第67話 自慢の姉
午後六時、まだ琴子さんも帰宅していないし、どうやら詩さんも家にはいない。
祥子さんは幼稚園で勤務中で、菜穂は預かり保育で楽しく遊んでいるであろうこの時間。
僕は凪さんと一緒に、自宅である楓原団地へと足を運んだ
松葉杖をつきながらだからか、一日外出は身体に堪える。
玄関を越えてリビングに到着すると、そのまま疲れ果てて動きたくなくなる。
家って本当に安心するし、癒されるな……。
って、そんなのんびりしてる場合じゃなかった。
今もなおフォーマルな服装の凪さんを改造しないと。
「凪さん、北側の部屋がありますから、そこで先程購入した服に着替えて下さい」
「わ、分かった。だが、高野崎、本当に大丈夫なのか?」
「何がですか」
「妹の為にも、その、良くないと思うんだが」
「何が良くないのですか? もうここまで来たんですから、引き返せませんよ?」
「だ、だがな、しかし、心の準備というものが」
「準備なんかいくらしたって無駄な時は無駄です」
玄関から廊下に入った所でしどろもどろしていた凪さんを、無理やりに四畳半の部屋に押し込む。
着替えを見る訳にはいかないからな……僕の方も、これからは普段着も意識しないとかな。
ランニングシャツとハーフパンツじゃ、凪さんに怒られそうだ。
★
「ど、どうだろうか」
「……」
「や、やっぱり変か! 元の服の方がいいよな!」
「いえ! あまりの綺麗さに見惚れてしまいました、最高に似合ってると思います!」
夏であっても露出はしたくないという凪さんの要望に応えた服装は、薄い長袖ロゴTシャツにメッシュを重ねた感じと、下はピンク色のワイドパンツに白のベルトといった、綺麗と可愛いが合わさった感じの服装をチョイスしていたのだけど。
こんなにも綺麗になるとは思わなかったというのが、正直なところだ。
一瞬で垢抜けちゃったんじゃないのか? どこからどう見ても女優並みに綺麗だぞ。
「あ、でも、髪の毛をもうちょっとちゃんとしましょうか。凪さん癖のある感じですから、試しに真っすぐに伸ばしてみますか?」
「そ、そうか? そんな事が出来るのか高野崎は」
「琴子さんや祥子さんの見様見真似ですけどね」
「それは凄いな……では、頼む」
意外と正直な凪さん。
正座したまま僕の方に背中を見せてしまう辺り、無防備とも言えるんだよな。
でも、変なことはしない、教わった通りに髪を整えよう。
凪さんの髪は、しっかりと伸ばせば鎖骨くらいまであるセミロングだ。
クセが少しあって、ちょっと伸ばしただけじゃ直ぐに波打ってしまう。
凪さん曰く、水産業の修行として海に出てたって言ってたから、日焼けしちゃったって感じかな? なら、保湿剤とか使えばそれなりになりそうなものだけど。えっと、祥子さんが普段使ってるミストを使えば……あ、ほら、綺麗なストレートだ。
「さすがにお化粧とかは分からないので、それは祥子さんか琴子さんから教わって下さいね」
「う、うむ、そうだな。……なぁ、高野崎」
「なんですか?」
「琴子は……妹は、私のことを受け入れてくれるのだろうか? 二十八年間も兄として生きてきた私のことを……き、気持ち悪いとか、そんな風に思いはしないのだろうか?」
そんなことを心配しているのか。
でも、凪さんからしたら人生を懸けた悩みなのだろう。
陰ながら妹を全力で応援してしまう可愛げのある姉を、誰が気持ち悪がるもんか。
「ほら、鏡見て下さいよ」
「え――――、あ」
「こんなにも綺麗な凪さんを、琴子さんが気持ち悪いって言うと思いますか? もっと自分の妹を信じて下さい。貴女が信じる琴子さんは、そんな人じゃないと思いますよ」
普段琴子さんが使用している折り畳みの鏡に映る自分を見て、凪さんは信じられないといった感じで、長く落とす様な髪をゆっくりと手櫛で梳き始めた。こうして見ると、琴子さんのお姉さんなんだなって、何となく分かる気がする。
耳とか、眉毛とか、頬の辺りとか、顔のパーツがどことなく似ているんだ。
目だけは違うけどね、これはお義父さんかお義母さん似なんだろうな。
★
時刻は午後六時半を迎える。
玄関のドアノブを勢いよく捻って、元気はつらつな声でリビングへと駆けてくる愛娘。
「パパただいまー! なほねー! きょうようちえんで……」
菜穂、硬直。
家に帰ってきて知らない女の人がいたら、それは固まるよね。
戸惑いを見せていた菜穂だったけど、とたとたと歩き始め、リビングで座っている僕の耳に手を当てる。
「ぱぱ、あたらしいママ?」
うん、違うからね。
それだけは違うからね。
「俊介さん只今帰りました、お昼の話なんですけど、復職はどうやら……」
琴子さんも固まる。
けれども慣れたものなのだろう、荷物を脇に置き、会釈と共に微笑んだ。
「私、高野崎俊介の妹の琴子と申します、日ごろは幼稚園でお世話に…………あれ?」
琴子さん、違和感に気付いたのかな?
ニマニマしながら眺めていると、凪さんも「ど、どうも」と会釈をした。
姉妹で会釈って、随分と他人行儀だなと、内心爆笑だ。
「……え、ウソ、凪お兄ちゃん。……え、お兄ちゃんどうしてここにって、え!? その胸どうしたの!? お兄ちゃん、お姉ちゃんに、え⁉ ちょ、ちょっと待って、え⁉ それ本物!?」
さすがは琴子さんだ、ちょっとの観察で凪さんだと見抜いたらしい。
何だかんだで十年以上一緒に生きてきた姉妹なんだから、そこは当然というべきか。
荷物もそのままに凪さんに駆け寄ると、琴子さん、問答無用で凪さんの胸を揉み始める。
結構な勢いだったので、僕は思わず菜穂の目を隠した。
「も、揉むなよ、急に」
「え、本物だ……え、嘘、下は?」
「だ、ダメだぞ!? 今は絶対に見せないからな!?」
「ちょ、ちょっと、大事なことだから、見せて」
「大事なことだけど、大事な場所でもあるんだよ!」
「そんなの分かってるけど……あ、ない」
そりゃないだろうね、あったら僕も驚きだ。
「でも、え、ちょっと待って、頭の整理が追い付かない。でも、凪お兄ちゃん、なんだよね?」
「……そう、だな」
「じゃあ、どうして今まで男のフリをしてきたの? 女だったのなら、もっと早く言ってくれれば良かったのに。私、全然気づかなかったんだよ? お姉ちゃんだったのなら、もっといっぱい、沢山相談したい事とかあったのに……なんで、今になって」
兄妹であっても、性別の壁はあるんだろうな。
人間関係で悩んでいた琴子さんには、姉という相談相手が本当に欲しかったのだろう。
けれど、悩んでいたのは凪さんも一緒だ。
家柄に縛られて自由に生きられなかった彼女の事を、誰が責める事が出来よう。
「琴子、すまなかった」
「……」
「高野崎、今日はここまでにしておく。妹の顔も見れたし、無事カミングアウトする事も出来たしな。いきなりの事で本当に驚かせてしまった事だと思う。でもな琴子、これが真実なんだ。私は、生まれてからずっと女である事を隠して生きてきた、そうしないとダメだったんだよ」
何十年間もの認識が、いきなり変わってしまったんだ。
それを受け入れろと言われても、やっぱり時間が必要になってしまうもの。
「……待って」
けれど、立ち上がり去ろうとした凪さんの手を、琴子さんは俯いたまま握り締める。
「どこに行こうとしているの」
「どこって、家に帰るだけだ」
「家に帰って、また男として生きるの?」
「そうでないと、流石に父上に打ち明ける訳にもいかないだろう?」
「なんで? お姉ちゃんがお姉ちゃんとして生きられないのなら、家に帰る必要なんてない」
全てを壊そうとしている僕達は、普通じゃないんだ。
間違いなく感化されてしまったんだろうね、琴子さんは。
「お姉ちゃんはここで生きるの。私と一緒に」
「琴子、お前」
「そして、お姉ちゃんも良い人を見つけるんだよ。そうじゃなきゃ、お姉ちゃんが可哀想すぎる。こんなに綺麗なのに……私、色んな人に自慢したかったよ、私のお姉ちゃんは、こんなに素敵なんだって」
琴子さんの目に溜まった涙は、姉を想ってのことだったのか。
誰よりも妹想いの姉に、誰よりも姉想いの妹。
僕の入る隙間なんて、これっぽっちも無かったって事だな。
「……高野崎」
「ん」
「やっぱり、厄介になるやもしれん」
「そうですね、きっと、それがいい」
二人して瞳に涙浮かべながら抱き締めあっているんだ。
こんなにも美しい姉妹が不幸になる未来なんて、あってはならない。
さて、これからが本番かな。
古河家のご両親……どうやって崩そうかな。
――
次話「狭い家だと温泉が恋しい①」
※引き続き本日中に投稿します。
18時頃を予定しますので、宜しくお願いします。
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