第66話 女性が女性らしく生きれない世界なぞ、こっちから願い下げだ。
抱きしめた感覚、首筋から香る女性特有の香り、開いてしまった胸元から見えるそれは、間違いなく女性のそれだ。改めて凪さんを見ると、長い睫毛に柔らかくも繊細な指先、手入れこそしていないのだろうけど、男と違うのは一目瞭然。
僕の抱擁を解き、凪さんは身なりを整えてからソファに座り直す。
女性と分かってから見直すと、腰回りやお尻が、確かに男性とは違う。
「あまりジロジロ見るな。分かっただろう、私が古河家を継げない理由が」
「……いえ、別に、女性であっても継げば良いのでは?」
「そ、そんな簡単に事が済むはずがないだろうが!」
聞けば、ドラマとかでよくある話だ。
代々長男が家督を継ぐ家に生まれたのは、残念ながら女児だった。
このままでは母子共々離縁され今の生活を終われてしまう。
それを恐れた凪さんの母親が女である事を隠し、そのまま育て上げてしまったと。
時代錯誤はなはだしいな、男女平等が基本の令和の世で、男尊女卑とは。
「しかし、現に私は男として育て上げられてしまった。こんな私が男を好きになる事も、男に好かれる事も金輪際ないと言えよう。女として育てられた琴子なら、きっと素敵な殿方を見つけ出し、古河水産を継いでくれるはずだと……そう、信じていたのに」
「凪さんも見つければいいじゃないですか、素敵な殿方を」
勝手な事を言うなと、凪さんはそっぽを向いたけれども。
んー、ちゃんと見ると、かなりの美人さんだと思うけどな。
「それに、僕に家督がどうとか、家を継ぐのは長男だけだとか、そんな考えが通用すると思いますか? 日本国憲法を無視して、三人で一緒になろうって考えてる男ですよ?」
「破天荒が過ぎるな」
「誉め言葉として受け取ります」
だけど、どうあがいても現状、僕たちが結婚する事は出来ない。
重婚は罪だ、刑法にしっかりと明記されているのだから、変えようがない。
だから琴子さんと籍を入れる事は出来ない……あ、そうか。
「凪さんは、僕が琴子さんと籍を入れられないから、破談させようとしたんですね?」
ぷいっとそっぽを向いていた凪さんだが、額に手を当て項垂れる様にし、ため息と共にこちらを向いてくれた。
「……ああ、そうだよ。琴子の相手は継ぐ者じゃないといけないんだ。そうでないと九代目まで続いた古河水産が終わってしまう。長男としての役目を果たせない以上、出来る事は全てしてきたつもりだ。ミスコンだって裏から手を回してグランプリ獲らせたっていうのに、琴子の奴は男性からのアプローチの全てを無視して、かと思えば急に営業職になりたいと家を飛び出し勝手に挫折して、そしてまたやり直しがしたいとか」
あ、ミスコンって本当に裏工作があったんだ。
これは琴子さんの名誉の為に、墓まで持っていかないと。
「あの、もしかして」
「なんだ」
「最近、プロサッカークラブに何かしました?」
「……黙秘させて頂く」
おいおい、この人どこまで動いてんだよ過保護すぎるだろ。
でも、そこまで人脈のパイプがあるのだとしたら、凪さんでも十分だと思うけどな。
「とにかく、琴子との縁はこれまでにして頂きたい」
「お断りします」
「なぜだ、なぜこんなにも説明しているのに理解してくれないんだ。私がその気になったら明日の今頃、お前は太平洋のど真ん中に放り出されている可能性だってあるんだぞ?」
「そしたら琴子さんが泣きますよ?」
「結果お前との縁が切れるのであれば、死別でも私は構わん」
「僕は構います。というか、前提として設けているのを取り外しませんか?」
「取り外す? お前は何を言っているんだ」
どうにも凪さんは、植え付けられた概念が取り外せていない様子だ。
こうでなくてはならないという考え方は、新しい発想を生まなくさせる。
そんなもの、壊してしまえばいい。
「凪さんが男性と結婚して、その人に古河水産を継いでもらえばいいじゃないですか」
うん、一件落着。
凪さんも女性として生きていけるし、古河水産も無事十代目が継げる。
万々歳じゃないか。
「……そう簡単に言ってくれるな」
「難しいですよね、恋愛って」
「そういう意味じゃない」
とはいえ、それ以外の方法なんて無いと思うけど。
項垂れて悩む凪さんを見ている限り、引く手数多だと思うんだけどな。
「そういえばなのですが」
「……なんだ、もうお前の意見は聞きたくないぞ」
「いえ、この写真の中に、僕と琴子さんが同棲生活を始める前の写真がありますよね? 僕が事故を起こして一ヶ月は入院していたんだから、少なくとも凪さんは一ヶ月間は僕達のことを放置しているという事になります。これの理由を聞かせて頂けたらなと思いまして」
沢山の写真の中にある一枚、これは琴子さんと同棲生活を始める前のものだろう。
ワイシャツ姿だから、営業にあちこち回った時の写真かな。
「……理想だったんだよ」
「理想?」
「調べれば調べるほど、高野崎俊介という男が古河水産の跡継ぎとして相応しかったんだ。慶應儀塾大学商学科を卒業し、その後上場企業である株式会社オプレンティアに入社、他の追随を許さぬ速度で出世し、二十八歳の若さで海外渉外営業部部長代理にまで成り上がった男だ。営業ノウハウから人脈、全てが相応しいと感じていた。琴子にしては良い男を捕まえたと内心拍手喝采だったんだ……なのに、どうして」
勝手な希望を抱かれて、勝手に失望されるのはちと腑に落ちないけど。
凪さんは僕の手を握り締めて、懇願する瞳を僕へと向けた。
「なぁ高野崎俊介、今からでも向井祥子との関係を終わらせる事は出来ないのか? 琴子一筋になるのならば、貴様は古河水産を継ぐに値する男なんだ。もし決断してくれるのならば、私が全面的に太鼓判を押してやる、だから」
「無理です」
「何故そうも即断できる!」
「祥子さんを見捨てた僕の事を、琴子さんが好きなままでいてくれると思いますか?」
あの二人は、二人一緒だから僕の側に居てくれるんだ。
最初は違ったかもしれない、しかし、短くない時間がそうさせてしまった。
無論、僕が望んだからというのが一番の理由だろうけど。
「というか、僕は先の意見を変えるつもりはありませんが」
「……私が、他の誰かと結婚するという話か? そんなの、無理に決まってる」
「なぜ決めつけるんですか? それこそ即断はありえません」
「二十八年間男として生きてきたんだぞ!? それを今更変えられるはずないだろうが!」
ああ言えばこう言う、頑固な所は琴子さんと変わらないな。
叫ぶ凪さんの頬を抑えて、真っすぐな瞳で、僕は真実を伝えた。
「なぜなら貴女は美しい、この僕が保証します」
ほら、僅かに開いた瞳のなんと綺麗なことか。
男として生きるべく培われた筋肉と仕草。
他の女性には見られない特有の美しさが、凪さんには備わっている。
「――――、な、なにを急に」
「僕は嘘を言いません、事実を語るのみです」
男性として生きてきたのならば、今からでも遅くはない。
人生に遅いなんて言葉は存在しないんだ。
第一歩を踏み出す勇気があるかどうか、それだけで大きく人生は変えることが出来る。
「……だが、貴様には琴子がいるではないか」
「誰が僕が凪さんの恋人になると言いましたか」
「いや、しかし」
「まぁ、でもそうですね、練習は必要だと思います。生まれてこのかた女性として生きていなかったのですから、一朝一夕という訳にはいかないでしょう。そうだ凪さん、僕、良いことを思いつきました」
懇願された時から握られっぱなしだった手を、今度は僕が握り返す。
古河家が抱えていた悩みを解決する最善策、それは。
「凪さん、貴女も僕達と一緒に住みませんか?」
「…………え?」
「幸いまだ午後四時前ですから、今から帰れば琴子さんが帰ってくる前に帰宅出来るはずです。会社からここまで二時間程度でしたからね、急げば間に合います、さ、凪さん」
「いや、え、待て、お前の家で私が暮らす? 私は妹に兄だと思われているんだぞ?」
「カミングアウトするいい機会です。面倒臭いのは全部ぶち壊せばいいんですよ。結果もしそれで凪さんが古河家を追い出されるような事があるのならば、僕も黙ってはいませんから」
江戸時代じゃあるまいし、長女が家を継げないなんて法律はどこにもない。
もしそれで追い出される様な事があれば、世間を味方にしてしまえば良い。
今は個人が情報発信できる時代だ、検閲も事前抑制も間に合わない速度で拡散される。
悪習は壊してしまえばいい、女性が女性らしく生きれない世界なぞ、こっちから願い下げだ。
――
次話「自慢の姉」
※カクコン終了までに数話投稿します。
次話はお昼頃投稿しますので、宜しくお願いします。
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