

 そして、徐ろに懐から、汚れてくたびれた紙人形を取り出す。

 それに気づいたハクが、小さく首を傾げた。


「……カミちゃん?」

「やはり、白月様と共に居ります。あちらは、瑛怜と泰峨に任せています。しばらくは大丈夫でしょう。」

「え、でも、カミちゃんには京の皆を……」

「聞きません。白月様とて、私の言葉を聞いてくださらなかったのです。今回ばかりは聞きません。」


 そう言いながら、翠雨は自分の掌を紙人形の上にかざす。

 掌から紙人形へ、ぽとりと一滴の水が垂れたかと思うと、パッとその姿が忽然とその場から消えた。


 一体どこに……と思っていると、ヒラリヒラリと落ちた紙人形が、地面につくなりムクッと動き出す。


 俺や人界の者達が一様に目を見開いて見ていると、紙人形は慣れたように、ピョンピョンと身軽に飛び上がり、ハクの薄銀色の毛並みにピタリと貼り付いた。


「ねえ、カミちゃん、たぶん、瑛怜達もカミちゃんの戻りを待ってるよ。一足先に帰って……」


 ハクが自分の上に乗る紙人形にそう言うと、紙人形はブンブンと頭を振る。


 ……なるほど、ハクが翠雨のことをカミちゃんと呼ぶ理由がわかった。紙人形のカミちゃんだったわけか。


「翠雨様、お気持ちはわかりますが、そのお姿になったとて、そのようにずっと白月様とともに居るというのは流石に……」

「その通りですよ、翠雨様。」


 凪が困ったように眉尻を下げ、璃耀が呆れたように息を吐く。


 それはそうだろう。どんなに姿は変わっても、中身は翠雨そのものだ。

 しかし、翠雨はヒシとハクにしがみつく。

 きっと、亘とハクのやり取りを見ていて思うところがあったのだろう。

 何も知らなければ、ただただ小さな兎に紙人形が貼り付いているだけだ。

 でも、それぞれの立場と中身が問題だ。


 見かねた璃耀が紙人形の体を鷲掴みにしようと手を伸ばしたのだが、翠雨は翠雨で、どういう仕組みか自分の手を僅かに光らせて、伸ばされた璃耀の手に触れた。


 瞬間、ビリっという音が小さく聞こえ、璃耀は顔を引き攣らせて手の甲を押さえる。


「……懐かし過ぎて涙が出そうですね。あのときのように、紙太と呼び捨て、雑に扱っても良いと理解しますよ。」


 二人に過去何があったかは知らないが、翠雨は璃耀を完全無視の姿勢だ。ピタッとハクにへばりついて動こうともしない。


「……もういいよ、璃耀。凪も。聞くつもりがないから、この姿になったんだろうし。」

「紙人形の姿になった途端に、翠雨様への扱いを変えるのはおやめください。紙人形の姿とはいえ、殿方ですよ。」


 凪の言い分は御尤もだ。


「でも、カミちゃんとはこうやって旅してた訳だし、今更……」


 ハクがそう言いかけたその時だった。


「どけ!」


という声が突然響き、俺の背後にいた人界の妖が複数人同時に、ドン! と突き飛ばされたのが横目に映った。


 更に、一体何が……と思う間もなく、俺は突然、後ろから襟首をぐいっと引かれる。

 同時にヌッと鋭く研がれた鉈が目の前に現れてゴクリとつばを飲み込んだ。


「奏太様!」


 亘や柊士が目を見開き、皆が即座に刀を手をかけて、周囲が一気に騒然とする。


 ……戦は終わったのでは無かったのだろうか。一体何でまたこんなことに……


 全く事態が飲み込めないまま固まっていると、怒りをにじませるような、低く唸る声が背後から響いた。


「これは一体、どういうことだ。白月。」


 恐る恐る首だけを動かし、声の主を振り返って見上げると、そこには短い角を二本生やし金色の眼光鋭い目をした、浅黒い肌の大男がいた。


 俺はそれに目を見開く。


 戦が終わってようやく一息つけるこのタイミングに鬼が現れるなんて、本当に空気が読めていない。

 一体この鬼は何処から出てきたのだろうか。

 そして、何で俺はこんな役回りばかりなのだろうか……


 いや、亘から離れて武器も持たず手頃な位置にいたせいなんだろうけど……


 皆は緊張した様子で武器を構え、鬼をじっと見据える。

 唯一の救いは、相手は一体、こちらはある程度絞ったとはいえ、結構な人数がいることだ。

 いくら鬼とはいえ、この人数相手に勝ち目はない。


 とにかく、この鉈を何とかできれば……

 そう思った時だった。


「皆、武器を下げて!」


というハクの高い声が響いた。


 急に大きな声を出したからだろう。ハクは顔を顰めて紅翅の腕の中に蹲る。

 紙人形の翠雨が心配そうにハクの顔を覗き込み、璃耀もハクの様子を見ながら眉尻を下げる。


 しかし、璃耀は直ぐに顔を上げて俺や鬼の更に後ろに目を向けた。


「宇柳、山羊七を引き止めておけと言っただろう。」


 璃耀がそう言うと、


「申し訳ありません……康太が来て報告を……止めたのですが、振り切られてしまい……」


という宇柳の情けない声が、鬼の更に後ろから聞こえてきた。


「うぅ……山羊七さん、その手を離してください。それ、私の従兄弟なんです。」


 傷が痛むのか、呻きながらハクが言う。視線の先は、俺の頭上、つまり鬼の顔だ。


「朝廷の者共を連れてきた者が何を言う。俺を捕らえに来たのだろう。質をとって何が悪い。」

「貴方を捕らえに来たわけではありません。傷を癒やしに来ただけです。」

「傷を?」


 鬼は疑わし気に唸る。


 ……というか、朝廷の者が捕らえに来た、とはどういう事だろう。突然襲ってきた鬼ではない、ということだろうか。

 それに、どう見ても、ハクや璃耀達はこの鬼の事を知っているようだ。


「外で戦があったんです。その子も肩に怪我を。」


 ハクが言うと、ヌッと鬼の顔が俺の首元から傷を覗き込む。牙のある大きな顔が真横に来て生暖かい息がかかる。

 このまま喉元から食い殺されるのではと冷や汗が出る。


「……そういえば、其方も大怪我をしていると康太が言っていたな。」


 鬼がふっと顔を上げてハクを見ると、その顔が少しだけ離れて、俺はほっと小さく息を吐き出した。


「ええ。温泉の湯で随分良くなりました。とにかく、まずは奏太を離してください。皆に貴方を捕らえるようなことはさせませんから。」


 鬼はハクの言葉に少しだけ考える素振りを見せる。

 顔は離れたものの、さっきから鬼が動くたびに鉈が鈍い光を放って動くのが結構怖いのだ。刀も怖いが、鉈は存在感がありすぎる。


 手を打ち付けて陽の気を使って逃れられればいいが、肩の傷のせいでうまく動かないし、ハクが説得しようとしてくれているのに余計な混乱を招くわけにもいかないし……


 そう思っていると、鬼がふと思い立ったように口を開いた。


「……ならば、代わりに其方がこちらへ来い。」

「は!?」


 鬼の言葉に妖界の者たちから驚きの声が上がり、一気に周囲がざわめく。


 ……それはそうだよな……


 ようやく敵の手から取り戻したばかりで、さっきまで衰弱しきっていたハクを、鬼の手になんて渡せるわけがない。

 俺だって、もうハクを身代わりにするようなことはごめんだ。


「そのようなこと、白月様にさせられません!」


 凪の鋭い声が上がる。でも、ハクは随分と落ち着いた様子でそれに応じる。


「大丈夫だよ、凪。山羊七さんは優しいもの。」


 ……山羊七とは鬼の事だろうが、優しい者は、人質に鉈を突きつけるような真似はしないと思う……


 凪はハクの言葉に絶望したような表情を浮かべ、ハクを抱いたままの紅翅の腕を取る。


「渡しては絶対にダメです、紅翅殿。」

「凪、大丈夫だってば。」


 凪は青い顔でふるふると首を横に振るう。


「ハク、俺も、二度もハクを身代わりにして逃げるなんて絶対に嫌だから。」

「奏太まで……」


 ハクは困ったように俺と鬼と凪を交互に見やる。


「白月。奏太はああ言ってるが、あのままにしておくわけにはいかない。説得できるなら説得しろ。出来ないなら、無理矢理にでも取り返す。」


 柊士の言葉に、皆がガチャガチャと武器を構える。説得なんて不要だという総意が伝わって来るようだ。


「ま、待ってよ、皆。」


 焦ったようなハクの声が聞こえてくる。

 一方で、鬼は俺を引き寄せてググッっと鉈を顔のそばまで突きつける。


 ハクに啖呵をきったものの、冷たい刃先が顔にあたってゾワっと怖気が走る。


「柊士様、私が行きます。もう二度と、白月様にも奏太様にも、鬼に手出しなどさせません。」

「私も参ります。白月様を御守りするのは私のお役目です。」


 亘と凪が刀を抜いて構える。


「だから、ちょっと待ってってば! 亘! 凪!」


 しかし、ハクの制止の声も虚しく、亘と凪はそのままダッと地面を蹴って駆け出す。

 当の鬼も、俺を抱えたままぐいっと俺の体を引っ張り、迎え撃つように手に持った鉈を構えた。


 あと少しで両者がぶつかる! そう思って思わず目を閉じた瞬間、


「止めよ!」


という声が周囲に響き渡った。


 恐る恐る目を開くと、さっきまでハクにへばり付いていたハズの翠雨が、再び人の姿に変わって立っていた。

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