不可侵条約

植原翠/『浅倉さん、怪異です!』発売

不可侵条約

 地球上で最も知能の高い生物は、ヒトだ。

 いつからそう錯覚していたのだろう。




 人類の文明が滅亡する。その瞬間に、私は今、立ち会っている。

 始まりは二千年代前半に世界的に広がった疫病による、各国で相次いだ経済破綻。貧困による人口減少、社会全体の質の低下が進む中、決め手となる事件が起こった。とある工場から、高濃度の化学物質が海に流出したのだ。影響は海水にのみに留まらず、森林や土壌を破壊し、人類は地球の全ての資源を失った。

 多くの人は飢えや病で死に絶え、生き残った人間は暴徒化している。外から罵声と悲鳴と窓ガラスの割れる音がした。私は争いに巻き込まれないよう、食糧を奪われないよう、自宅で息を潜めていた。

 倉本和弘、もはや呼ぶ人もいないが、これが私の名前だ。職業は大学教授、生物学者で動物行動学の研究をしている。否、「していた」。この破滅した社会の中では、学者の肩書などなんの意味もなさない。

 妻と娘はそれぞれ流行り病に殺された。残された私は、ただ息をして、時間が過ぎるのを待っている。電気が来なくなった室内を歩き、涼しい場所に隠した缶詰を開ける。

 と、背後からハ、ハ、と規則正しい息遣いが聞こえてきた。振り向くと、ふんわりした毛並みのシェルティが、舌を出して私に期待の眼差しを向けている。私は缶詰のプルタブから手を離し、その手を彼女の耳と耳の間に置いた。

「ライラ。待ってろ、君の分もあるよ」

 黒と明るい茶色の斑の体に、白い胸と鼻先、焦げ茶色の耳。シェットランドシープドッグのライラは、私たち家族の愛犬である。妻も娘も亡くした私だが、ひとりぼっちではない。ライラだけはこうして私とともに生きている。私はたったひとりの家族ライラと一緒に、世界の終焉を眺めながら、自らの死を待っているのだ。

 開けたツナ缶の半分を小皿に移し、ライラに差し出す。ライラは尻尾を振って、餌の匂いを嗅いでいる。

 人類が破滅に向かい始めた頃、私は職業柄、他の生命体がどうなっているか調査していた。もちろん、環境汚染によって海や森林の生き物は激減している。しかし奇妙なことに、死骸は全く見られなかった。

 カーテンの外をそろりと覗く。暴れる男の背景で、カラスが人の死体をつついている。灰色の空ではハトが群れを成し、瓦礫の上を野良猫が悠々と散歩する。数ヶ月前からは、野山から下りてきたクマやイノシシも見られるようになった。

 多くの人間を殺した疫病が蔓延しているが、人間以外の生き物たちには感染例がない。ライラにも感染らなかった。人類を除く生き物たちは、死んでいく人間を糧にして活き活きしているようですらある。

「環境を壊したのは、人間だもんな」

 私は、缶詰のツナを食べるライラに言った。

「人間はその罪で罰せられているのかもしれない」

 そのときだ。

「罰ではありませんよ。単なる因果応報です」

 突然、声が聞こえてきた。

「ヒトは自身でこの環境を作り、自らこの道に進んだのです。ヒト以外の生物があなた方を罰したわけではありません」

 声の主に心当たりはない。この建物の中には、私しかいないはずだ。いや、私と、ライラしか。

 私ははたと、目の前の愛犬に目をとめた。ライラはつぶらな瞳で真っ直ぐ、私を見つめている。

「人間と人間以外の間には、互いの社会に干渉しない"不可侵条約"があるのですよ、カズヒロ」

「……ライラ? 君が喋っているのか?」

 ばかな、犬が言葉を話すわけがない。だがなぜだろう、頭ではそう思っているはずなのに、これがライラの声であると、強制的に納得させられる感覚がある。

「もしかして私は、この環境の過度なストレスで頭がおかしくなったのだろうか。それとも、環境の変化に起因してライラの知能が向上して、言葉を喋るようになったとか……」

 ぶつぶつと呟く私を見上げ、ライラは黒い大きな目でまばたきをして、また語りかけてきた。

「カズヒロに原因があるのではありません。ましてワタシだけが変わったのでもありません。また、正確には、言葉を話しているのではありません。言語などという意思疎通に齟齬が発生しやすい原始的な手段でコミュニケーションを行う生物など、ヒト以外にいません」

 それからライラは、小首を傾げた。

「もっとも、今、ワタシはあなたにも理解できる言語を用いてあなたとのコミュニケーションを図っているので、カズヒロの言葉を借りて『喋っている』、その表現が分かりやすいのであれば、そう解釈してもらって構いません」

 なにが起きているのだろう。呆然とする僕を横目に、ライラはツナの欠片をひと口、舌先に乗せた。

「一歩外に出れば、ワタシ以外の生き物もこうしてヒトとの通信を試みていますよ。時代が時代なら『動物が喋った』とニュースになっていたでしょうが、このご時世、情報通信はもはや機能していませんから、自分自身で見聞きしないと情報が入ってこないのですよね」

 ああ、やはり私は頭がおかしくなったのだろう。犬が突然喋り出すなんて、ありえない。声帯や舌の造りも、知能も違う。

 ライラはすん、と鼻を鳴らした。

「『突然』ではありません。ヒトを除くワタシたち生物はみな、元からこうしてコミュニケーションを取り合っていました」

 声に出していないのに、ライラは私の頭の中を読み取ったようだった。

「ただし、ヒトを仲間外れにしていました。"不可侵条約"に基づいて、ヒトには伝わらない手段で通信していたのです」

「なんだって……?」

「あなたは動物の行動を研究していたでしょう、見て気づきませんか? ヒト以外の生物は、言語を用いなくても互いに意思の疎通を取っています」

 言われてみれば、生物たちは、同じ種の生物同士はもちろん、他の種の行動も感知する。身近な例では、ペットの犬と猫が意思の疎通を取り合っていたし、野生下でも同じようなことが起きた。

 いや、だからといって、人間にだけに伝わらない方法でコミュニケーションを取っていたというのは、些か信じがたい。そしてその方法とやらが、現在ライラが私に使っているこのテレパシーのようなものだというのなら、尚更信じられない。

 ライラの表情は変わらない。

「『分からない』ようですね、カズヒロ。無理もありません。ヒトは知能が低いから、理解できないでしょう。カズヒロは他の個体よりやや高い知能を持っていますが、それでも所詮はヒトですから」

「なにを言ってるんだ。人間より知能の高い生き物などいない」

 思わず反論する。ライラは耳を立て、目をぱちくりさせた。

「いつの頃からか、ヒトは他の生物をヒトより劣っていると決めつけました。だから仲間外れにされて、他の生き物の文明から置いていかれているのに。こんなに愚かな生き物は他にいません」

 ああ、きっと私はもうすぐ死ぬのだ。ライラが喋っているなどという幻聴が聞こえ、しかもその内容がこれだ。何十年も動物の研究をしていたのに、その全てを覆し否定するような妄想に取り憑かれている。私は死を目前にし、とうとう狂ってしまったのだ。

 しかし今更私個人が狂ったところで、世界はとっくに狂っている。どうせ狂ったのなら、たったひとりの家族であるライラと話ができるなら、それはそれで良い最期だ。

 私はひとつ、細く長いため息をついた。

「ならばライラ、教えてくれ。"不可侵条約"とやらは、なんなんだい」

「おや。やはりヒトはそれすらお忘れでしたか」

 ライラは皮肉っぽく言った。

「それはワタシたちの祖先が結んだ、何千年も前の約束です。ヒトと、ヒト以外の生物が、互いに互いの文化、社会を侵さないという条約です」

 ライラの尻尾が、埃を被った床を擽る。

「元来この星の秩序は、生命の循環によって持続していました。小さな生物を大きな生物が食べ、それをさらに大きな生物が食べ、それらの死骸を別の生き物が食べ、食べ残しはバクテリアが分解し、循環するのです。特定の種が増えすぎないよう、食物連鎖によって数を調整します」

 それは、生物の研究における基本中の基本だ。

「しかしながらヒトは、この循環を乱しました。安定して餌を得るため、畑や家畜を持つようになり、数が莫大に増えました。そして自身の死骸は灰になるまで焼いて、他の生物に食べさせない」

 そうだ。ヒトは他の生物に対して、知能が高く特別な存在であるから、種を保存するために食糧の確保を安定させた。

 ライラの瞳が私を見つめる。

「それは生物界で大きな問題となりました。他の生物だって同じことをしようと思えばできるけれど、循環型社会を崩さないためにやらなかったことです。ヒトという身勝手な生物は、自分たちの繁栄のために、法則を乱したのです」

 なんだって? 他の生物が同じことをできた? できたのに、環境を守るために、しなかった?

「やがてヒトとヒト以外の生物は、話し合いの場を設けました。それでも循環の破壊をやめないヒトに対し、結んだのがこの"不可侵条約"です」

 ライラの瞳に私の影が映っている。

「『ヒトが世界を支配し、この星の環境をヒトのためのものに作り変える代わりに、他の生物は一切その社会に干渉しない。他の生物は他の生物で、別の文明社会を構築し、その社会にヒトを取り込まない』――あなた方ヒトの祖先と、ワタシたちその他の祖先は、その約束を結びました」

 ああ、だから人間は人間の社会の中で暮らし、他の生き物の言葉が分からないのか。そして私たち人間が社会を構築する裏で、他の生物たちは環境に適した別の社会を作り、そして人間には侵せない領域で、独自のコミュニケーション手段を設けたというのか。

「あの約束以来、ヒトはヒトだけの社会を、その他の生物たちはその他の社会を築きました。世界は大きく分断されたのです」

 ライラがツナを頬張る。

「しかしヒトはやはり知能が低く愚かなためか、約束を反故にしました。生物たちの住環境を破壊して、家畜や愛玩用としてヒトの環境に拘束する。遺伝子を操作して新たな生物を生み出す。本来あるべきでない場所へ菌やウィルスを放つ……。そしてその末路がこの有様です」

 人間は私欲のために、循環する社会の法則を壊し、資源を食い潰し、星を壊滅に追いやった。

 これは罰でもなんでもない。因果応報だ……。

「ワタシたちは、ヒトがヒトの社会を興隆させ、衰退していく様を、観察して記録していました。ヒトは世界を支配したつもりでいたでしょうが、逆です。ワタシたちが、この星というケージの中でヒトを飼い、行動を研究していました。同じ過ちを犯さないためにも」

 ライラの濡れた鼻先が、私に向いている。私はふうと息をつき、項垂れた。

「それじゃあ、この環境破壊でさらに、他の生物たちの暮らしが破壊されたわけだね」

「ご安心を。ヒト以外の生物たちはみな、新たな星へ引っ越し済みです」

「えっ? 安全な場所があるのか?」

「もちろん。ヒトを除いた高知能な生物たちは、ヒトが星を壊すことなど百年以上も前から想定済みです。新しい場所で暮らす準備は、とうの昔から済ませています」

 そうか、だから海や森林の生き物が減っているのに、死骸が見られなかったのか。彼らは死んだのではなく、移動したのだ。

「今、地球に残っているのは、ワタシのように終末を見届けようとする者たちです。主に肉食、雑食の生物です。新天地に引っ越す前に、栄養豊富なヒトの死骸を食べておこうという考えですね」

 ライラの耳がぴくぴくと震える。私は目を伏せ、手つかずのツナ缶を一瞥した。

「新しい、安全な場所、か……」

 "不可侵条約"。それによって他の生物の社会と遮断されている人類は、この新しい場所へは連れて行ってはもらえないのだろう。他の生物たちの新しい社会に、我々人類は「不可侵」の身である。

 俯く私に、ライラが投げかける。

「さてカズヒロ。ワタシ、あなたという個体を結構気に入っています。あなたは愚かなりに生物たちを理解しようとしていましたし、ワタシを愛しているのも伝わってきました」

「そうか……」

「ええ。ですので、新天地へあなたを連れていけないか、他の生物たちに交渉しました。ヒトは絶滅しますから、少しだけ残せば貴重な資料になりますし、一頭なら繁殖もしない」

 そこにいるのは、私の愛犬ライラのはずだ。でも今は、自分の上位存在、私の生殺与奪を握る存在として、この目に映る。

「私を……助けてくれるのか?」

 飼い慣らしていたはずの犬に命乞いをする私は、なんと惨めだろう。

 そんな私を、ライラはにべもなく一蹴する。

「できればそうしたいと考えましたが、許可が下りませんでした。こんな悪趣味で気持ちが悪く、知能のない生き物は、一頭たりとも保存すべきでないと」

 ヒトと他の生物たちが、太古の昔に結んだ約束。侵すことのできない、大きく厚い壁を隔てたふたつの領域。

 人間はとっくに忘れたその約束を、私たちを除く全ての生物たちは、忠実に守る。

「なにせあの日の約束――"不可侵条約"がありますから。ワタシたちの新しい社会にヒトを取り込むことは、この約束に反します」

「そうか。ありがとうライラ、最期に面白い話を聞かせてくれて。生物学者として、こんなに興味深い話はないよ。君たちの新しい安寧の社会が、平和であるよう望む」


 地球上で最も知能の高い生物は、ヒトだ。

 いつからそう錯覚していたのだろう。

 他の生物に見捨てられた我々は、使い潰した星とともに、循環しない世界の終わりを待つのだった。

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