第67話 温泉地の鬼②
翠雨は恨めしげな表情を、鬼と亘と凪、さらに周囲を取り囲む兵達に向けたあと、刀を構えたまま足を止めた亘と凪のところへ向かう。
「刀を収めよ。主を守らんとするのは結構な事だが、少し落ち着け。白月様が止めよと仰せだ。」
二人を含め、すべての兵に目を向けて手で制すと、翠雨は今度は鬼に向き合う。
「大勢で押しかけた事は申し訳無かったが、白月様の大事だったのだ。我らは其方に手出しはせぬ。そちらも人界の者を開放してくれ。」
翠雨の冷静な物言いに、鬼は眉を顰める。
「……朝廷の者など信用できぬ。」
「では、璃耀の言ならどうだ。其方の名付け親だろう。」
翠雨はそう言うと、ふっと璃耀の方を振り返る。
さっきからちょこちょこ出てくる山羊七というダサい名前をこの鬼につけたのが璃耀なのだろうか。
そもそも鬼に名付けるシチュエーションが良くわからないし、つけたとして、鬼に山羊とつけるのは如何なものか。
鉈の恐怖に目を逸らすようにそんなどうでもいいことを考えていると、指名された璃耀が心底面倒そうな表情を浮かべた。
「その者を放して話し合いに応じよ、山羊七。その風体でいきなり武力に訴えようとするからこの様なことになるのだ。」
「……しかし……」
「ここに居るのは殆どが白月様の臣下だ。こちらに害意を示さねば、白月様のご意思で如何様にもできる。」
璃耀の言葉に、山羊七はチラッっとハクに目を向ける。
「いくら璃耀殿の言といえ、白月のような小さな兎に、この者らを従える力があるとは思えぬ。この小僧を放した途端に捕らえられるのはごめんだ。」
……まあ、今のところ、見た目はただの兎だもんな……
璃耀も同じようにハクを見やり、仕方が無さそうにハアと息を吐いた。
「白月様、我らに山羊七に手を出すなとお命じください。白月様の権威を見せつければ山羊七は納得するのでしょう。」
ハクは璃耀に向けて眉根を寄せる。
「でも、さっきから私、武器を下ろしてって言ってたんだけど……」
不満気にそう呟くハクに、翠雨は苦笑を漏らす。
「皆、白月様を守りたい一心でしたから。白月様の身に危険が迫っていなければ、皆、きちんと御意に従います。」
翠雨はそう言いながら兵士をぐるりと見渡す。
ハクも同じように、釈然としなさそうに周囲を見ると、兵達は、気まずそうな顔で視線を僅かに逸した。
ハクは、それを確認して眉尻を下げる。それから、すぅと息を吸い、少しだけ声を張り上げた。
「じゃあもう一回言うけど、皆、武器を下ろして。山羊七さんに手を出さないで。」
ハクがそう言うと、翠雨はそのまま大仰に頭を下げる。
「承知しました。仰せのままに。」
翠雨がハクの前で真っ先に膝をつくと、朝廷の兵たちは慌てたように、武器を置いて一斉にざっとその場に跪いた。
一方で、人界の妖はどうすべきかと、周囲を伺っている。亘も同様だ。ハクの命には従いたいが、俺のことが気になるのか、ハクとこちらを交互に見て戸惑っているように見える。
「もう半分は、柊士の管轄でしょ。人界の妖に山羊七さんに手を出さないように命じて。」
ハクがそう言うと、柊士は眉を顰める。
「いや、こっちは、奏太を人質に取られてるんだぞ。」
「奏太を開放してもらうために、こっちから害意が無いことを示すの。お願いだから。」
柊士は眉根を寄せたまま俺を見る。そして、山羊七に目を向け、人界の妖を見渡し、ハクを見て、もう一度、決めかねるように俺を見た。
「柊士。」
ハクがもう一度言う。
すると、ようやく、諦めたように
「全員、武器を下ろせ。あの鬼に手を出すな。」
と、静かに命じた。
柊士の言葉に、淕が直ぐに柊士に向かって膝をつく。それに従うように人界の妖も全員が柊士の言葉に了承の意を示すように跪いていった。
最後まで残ったのは亘だ。
……柊士より、結や俺が優先って言ってたもんな……
「亘、頼むよ。」
俺がそう言うと、亘は困ったようにこちらを見たあと、ようやく武器を収めて膝をついた。
朝廷と人界の妖の全てがその場に跪き、ハクと柊士に頭を下げると、山羊七は呆然としたようにそれを眺める。
「山羊七さん、これで良いですか?私達は山羊七さんを捕らえたりしません。奏太を返してほしいんですけど。」
「……其方、一体何なのだ……」
山羊七がポツリと呟くように言うと、ハクはニコリと笑う。
「ただの兎ですよ。あの頃と変わりません。」
「……白月様。あの頃と変わらぬのでは困るのですよ。きちんと御自覚ください。」
璃耀が顔を上げて窘めるようにそう言うと、ハクはヒクっと顔を引つらせた。
山羊七は二人のやり取りを見て、周囲を囲む兵たちを見回したあと、ようやく静かに鉈を下ろし、俺を掴んでいた手を離した。
鉈が目の前から消えて、俺はほっと息を吐き出す。
「奏太、柊士のところまで下がって。亘、奏太をお願い。」
ハクがそう言うと、亘は一度ハクに頭を下げたあと、山羊七を警戒しつつ立ち上がり、俺の背をそっと押す。
「もう、何者かに捕らえられるような真似は勘弁してください……」
「俺だって勘弁してほしいよ……」
疲れたように言う亘に、俺も同じ様に疲れの滲む声で返す。ハアと溜息をつくと、亘からも同時に息を吐き出す声が聞こえてきた。
柊士の側に行くと、柊士もまた、何も言わずに眉根を寄せて俺を見たあと、ハアとこれみよがしに溜息をつく。
言いたいことはわかるが、今回の件に関しては不可抗力だ。そんな顔をしなくてもいいのに。
……変に説教される前に、話を逸らしておこう。
「ねえ、ハク。そもそも、何でその山羊七さんは、そんなに朝廷の人を警戒してるの?捕らえに来たって言ってたけど。」
俺がそう言うと、ハクは気の毒そうにチラッと山羊七に目を向ける。
「昔、何度か住んでたところを追われて討伐されそうになったんだって。鬼がいるって言われて……」
……ああ……なるほど……
「私は何もしていない。ただ、そこに居ただけだ。ただ静かに暮らしたかっただけなのだ。それなのに、この風体を見ては追い回され住処を追われた。何度も、何度も、だ。」
山羊七はそう言うが、それはある意味仕方のない事だと思う。鬼が突然現れれば、そこに住む者たちを守るために排除しようという心理はどうしても働いてしまう。俺だってそうだ。
敵ではないと言われたところで、今まで鬼に酷い目に合わされてきた者としては、警戒を解くのは難しい。
しかし、ハクはそれに困ったような声を出した。
「山羊七さんは鬼じゃないんだって。今までだって、いろいろ助けてもらって……だから、静かに暮らせるこの場所は守ってあげたいんだけど……」
……いや、どこをどう見ても鬼だろ。何言ってんだよ、この人。
「あれが鬼じゃ無かったら何なんだよ。」
呆れたように言う柊士に、人界の者も妖界の者も一様に頷く。でも、ハクはもう一度首を横に振る。
「鬼じゃなくて山羊なんだって。」
「いや、お前、そんなしょうもない話いちいち真に受けんなよ。」
「だって実際、山羊七さん優しいし。それに、そもそも言い出したのは璃耀だよ。」
ハクが璃耀に目を向けると、璃耀は小首を傾げる。
「実際、山羊七が鬼か山羊かなどわかりません。害が無さそうだったので、山羊という事にして、ここの護りに据えただけで。」
「え、そうなの?」
璃耀もハクも、山羊七の正体はよくわかって居ないらしい。
山羊七に対する皆の疑惑の念は全く解けない。
ハクは周囲を見渡して仕方のなさそうな顔をしたあと、紅翅に声をかけ、山羊七の前に向かい始める。
「は、白月様! 近づいてはなりません!」
「紅翅殿、白月様を鬼の前になど、、、!」
と口々に周囲の者が止めに入る。
しかし紅翅もまた、ハク達と同じ様に平然とした様子で歩みを進めた。
「白月様も仰っていますが、それ程悪い者ではありませんよ。現に、この場所で璃耀様の治療ができたのですから。」
紅翅がそう言うと、皆が揃って口を噤む。
確かに、俺の知っている鬼と同じ様な者だったら、治療に専念できるどころか、全滅させられていてもおかしくはない。
「騒がせてごめんなさい、山羊七さん。皆には手出しさせないから、少しだけここに居させてください。怪我を治したら直ぐに出ていきますから。」
ハクがそう言うと、山羊七は眉根を寄せてハクをじっと見据える。
害はないと言われても、大きな鬼の前に小さな兎がいるだけで何だかヒヤヒヤする。
「これだけ多くの者にこの場所を知られた。今は良くとも、またいつ襲ってくるかもわからぬ。連れてきたのは其方らだ。どうしてくれる。」
「皆にそんな事はさせません。ここはキチンと守りますから……」
すると、翠雨がハクと山羊七の間に進み出た。
「ではこうしましょう。今からここは、朝廷の管理下に置き、兵も常駐させましょう。先程も申しましたが、前々からそうすべきだと思っていたのです。」
「……私をここから追い出すつもりか。」
山羊七は剣呑な雰囲気を出して翠雨を睨む。
「そうではない。其方にもここを守ってもらうのだ。ここの護り手として、朝廷で正式に雇用しよう。」
山羊七はよくわからない、というように眉根を寄せ、他の者達もポカンとしながら翠雨を見ている。
「其方だけでは心許ないので、交代で朝廷の兵も配置させてもらうだけだ。ついでに変に悪用されぬよう、温泉の護りとして京と同様、結界も張っておこう。」
「確かに、正統たる御方の御代に移った今、その方が良いのでしょうね。」
よくわからないが、璃耀も乗り気だ。
「ねえ、もしかして、そうなったらココに時々温泉旅行に来ても良くなるってこと?」
「誰もそのような事は言っていません。」
ハクがキラキラした目を璃耀に向けたが、璃耀はピシャリと言い放つ。
「私の本来の家はここにあるのに……」
「貴方の本来の家は幻妖宮です。」
「たまには良いではないか。その際には、是非私もお供を。あの家は、私と住むために作ってくださったものでしょう?」
「……まあ、そうなんだけど、今となっては誤解を呼ぶから、その言い方は止めて。」
完全に、ハク、璃耀、翠雨の三人だけで話が進んでいて、誰一人としてついていけていない。
当事者であるはずの山羊七も、だ。
「あ……あの、恐れ入りますが、鬼を白月様の臣下として迎え入れるのですか……?」
兵の一人がおずおずと声を上げる。
「四貴族家のうち二名から奏上して、主上が了承したのだぞ。一体なんの異存がある。」
翠雨が言うと、ハクはそれに楽しそうにフフッと笑う。
「毛助さん達にもここの管理を手伝ってもらおう。そしたら、山羊七さんや毛助さん達に誰も手出しできないもんね。」
「ああ、せっかくですから、人界から連れてきたあの獺もここの護りにまわしましょう。宮中に連れていったは良いものの、浩が持て余し気味だったので。」
璃耀の言う獺とは、学校にいたあの獺のことだろうか。
山羊七達の処遇は、朝廷の上位者達によってトントン拍子に決められていく。
先程も言ったが、この状況には、未だ誰一人としてついていけていない。
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