第73話 タヌキとキツネの化かし合い②
それはもう満面の笑みで僕は言葉を返した。
室内は凍り付き、それまでの安穏とした空気が一変する。
「断る、だと?」
「はい、お断りいたします」
「あ、貴方、一体何を考えているんですか! 普通許されることではないんですよ⁉ 娘と結婚し、ましてや浮気相手との同居も認めるなんて、私達がどれほどの譲歩をしたのか理解しているのですか⁉」
青筋浮かべて叫ぶ
二人の温度差を感じながらも、僕は変わらぬ態度で臨む。
「譲歩? そんなのしていないですよね? 僕は最初から最後まで、琴子さんと祥子さん、二人と一緒に生きて行くと宣言しています。琴子さんと籍を入れたその瞬間に、祥子さんとの間に明確な差が生まれてしまうんですよ。そんなのは、僕が望む生活とはほど遠い」
「夢物語ばかり言うんじゃありません! そんなのが許されるとでも思っているのですか!」
「誰の許しが必要なのですか? 失礼ですが、お義母さんの言い方は、お二方以外の誰かを指している様に聞こえますね」
「そ、それは、世間であり、司法に基づいて」
「そんなのは議題に上がってすらいません、僕が欲しい許しは貴方たちお二人だけです」
堰を切るように叫んでいた富木菟さんが、肩を上下させて呼気荒くするなか、海縁さんだけは冷ややかな目で僕を見続けている。
なら、攻勢を続けさせてもらおう。
切るべき札は、まだまだあるのだから。
「先程、お義父さんは凪さんがやりたい事があるとおっしゃっておりましたが、それは一体なんでしょうか?」
「また貴方はお義父さんって――」
叫ぼうとした富木菟さんを、海縁さんが手で制する。
「凪がしたい事と、いま高野崎君が望むもの、何の関係があるのかな?」
「大いにあります、何故凪さんを跡継ぎにしないのですか? ……いえ、何故、凪さんの旦那様を跡継ぎにしないのですか?」
ぴくっと、海縁さんの眉が反応する。
水を打ったような静けさ、まるで時が止まってしまったかのような静寂。
それを崩したのも、やはり富木菟さんだった。
「な、なにを言っているのですか貴方は!」
「存じ上げませんか? 貴女が産んだ子なんですよね?」
僕が何を言いたいのかなんて、言葉にしなくても分かるだろうに。
「凪さんは二十八年間も女である事を隠して生きてきました。富木菟さんの命に従って、従順に自分を殺して生きてきたんです。それは単に富木菟さんを守るためだけじゃない、物心ついた時から側にいた、妹である琴子さんを守る為だ」
歯ぎしりが聞こえる程に歯を食いしばる富木菟さんだけど。
そんなのがどうでも良くなる程に、僕は怒りを感じていた。
「海縁さん、知っていましたか? 自分では跡継ぎになれない凪さんは、琴子さんに良い人が見つかるよう、陰ながらに全力を尽くしていたことを。そして琴子さんに良い人が見つかった際には、世継ぎに邪魔になるであろう自分を……凪さんが自殺しようとしていたことをッ!」
「……凪が、自殺?」
「アンタ達が出した提案は、二十八年間も自分を殺していた凪さんにトドメを刺す提案だッ! 僕は琴子さんを悲しませる事も、凪さんを悲しませる事もしたくない! もちろん祥子さんも、僕に関わる全ての人に悲しんで欲しくなんかないんだッッ!」
気づけば叫んでいた僕は、海縁さんの目を見て、ふと我に返った。
……涙? なぜ、海縁さんの目に涙があるんだ。
「場を荒らしてしまい申し訳ない……ですが、僕は自分を変えるつもりも、曲げるつもりもありません。祥子さんと琴子さんと共に生活することも、そして凪さんが古河水産の跡継ぎを見つけ、その人が全てを継ぐこともです」
一番正しい形、凪さんが自分の人生を見つけ出す最良の形。
それを認められない人達ではないはずだ、なぜならこの人達も人の親なのだから。
自分の子供の幸せを望まない親がどこにいるよ、そんなのは、空想の世界だけでいい。
「大体、僕みたいな人間が上に立ってしまったら、コンプライアンスも滅茶苦茶になってしまいますよ? 日本国憲法を無視して、三人で一緒になろうって考えてる男なんですからね」
完全なる暴露、最後こそおどけて見せたけど、富木菟さんの表情は青ざめていくばかりだ。
二十八年間も騙し続けた、騙し続けていると思っていた嘘が、暴かれてしまったのだから。
「富木菟」
「わ、私は存じあげません」
「この期に及んで何を――」
今度は僕が制される番らしい。
海縁さんは目端に残る涙を拭い取り、自身の妻である富木菟さんへと向き直す。
「富木菟、実はな、もうとうの昔に気付いているのだよ」
「……」
「凪はあれだけの美人なんだ、俺だけじゃない、重だって気付いていたぞ? ただ、全てを無かった事にするには時間が経ち過ぎていた。そもそも俺の提案が悪かったんだ、先に男子が生まれた方を
茜乃さんの名が海縁さんの口から零れると、富木菟さんは足を崩し茫然とした。
だらんと下げた手の甲が畳に付き、目からは光を失い、どこを見るでもなく何かを呟く。
「富木菟」
そんな富木菟さんの肩を支えようと、海縁さんは近寄る。
だけど、富木菟さんはその抱擁に手を出し、拒否を示した。
「私、私の、二十年以上の苦しみって、一体なんだったの」
「すまない、全部俺が」
「なんで、なんでこんな事になっているの」
「富木菟」
力強く海縁さんが富木菟さんの肩を掴むと、彼女の虚ろな目が海縁さんを捉える。
「何で私だけが責められないといけないの? だって、茜乃に男の子が生まれちゃったら、あの子が古河家の正妻になってしまったら、何も知らないのよ? 茜乃は生まれも育ちも一般家庭で育ってきて、そんな子に務まると思う? 古河家の正妻として、上流階級の妻として、貴方を支える事が出来たと思う? だから私が全部背負うって決めたの。だって、茜乃が苦しむのが分かってたから。私、茜乃が悲しむ姿も、そのせいで貴方が苦しむ姿も見たくなかったの、だから」
祥子さんと琴子さんが言っていた、富木菟お義母さんはそんなに甘くないという言葉。
この言葉の裏側にはあるものは、上流階級の妻としての役目を果たすべく、誰よりも自分を殺していたという、富木菟さんの信念とも呼べる想いだ。
そして、茜乃さんの評価も間違いではなかったんだ。
誰よりも海縁さんと茜乃さんを愛し、全員が傷付かない道を選んだが故の優しい嘘。
それに巻き込まれた凪さんの苦しみを、ずっと富木菟さんも気にかけていたに違いない。
「私は悪くない、私は悪くないの」
「富木菟、誰もお前を責めてなんていない。高野崎君、すまないが一旦外して貰えないか」
錯乱してしまった富木菟さんを抱きかかえる海縁さん。
海縁さんの今の姿は、選択を誤ってしまった未来の僕だ。
二人の提案を受け入れ、琴子さんと結婚する未来を選んだ場合。
愛する二人に軋轢を生ませてしまった責任を、僕はどう取ればいい。
「かしこまりました、ですが最後に一言だけ」
「なんだ、手短に頼む」
「茜乃さんからの伝言です」
「茜乃からの伝言?」
一瞬の静寂。
海縁さんと富木菟さん、二人の想い人からの言葉。
「もう全部許しているから、たまには顔を見せなさい……以上です」
僕の言葉を聞いた瞬間、何かの糸が切れた様に、富木菟さんは泣き叫び始める。
「あ、ああ、ああああッ、あああああああああああああああああああああッッッ! 私、わだじは、茜乃に、茜乃に、ああああああぁ! あああああああああああああああああッッッ! なんてこどを、凪も、みんな、私のせいで、ああぁあああああああああああああああッッ!!!」
その様は、周囲にいた黒服が慌てて室内に入ってきてしまうほどの嗚咽だった。
頭を抱え、全力で泣きはらす富木菟さんを、海縁さんは「ごめん」と叫び、抱き締め続ける。
この場にいては、きっと僕は邪魔になってしまう。
富木菟さんの気持ちが落ち着くまでは、さっきの部屋で待たさせてもらおうかな。
でも、何もかもの秘密を暴いてしまった僕のことを、お義父さんは許してくれるのだろうか?
もしかしたら、明日の今頃は太平洋の真ん中に浮いてたりして。
――
次話「最終話 幸せへと続く日々」
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