第12話 鬼界の入口

 都合がいいのか悪いのか。

 例え成績が悪くても本家のせいにしてしまえばいいだろうという目論見は完全に外れ、きっちり二学期の期末テストが終わったある日の夜、汐が慌てたように部屋に飛び込んできた。


「鬼界の入口が開きました。お早くご準備を!」


 久々の呼び出しだ。

 ただ、汐の焦り方も本家に行った後の亘の緊張した表情も、いつもと完全に違っていた。


「今回はどこ?」

「西に三時間ほど行ったところですが……」

「うわぁ……遠い……」


 そうぼやくと、汐と亘は顔を見合わせる。


「何故そんなに落ち着いているんです?」

「……何故って……妖界だろうが鬼界だろうが、やることは一緒でしょ?」

「いや、それはそうですが……」


 口籠る亘に首を傾げていると、汐は急かすように俺の背を軽く押す。


「話は行きながらにしましょう。とにかく急がなくては」



 月明かりの下を飛びながら、亘に延々と鬼の怖さについて語られる。でも、何だか子ども向けの昔話を聞かされているようで、どれだけ力説されても現実味が湧いてこない。


「鬼界は大昔、人界と妖界が別れる更に前に、人や妖を喰う種を閉じ込めるために結界で最初に区切られた場所だそうです。

 その上さらに、妖界で手に負えなくなったような凶悪な者も追放するようになっていったと聞きます。

 ですから、数の力があれば別ですが、人や妖では到底太刀打ち出来ぬような者達の巣窟なのです」


 そう言われたところで、妖についてもそんなに詳しくないのに、それがどれほどのものかもよく分からない。

 確かに自分一人で戦えと言われたら無理があると思う。でももしかしたら、一対一なら蝦蟇のときのように陽の気でどうにかなるかもしれない。

 万が一、鬼と人の戦争になったとしても、中世までならまだしも、形振り構わず人間の武力を総動員したら鬼なんて全滅させられるのではないかとすら思える。


 まあ、その形振り構わず、が難しいんだろうけど。


 そんな事を思いながら、亘の熱弁を話半分に聞き流しつつ、三時間の長旅を過ごした。



 ようやく亘が下降した場所は、鬱蒼とした茂みの手前だった。しかもただの茂みではない。何故かこの寒空の下、鬼灯が鈴生りに生い茂っている。


「なにこれ……」

「鬼界への入口が開くとき、あちらの瘴気のせいか、鬼灯が周囲に生え実をつけるのです。」


 そんな謎な現象が起こることにも驚きだが、さすがにこれは生えすぎではなかろうか。季節はずれにこれだけもりもり茂っていると気味が悪い。

 さらに、何となく周囲が白くぼやけて、手に持つ懐中電灯の光を反射しているように見える。


「ねえ、これ霧……? 瘴気ってこんなふうに見えるの?」


 そう言っている間にも、霧は徐々に濃さを増していく。


「いえ、通常はこのようにはならないのですが……少し様子が変ですね。これ以上霧が深くならないよう、手早く終わらせてしまったほうが良さそうです」


 汐は蝶の姿のまま、俺の背丈くらいまで伸びた鬼灯の上まで舞い上がる。

 小さいせいもあるが、夜の暗さと深い茂みと濃くなってきた霧のせいで姿が見えにくい。

 

 ひとまずそれについていこうと懐中電灯片手に茂みに分け入る。しばらくガサガサと鬱陶しい鬼灯を掻き分けながら歩いていくと、後ろから着いてきていたはずの亘の気配がいつの間にか消えていた。


「汐! 亘が居ないんだけど着いてきてる?」


 自分よりも少し前を飛んでいるはずの汐に声をかける。しかし、汐からも返事はない。


「汐! 亘!」


 鬼灯を掻き分ける音が煩くて、足を止めて周囲を伺う。でも、やっぱりどちらからも返事が戻ってこない。

 茂みに阻まれて進むのに苦労しているため、大した距離は進んでいない。それなのに、この短時間で逸れるようなことがあるだろうか。


 俺は知らずしらずの内にゴクリとつばを呑み込む。

 引き返したほうが良いだろうかと、一度背後を振り返った。しかし背後もまた、鬱蒼とした茂みに視界を阻まれている。


 ……いや、ここを抜けたこの先を二人も目指しているはずだ。変に戻らず先に進んで合流したほうがいいだろう。


 ガサガサと掻き分けようやく茂みを脱すると、奇妙に円形に開けた場所に出た。周囲を鬼灯に囲まれ、まるで人工的に作られたかのような空間だ。

 さっきまで立ち込めていた霧は、その円の中だけは嘘のようにきれいに晴れている。


 月明かりに照らされたその異様な空間の真ん中には、何故か少女が一人座り込んでいた。汐ではない。ワンピース姿の見たことのない子だ。


 思いもよらぬ遭遇に、背筋がゾッとする。

 俺がその場から動けずにいると、少女は不意に目元に手を当てて拭うような素振りを見せながら顔を上げた。

 見た目だけで言えば、小学一年生かそれ以下くらいだ。


 ……迷子か……妖か……


 迷子なら直ぐにでも保護すべきだが、妖なら安易に近づかない方がいい。


「……ど……どうしたの? こんなところで……」


 ひとまず探りを入れるために声をかける。

 しかし、少女はくすんくすん声を出して泣き始めてしまった。


「……君、何処から来たの? 名前は? 家はどこ?」

「……なまえは……ヒック、あ……あいり……。いえは……ヒっ、わかんなくなっちゃった……。いえに……ヒックっ……かえりたいよぉ……まま、ぱぱぁ……」


 少女は再び顔を伏せて泣き始める。


 今まで会った妖たちと比べると、服装といい言葉遣いといい、凄く今どきの子どもっぽい感じがする。

 たぶん、だけど、本物の人の子どもだと判断しても良さそうだ。


 俺はそう思い、少女に近づく。

 ここは危険だ。さっさと連れ出して警察につれていった方がいい。


「一緒にお巡りさんのところに行って、パパとママを探してもらおう」


 そう言って手を伸ばしたその瞬間だった。


「奏太様、離れて!」


という、汐の悲鳴のような声が聞こえた。


 驚いて振り返ると、その途端、物凄く強い力で腕をぐいっと少女が居た方に向かって引かれる。

 視線を戻すと、そこに居たはずの少女の姿は忽然と消えていて、代わりに黒い渦と中から焦げ茶色の毛むくじゃらの太い腕が片方出ているのが見えた。

 腕の太さも長さもまるでゴリラのように大きく筋肉質で、長く鋭い爪のついた手で俺の腕を掴んでいる。


「は!?」

「おお、食いそこねたあの娘がうまく役にたってくれたものだ。良い肉が釣れたぞ」


 ぐいっと穴の方に引き寄せられ、ギョロっとした目が向こう側から覗いた。獲物のように自分を見るその目に背筋が寒くなる。


「……は……離せ!」


 慌ててぐいっと体ごと引っ張るが、向こうはびくとも動かない。


 力づくで適うような相手じゃない。


 そう思っていると、人の体に羽を生やした亘がヒュッと勢いよく下降してきて、短刀を俺を掴む腕に思い切り突き立てた。

 ポタタと赤い血が地面に落ち、穴の向こうから地鳴りのようなうめき声と、ミシッ という大きな音が聞こえてくる。


 しかし、それでも毛むくじゃらの腕は俺を放してはくれない。それどころか、穴をこじ開けようとしているのか、もう片方の手が渦の端に内側からかけられた。


「おのれ、妖ごときが小賢しい!」


 もう一度、ミシっと音が聞こえる。


 まさか、結界の綻びを渦のところから無理やり広げようとしているのだろうか。


 再び、向こう側から強くぐいっと腕を引かれ始める。俺を穴の向こうに引きずり込むつもりだ。

 亘が毛むくじゃらの腕にしがみつき、必死に俺からその手を離させようとしている。俺も腰を低くして足を踏ん張り必死に抵抗する。

 しかし、毛むくじゃらはそれをものともしない。物凄い力だ。


「大人しくこちらへ来い! 小僧!」


 力を加えられる度に、爪が腕に突き刺さり、深く食い込んでいく。強い痛みにぐっと奥歯を噛む。

 でも痛いなどと言っていられない。さっきこの毛むくじゃらは、俺のことを肉と言ったのだ。向こうに引き摺り込まれたら、あっという間に餌にされてしまうだろう。


「亘、あのまま腕を切り落とせないの!?」

「無理だ、硬すぎてあれ以上はうごかぬ!」


 亘も俺も、必死に抵抗を続ける。

 しかし、その間にもじりじりと足元が音を立て、少しずつ引き寄せられていく。肩から腕が抜けそうだ。耐えていられる時間にも限度がある。


 何か、手は……


 そう思っていると、汐がふっと耳元にやってきた。


「奏太様、手を合わすことはできますか? このまま綻びを閉じましょう。鬼も陽の気には触れていられません!」

「そういうことは、もうちょっと早く言ってよ!」


 俺は叫ぶようにそう言うと、鬼に掴まれている方の手を広げ、何とかもう片方の手を合わせる。


「亘、離れて!」


 亘はその言葉にハっとしたように毛むくじゃらの手を放した。

 それと同時に体勢が崩れ足の踏ん張りが効かなくなり、更に亘の支えもなくなったせいで勢いよく渦に向かって引き寄せられていく。


「ハハハハ! てこずらせやがって!」


 ようやく向こう側に引きずりこめると思ったのか、毛むくじゃらが歓喜の声を上げた。

 それに思わず悲鳴を上げそうになる。しかしそれをぐっと堪えて、体を地面に擦りつけて抵抗しつつ頭に浮かび上がる祝詞に言葉を這わせた。


 徐々に光りの粒が掌から零れ出てくる。

 最初、引きずられる勢いで全くあらぬ方向に粒が流れていったが、黒の渦が目の前に迫るに連れて、だんだんと焦点が合い、きちんと光が渦に吸い込まれはじめた。

 それに合わせるように、毛むくじゃらの悲鳴が周囲に響く。


「何だ、これは!!」


 それと同時に、ぱっと腕から手が放された。


「やめろ! 何なんだ、この光は!」


 悲鳴は轟くような怒声に代わる。

 でも、光が黒の渦に届き始めればこちらのものだ。

 俺は地面に尻餅をついた状態のまま、次々と光の粒を注いでいく。


「クソが!!」


 殆ど閉じた黒い渦の向こうから、毛むくじゃらの悪態が聞こえたのを最後に、黒い渦はギュッと一点に縮まり消滅した。


「奏太様!」


 俺がほっと息を吐き出すと同時に、亘がこちらに駆け寄り汐が人の姿に戻る。二人は顔を青ざめさせて俺を覗き込んだ。


「奏太様、お怪我は?」

「腕だけ……痛いは痛いけど、そんなに心配しなくても、大丈夫だよ」


 今までの亘の飄々とした感じも無ければ、汐の冷静さも感じられない。なんだか二人らしくない反応だ。


 こんな怪我今までしたことないし、本気で痛いし、腕を抱えて呻きたいくらいだ。でも二人がそんな顔でこちらを見るから、大丈夫だよ、としか言えない。

 なんとか意識を逸らそうと、俺は先程まで黒い渦が巻いていたところに目を向けた。


「……あれ、何だったの?」

「鬼です。あやつらは、人や妖を喰うのだと言ったでしょう。あのまま引きずり込まれていたら、どうなっていたか……」


 亘が未だ、俺の様子を伺いながら眉尻を下げる。


 ……確かにそうは聞いていたけど……


「じゃあ、あの女の子は……?」

「鬼が見せていた幻でしょう。黒い渦を発見した者から、迷い込んだ人間の子どもを保護したと報告がありました。姿型が報告と似ていたので、その子どもの幻影を利用したのだと思います」


 汐は汐で、他に怪我はないか確認するように俺の周りをくるりと一周したあと、ほっと息を吐きながら答えた。


「鬼ってそんなこともできるの……?」

「妖でも出来るものはいますから、そういう種だったのでしょう。あまり完璧な幻影ではなかったので本来容易に見破れたはずなのですが、霧に阻まれ気づくのが遅れました。申し訳ありません」


 なるほど。最初から亘の話を真剣に聞いていたら、俺ももう少し慎重に行動出来ていただろうか。妖界も鬼界もやることは同じだなんて、本当に見積もりが甘かったようだ。


「奏太様、腕を。亘、止血できそうなものを何か持っていない?」


 汐がそう言うと、亘が何処から出したのか、布切れを一枚汐に渡す。

 傷に目を向けると思っていた以上に深い傷になっていて、そこから溢れるように血が滴っている。これは痛いわけだ。

 汐が上腕部にギュッと布を縛り付けると、あまりの痛みにウゥッと呻き声が漏れる。


「本家に戻ったら、きちんと手当してもらいましょう」

「これ、病院で何ていうの? 熊に襲われたとか?」


 獣の爪が複数突き刺さったこの傷を説明する術を自分は持っていないし、親に説明するにも苦慮しそうだ。

 そう思っていると、汐が小さく首を横に振った。


「病院になど行きません。専属の医者がいますので、その方にお見せしましょう。本家に来てくださるはずですから」


 なるほど。そうやって今までも、説明のつかない怪我を手当してきたってわけか……


 ふと、生死に関わるような大怪我を負ったときに、その往診の医者だけで本当に大丈夫だろうかという思いが頭を過ぎったが、そんな事態に陥る可能性があることに思い至って身震いし、慌てて頭の片隅に追いやった。

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