第65話 薬湯の温泉②

「さあ、白月様、お怪我の様子を診ましょう。随分酷いお怪我だったと伺いましたよ。」


 不意に、璃耀の後ろで様子を伺っていた、薄紫色の髪の女性が前に進み出た。


「……紅翅。璃耀を助けてくれて、ありがとう。」


 ハクがそう言うと、女性は柔らかく笑みを浮かべる。


「この湯があってこそです。それに、白月様たっての願いですから。ただ、璃耀様も完治したわけではありません。今は随分とやせ我慢をされているようで。」


 女性の言葉に、ハクが璃耀をじっとみる。すると璃耀は決まりの悪そうな表情を浮かべてそっとハクから視線を逸した。


「璃耀様はそろそろお戻りください。本来は外に出て良い状態ではありません。

 それから凪殿、白月様をこちらに。いくらよく効く薬とはいえ、直ぐに全てが元通りとは行きませんからね。」


 女性がそう言うと、璃耀が兵の手を借りつつ立ち上がって場所をあけ、凪から女性へハクが渡される。


「後のことは、侍医である私にお任せください。翠雨様も、京のことがおありでしょう。お戻りになった方が宜しいですよ。」


 ……ああ、この人が……


 侍医、という言葉は、妖界に来るようになってちょこちょこ耳にしていた。

 陽の山の麓にある蓮華畑のカッパは、自分が大君の侍医の弟子なのだと自慢していたが、この女性のことだったのだろうか。


 そう思っていると、ハクが女性の方に顔を向けて声をかける。


「待って、紅翅。奏太達も温泉の湯に。それに、陰の気を抜いてあげなきゃ。」

「白月様、まずは御自身の事を優先して……」


 紅翅と呼ばれた女性は、咎めるようにハクを見る。でも、ハクは小さく首を横に振った。


「陽の気を使うんじゃない。陰の気を抜くだけなら、自分の力は使わないから。奏太、柊士、こっちに来て。」


 ハクに呼びかけられると、俺達は顔を見合わせる。


「陰の気はいい。その人の言う通り、自分の体を優先しろ。さっきまで死にかけてただろ。」

「そうだよ。俺達ならまだ大丈夫だから。」


 柊士と俺でそう言ってみたが、ハクは意見を翻すつもりはないようで、じっとこちらを見ている。


「良いから、早くして。」


 ハクが少しだけ尖った声を出すと、柊士はハアと息を吐き出した。そして、諦めたようにハクの方に向かう。俺もそれを追いかける。


「お前、そういうトコ、全然変わんないな。」


 ハクの側まで行くと、柊士は呆れを隠さずにそう言った。ハクはそれに眉間を寄せる。


「……私だって成長してるし。」

「どこがだよ。」


 一方は兎の姿だが、二人のやり取りは気安いものだ。きっと、結と柊士のやり取りなのだろう。


「二人共、手を出して。」


 ハクはそう言うと、紅翅に抱きかかえられたまま、震える前足を俺と柊士の掌にぽてっと乗せる。


「腕と足、大丈夫なのか?」

「……薬湯を使ってればそのうち良くなると思うけど、今はまだ、うまく持ち上がらないの。」


 ハクはそう言いつつ、すっと瞳を閉じる。


 すると直ぐに、高く小さな声で祝詞が唱えられはじめた。

 まだ大丈夫だろうと思っていたけど、やはり、ハクに陰の気を抜いてもらうと、重苦しい胸のつかえがとれて、大分スッキリする。


「あとは、その怪我だね。ゆっくり温泉に入って。たぶん、直ぐによくなる。亘も。大きな怪我をしてたでしょう?」


 そう言われて、俺はふっと亘を振り返った。

 しかしそこで、さっきまでそばに居た亘が居なくなっていることに気づいた。


 一体どこに行ったのかと探していると、柊士についていた淕がハアと小さく息を吐いて、視線で亘がどこに居るかを教えてくれる。

 そちらに目を向けると、亘は人界の妖の中に紛れ、存在感を消すようにしてこちらを見ていた。

 ハクもまた、それを見て困ったような表情を浮かべる。


「亘。」


 ハクがそう声をかけると、亘はビクっと肩を震わせる。


 まさか、亘が呼ばれるとは思っていなかったのだろう。妖界の者達は、驚いたように人界の妖が集まる方に目を向け、亘を知らない者は誰が呼ばれたのかとキョロキョロしていた。


「亘、こっちへ。」


 身を固くして動けないでいる亘に、ハクはもう一度声をかける。


「……し……しかし……」


 亘は小さくそう言いながら、戸惑いを見せる。どうしても、ハクに……結に対して後ろめたい気持ちがあるのだろう。

 でも今のハクは、わざわざこの場で亘を呼び出して糾弾するような雰囲気ではない。


 俺が亘の背後にまわって、そっと片手で背を押すと、亘は困ったように一度俺を見たあと、おずおずと進み出てハクの前に膝をついた。


「……あ……あの……」


 亘は頭を下げたまま、ハクの方を見ずに戸惑いの交じる声を出す。


「紅翅、しゃがんで。」


 紅翅にそう言うと、ハクは、亘の方に、そっと手を伸ばした。

 亘はハクの顔と手を交互にみて、どうすべきか迷うように挙動不審にしている。


「亘、手を貸して。私、こうしてずっと伸ばしていられないの。」

「あ……あの……しかし……」

「良いから、早くする!」

「は、はい!」


 ハクに急かされると、亘は先程の璃耀のように、ハクの手をそっと両手で取った。


 人界の者たちはシンと静まり返り、その様子をじっと見つめている。

 きっと皆、結と亘達の間にあった事を知っているからだろう。

 妖界の者たちも、それにつられるように口を噤んでいく。


 そんな中で、亘は躊躇いがちに、その小さな兎の手を自分の掌の上に乗せ、視線を落とした。

 そして、思い詰めたようにギュッと眉間にシワを寄せる。


「……申し訳……ありませんでした……」


 亘はポツリとそう呟く。


「何で亘が謝るの? 助けてくれたのに。」


 ハクがそう言うと、亘は小さく首を横に振る。


「……そもそも、貴方がこの様な目にあった責任の一端は、我らにあります。」

「今回のことを起こしたのは、遼と識だよ。」


 首を傾げるハクに、亘は一瞬口籠る。

 しかし、自分の気持ちを吐露するように、言葉を選びながらポツリ、ポツリと声に出し始めた。


「……あの時、貴方を鬼の手から救えていれば、この様な事にはなっていませんでした……貴方に苦痛を強いてまで妖に転じさせていなければ……」

「亘、それはもう……」


 ハクがそう言いかけると、亘は再び首を横に振る。

 そして一度だけ、ハクの手をギュッと握り締めると、悲痛な表情で、ふっとハクの手を離した。

 少しだけ下がって両手を前についた亘は、ハクに向かって頭を深く下げる。


「……あの時、貴方を御守りできなかったこと、貴方の未来を奪ったこと、貴方に御辛い思いを強いたこと……許して頂こうなどとは思いません。謝って済む問題だとも思いません。我らの事など、さっさと忘れて頂いて構いません。

 ……ただ……謝罪すらできぬままお送りしたことを、ずっと……悔いていました……私だけではなく……汐もまた……」


 涙声をかすれさせる亘の声には、深い後悔が滲んでいる。


「……叶うことならば……いつの日か……遥か遠くからでも……一目だけでも良いから、貴方がお幸せそうに笑っている御姿を、もう一度この目で拝見したかった……私の……我儘であることは承知の上です……でも、それが、私の望みでした……

 ……それなのに、貴方の笑顔をみるどころか、結局、あの時のことが原因で、再び貴方に御辛い思いをさせることになってしまいました……本当に……申し訳、ございません……」


 ハクは自分に向かって深く頭を下げる亘を、ただじっと、静かに見つめていた。


「……亘、顔を上げて。」


 そうハクに言われても、亘は動かない。


「亘。」


 ハクがもう一度言うと、亘はゆっくりと体を起こす。ただ、その視線は下を見つめたままだ。


「亘達のせいじゃないよ。あの時だって、助けようとしてくれたじゃない。」

「……しかし……」

「久しぶりに会った時に酷い態度をとってごめんね。でも、今は理解してるつもりだよ。あのまま死ぬかも知れなかった私を前に、亘達にはどうしようも無かったんだって。それでも、結を何とか生かそうとしたんだって……」


 亘は俯いたまま、ギュッと目を瞑る。膝の上で握られた拳は、小さく震えている。


「……未だに、もう少し何とか出来なかったのかと……別の道は無かったのかと……そう思うのです。貴方をお乗せして飛んでいた時のことを思い出しては、もっと違う道があったのではと……」

「ごめんね、辛い思いをさせて……」

「謝らないでください。我らの……」


 亘がそう言いかけると、ハクは最後まで言わせないように言葉を遮る。


「ねえ、亘。私、今は幸せだよ。いろいろあったし、あっちではもう生きられないけど、こっちの世界に来て、妖界の皆に会えて、楽しく生きてるの。だからもう、亘達もあの時の事にとらわれるのは止めて。前を向いてよ。」


 それでも亘は、ハクの顔を見れずに俯き地面に視線を落としたままだ。


「きちんとこっちを見て。謝らなくていい。恨んでない。不幸になんてなってない。私はこっちでちゃんと生きてる。」


 ハクがそう言うと、亘は躊躇いがちに視線を上げて、ようやくハクの顔を見た。


「私はもう、大丈夫だから。亘も、ちゃんと前を向いて生きてよ。」


 亘は、ハクの目を見つめて瞳を揺らす。ハクはその目を真っ直ぐに見つめ返していた。


「……お許し……頂けるのですか……貴方の未来を奪った……我らを……」

「許すも何もないよ。それに、今の私には、新しい未来ができたもん。」


 ハクがニコリと笑って見せると、亘はハクの顔を瞬きもせず、まじまじと見つめる。

 その目には、みるみるうちに涙が溜まっていくのが、傍目からでもよくわかった。


「……いつか……貴方にお伝えしたかったのです、結様……楽しそうに笑う貴方をお乗せして飛べた日々は……私にとって、本当に……本当に、幸せな……日々でした……」


 亘がそう呟くように言うと、その瞳から涙がポロッと零れ落ちる。


「うん。亘達のお陰で、私も楽しかったよ。あんなふうに居なくなってごめんね。ずっと支え続けてくれて、本当にありがとう。亘。」

「……結……様……」


 亘は膝の上で拳をキツく握り、堪えきれずに嗚咽を漏らしながら涙を流した。

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