第72話 タヌキとキツネの化かし合い①

 琴子さんと凪さんのお父さん、古河海縁かいえん。 

 多忙を極める人が僕に会いたいという理由なんか、一つしかないだろう。

 大富豪であっても、家族の為には時間を作る。

 それは父親としての正しい姿であり、過去の僕が出来なかったことだ。


「後ろから見ても大丈夫かな?」

「うん、髪形も服装も、全部大丈夫です」

「父上は僅かな無礼も許さない方です、言葉選びは慎重にお願いします」

「本当なら私も一緒にその場に行きたかったのだが、すまないな高野崎」


 海縁さんは僕に会うと決めた時に、一つのお願いをしてきたのだと、凪さんは言う。

 古河家には僕一人で来ること、手土産も何もいらない、その身一つで来いとのことだ。

 不義理をしているのは僕の方、断る事なんか出来ないし、するつもりもない。

 

「凪さんありがとう、その気持ちだけで十分です」

「私は琴子さん達のお父様がどういった方か知りませんが、大丈夫ですよ。ウチの両親も茜乃さんも、みんな俊介さんの味方ですから。ダメだと思ったら逃げて来ちゃっても問題ないですからね」


 逃げ恥って言葉もある、祥子さんの微笑みに、僕も笑顔で返す。

 ありがたいことだ、法からはみ出た僕たちなのに、沢山の味方がいてくれる。

 でも、迷惑をかける訳にはいかないんだ、僕達の問題は僕達だけで片付けないと。


「俊介さん、もし父が認めなくても、私、諦めませんから。俊介さんから教わった営業テクニックと同じです。一の矢、二の矢、三の矢まで用意して、強敵と戦えって」

「そうだね、ダメで元々の話し合いなんだ。それにしても琴子さん、良く覚えてたね」

「俊介さんが教えてくれた事は、全部メモしてありますから。ご武運をお祈りしています」


 祥子さんと琴子さん、凪さんの励ましを受けて戦地へと行こうとした時、リビングで詩さんの膝の上に座っていた菜穂が、ぱたぱたと駆け寄ってきて僕の足にしがみついた。


「菜穂、どうしたの?」

「なほね、なほ、みんなだいすき、なの」

「……そうだね、みんな優しいからね」

「だからね、パパ、ちゃんとかえってきてね」


 両手を伸ばした菜穂を抱きかかえると、小さいながらに僕のことを力強く抱き締め返す。

 雰囲気の違いを感じ取れる程に、菜穂も成長しているんだな。

 来月には五歳の誕生日を迎えるんだ、今いる皆で盛大に祝ってあげないと。


「高野崎さん」

「詩さん……毎日菜穂の面倒みてくれて、ありがとうね」

「いえ、別に、詩が出来ることなんてそれぐらいしかないですから。でも、頑張ってきてくださいね。詩、今のこの家が大好きですから」


 本当、僕は恵まれているよ。

 優しい女性たちに囲まれて、こんなにも幸せを感じる事が出来るのだから。

 詩さんの頭をぽんぽんとして、抱っこしていた菜穂を彼女に預ける。


「じゃ、下で重さん待たせてるから。……行ってくる」


 嫌味なくらい太陽が路面を焼き尽くす、山の日でもある八月十日。

 僕は団地に似つかわしくない高級車へと、一人乗り込む。

 

「重さん、お待たせしました」

「いえ、いくらでもお待ちしますよ。別れの挨拶は大丈夫ですか?」

「そんな、今生の別れって訳じゃないんですから。ほどほどで大丈夫です」

「……そうですよね。では、向かいますよ」

「ええ、宜しくお願いします」


 段々と遠ざかっていく楓原団地に想い馳せながら、大きく深呼吸をして心を落ち着かせる。

 嫌な思い出しかなかったはずのあの家が、今では幸せに満ち溢れているんだ。 

 絶対に譲れない、なんとしても認めさせる。

 今日はダメでも明日、明日がダメでも明後日、そう、認めてもらうまで何度でもだ。



「到着しました、ここから先は別の者が案内しますので、私はここまでになります」


 外を見れば、複数の黒服が門扉から玄関まで、至るところに配置されているじゃないか。

 以前とは警戒レベルが段違いだ、ここまでするものなのか。


「重さん、色々とありがとうございました。また帰りも宜しくお願いしますね」

「ええ、車磨いて待ってますよ」


 白い歯を見せ、快活な笑顔で僕を送り出してくれる重さん。

 貴方がいなかったら、茜乃さんの真実まで辿り着けませんでした。

 本当に感謝しています……そして、その期待には是が非でも応えさせて頂きます。


「高野崎様、入門の前に荷物検査とボディチェックをお願いします」

 

 空港の手荷物検査みたいだ。

 両手を上げた僕の身体に沿って、黒服が機械を走らせる。


「そうだ、膝の上にプレートが入っているから、金属探知機が反応してしまうかもしれない」

「かしこまりました、情報提供ありがとうございます」


 先方の申し出通り、着の身着のまま、単身乗り込んできたんだ。

 鬼が出るか蛇が出るか、なぜだか僕の闘争本能とも呼べる心に火が灯っているのが分かる。

 大本命の営業に向かった時を思い出すな、あの時もこんな感じだった。


 自分の出来ること全てを懸けて挑むこの感覚。

 第六感とも呼べるこの感覚が、僕に教えてくれる。

 この先にいるのは、まごうことなき強敵なのだと。


「御当主様の準備がお済みになるまで、こちらにてお待ち頂くよう、宜しくお願いします」


 以前、凪さんと話し合った部屋。

 一か月も経過していないのに、なぜだか既に懐かしいな。

 異様なまでに静かな時間、精神統一はもう十分すぎるほどにしてきた。


 ゆったりとした椅子に腰かけると、お尻のポケットに何かの感触が。

 取り出して中を見ると、僕の硬くなっていた表情がくしゃりと崩れる。


「はは、いつの間にこんなの入れたんだか」


 折り畳まれた手紙、そこには祥子さんと琴子さんの字で「大好き!」って書いてあって。

 思わず口角が上がってしまうよ、早く家に帰りたくなっちゃったな。


「お待たせしました、御当主、古河海縁様の準備が整いました」

「ありがとう、これ、大事なものだから、預かっておいてくれないか?」

「は、丁重に預からさせて頂きます」


 お父さまの前で娘からのラブレターなんか見せたら叱られそうだからな。

 小さな手紙だけど、僕の生涯の宝物だから、丁重に頼むよ。

 ……さて、ご尊顔賜りますか。本丸、古河海緑殿。



 黒服に囲まれながら長い廊下を歩き、綺麗な庭園を横目にしながら進むこと数分。

 一つの襖の前に到着すると、黒服たちはお辞儀をし、その場を一斉に離れる。

 黄金の襖、鳳凰が描かれた金屏風な作りの襖が、当主の座す部屋か。


「入っても良いぞ」


 室内から聞こえる低い声、これが琴子さんと凪さんの御父上の声か。

 襖一つ挟んでいるのに、心臓を鷲掴みするような覇気を感じる。


 通常、正座して敷居を踏まないようにするのがマナーだけど、今の僕にはそれが出来ない。

 まだ治療中、逆にそれが下手なマナー違反を突っ込まれない、防護策としても役立ちそうだ。 


「失礼します」


 立ったままで申し訳ないが、深くお辞儀をしてから室内へと入室する。

 大きい部屋だ、かといって無駄はなく、静謐な空間を作り出すのに丁度いい八畳間。


 正面、床の間の前に座す男性、白く染まった髪と髭が、まるで獅子のたてがみを彷彿とさせる。

 あぐらをかいて座り、手は膝に置き、ぎょろっとした目が僕を見定める。

 着用しているのは甚兵衛か? 休日の空白の時間を利用して、僕に会うと決めた感じか。


 それにしても筋肉が凄い、膂力りょりょくだけで人を千切れそうな感じがする。

 別に殴り合いをしに来た訳じゃないけど、多分、僕は一撃なのだろうな。


「どうした? 足を痛めているとは聞いているが、座れなくはあるまい?」

「すいません、お義父様の迫力に気圧されておりました」

「まだ貴方を認めた訳じゃありません、そんなに気軽にお義父様なんて言葉を使うものではありませんよ」


 出口を背にして右側、上座二番席に座するのが、お義母様である古河富木菟とみつぐさんか。

 こちらは完全なる正装だ、和服に夜会やかい巻き、正座した姿が嘘みたいに美しく見える。


「失礼しました、まずはこの場にお招きいただき、誠にありがとうございます。僕の名は」

「高野崎俊介、二十八歳、独身、四歳になる娘がおり、名を菜穂という。相違ないか?」

「……ええ、相違ございません」


 凪さんが全て調べていたのだから、このくらいの情報を両親が知らないはずがない。

 全て把握されていると思って接した方がいいな。


「それで、高野崎君は琴子ともう一人の同居人である向井祥子、どちらと結婚するつもりなのかな?」

「そうですね、僕はどちらとも結婚するつもりはありません」

「……ほう? 事前に聞いていた話とは違うな」

「いえ、違わないと思いますよ。この国にいる以上、二人と結婚は認められませんから。かといって海外逃亡するつもりもございません。僕達は、今のまま生活を続けていけたらと思います」


 沈黙。


 海縁さんの表情は変わらず、怒っている様な、それともニヤついているような。

 重い空気のなか発言をしたのは、横に座る富木菟さんだった。

 

「一体何をふざけた事を、ウチの琴子を独身のまま、貴方の内縁の妻という形にして手元に置いておきたいと言うのですか? 大体調べた限りでは、貴方は稼ぎも少なくなっているのでしょう? 何もなくとも二家族全員養えるぐらいの稼ぎを得てから大口は叩きなさい。少なくとも、アタシは貴方の事を認めませんからね」

「富木菟、いま高野崎君は俺と話をしてるんだ、勝手に話を進めるな。大体、そんな程度の屁理屈なら、既に何回も聞いているぞって顔を、彼はしているぞ?」


 せせら笑うシニカルな笑みを浮かべた海縁さんは、頬杖をついて僕をみやる。

 これまで組み伏せてきた様な内容では俺は納得しないぞ、そう言っているのだろう。

 

「おっしゃる通りですね、その手の話しは祥子さんのお義母様からも頂きました。しかし、そのお義母さんを説き伏せたのは誰でもない、琴子さんなんですよ」

「琴子が……? あの子、私に相談もしないで勝手なことを」


 富木菟さんがひとりごちるのを尻目に、僕は海縁さんへと言葉を繋げる。

 

「お恥ずかしながら、御存じの通り僕は一度離婚しています。娘の菜穂にとっては実の母親との永遠の別れ。そして今現在、菜穂の母親は祥子さんと琴子さんなんです。琴子さんは菜穂に、母親との別れを二度も味合わせたくないと涙してくれました」

「ならば、琴子と結婚すれば良いではないか。祥子という女と一緒にいる理由はあるまい?」

「今さっきお伝えしましたが? 祥子さんも菜穂からしたら母親なんです。僕達は菜穂を中心に物事を考え、そして愛を深めてきました。今更僕たち三人が離れるなんて事は、微塵も考える事は出来ません」


 子供を盾にした卑怯な考え方だとは、僕も理解している。

 だけど、それが一番大事なことだし、それによって僕達は変わってしまったんだ。

 国の宝である子供を守らないで、一体何を守る。

 最優先に考えるべきは菜穂であり、そしてそれを守ってくれる彼女達だ。 

 

「では、条件を付けようじゃないか」

「条件、ですか?」

「高野崎君が琴子と結婚するのであれば、古河水産の跡継ぎとして認めてやろう」


 古河水産の跡継ぎ? だってそれは現状、凪さんという事になっているんじゃないのか?

 突然の申し出に一番驚いたのは、誰でもない富木菟さんだ。


「な、海縁、貴方なにを言うのですか!」

「まぁいいではないか、聞けば高野崎君は、それなりの器量に経歴を持っているらしいじゃないか。凪には凪でやりたい事があると言っているしな、ならば、血縁になりえるこの男に任せるのも一興ではないか?」

「そ、そうかもしれませんが、ですが……」


 富木菟さんは不満を露わにするも、旦那である海縁さんには勝てないのだろう。

 何か言いたげな表情をしているも、それ以上は食って掛からない様子だ。


「それに富木菟、俺は高野崎君を気に入り始めているんだよ。俺を前にして物怖じしない彼の性格や度胸、卑屈にならない様は、俺の想像にはなかった。初手土下座から始まり、終始言い訳で終わると思っていたところを……くっくっくっ、なかなか楽しまさせてもらえて、気分が良くなってしまうな」

「……貴方がそう言うのなら、私はもう何も口出ししません。良かったですね、高野崎さんとやら。ウチの海縁が認めるなんて、そうそうない事なんですよ?」


 手の平返しもイイとこだな。

 何もなければそのまま「良かった」で終わりそうな事の運び方だ。


 ……もしかして海縁さん、凪さんの秘密を知っているんじゃないのか? 

 そう考えると、富木菟さんの驚きもわざとらしく聞こえてくる。


 向こうからしても僕という存在は、とても都合のいい存在なんだ。

 凪さんの秘密を暴露するには、かなりのリスクが伴う。

 事情も事情だ、富木菟さんだってタダじゃ済まない。 

 ならば次女の婚約者へと引き継がせた方が、何もかもがノーリスクで事が進む。


「高野崎君、悪い話ではないと思うのだが? 琴子と結婚し古河水産を継ぐ、無論、その向井祥子という女を共に住まわせてやる事も認めよう。富豪の間では正室側室はそう珍しい話ではない。なんなら家も工面しようじゃないか、今は狭い団地住まいなのだろう? 楓原市から出たくないというのであれば、近くに新居を設けてやる。……どうだ?」


 嫁入り道具に家から会社まで、何から何まで用意するっていうのか。

 普通に考えたら大歓迎を喜んで「はいおしまい」な話なんだけど。


 逆を言えば、それだけ跡取り問題がヤバイ状況だって事でもある。


 だから、普通あり得ない好条件を用意して、僕にその問題を解決させたいんだ。

 凪さんの正体を知り、そして僕という人間を知った。

 次女の旦那に家業を継がせることも、僕なら水に流すように解決できると。


「古河水産ももう十代目になる。生え抜きだけの組織ではいつかは淀み、腐ってしまう。高野崎君、君が古河水産の当主となり新しい風となってくれれば、俺としてはそれが一番最良の結果だと、そう思うんだが?」


 確かに最良だ、涎が出てしまう程にね。

 だけど……それじゃダメなんだ。


「とてもありがたい申し出ですが、お断りいたします」


――

次話「タヌキとキツネの化かし合い②」

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