第57話 孫

 一からの状況説明が難しかったのは、どうやら僕だけじゃなかったらしい。

 琴子さんの頭を優しく撫でた後、お義母さんは立ち上がり身なりを整え始める。


「祥子」

「は、はい!」

「貴女には色々と聞きたい事がありました」

「はい! ……え、ありました?」


 バッグを手にすると、お母さんは柔らかな笑みを浮かべる。

 それまでの不信感とか、疑念や悩み、そういったものが消え去った様な、爽やかな笑みだ。

 

「ですが、俊介さんと琴子さん、それに詩ちゃんと接して、お母さんが抱いていた心配事の八割は消えてなくなりました。ですが残りの二割は、お母さんだけでは解決できる問題ではないと思います。よって、私は今の貴方達の現状を全てお父さんへと伝え、審判はお父さんに任せたいと思います」


 それって、言い換えればお母さんは僕達の事を許してくれたって事なのだろうか。

 

「お義母さん……ありがとうございます」

「感謝されるにはまだ早いわね。貴方達の味方をしたいのは山々だけど、お父さんがダメだと言ったら、私はお父さんの意見を肯定するだけですから。あの人は私以上に頑固ですから、それ相応の覚悟をしておいて下さいね」


 それだとしても、本当にありがたい事だ。

 琴子さんも立ち上がりお辞儀をし、僕もそれに習って深く頭を下げる。

 ちらり視界に入ったけど、祥子さんも疑問符を浮かべたまま、同じ様に頭を下げていた。


 お義母さんからの連絡を受けて慌てて帰ってきたらこの状況なんだ、祥子さんには後で時間をかけて説明してあげようかな。祥子さんなら「え、当然ですよね? 離れるなんてありえないんですけど」とか言って終わりそうだけど。

 


 その後、祥子さんへのお小言がお義母さんからあったものの、大した事はなく。

 帰り支度をしたままの状態だったお義母さんは、周囲を確認しながら琴子さんへと質問する。 


「さて、ここに祥子と琴子さんがいると言うことは、菜穂ちゃんは幼稚園なのかしら?」

「あ、はい、お預かり保育にしてましたので、まだ幼稚園に」

「そう、じゃあお迎えに行こうかしら。ついでに祥子の職場見学もしちゃおうかしらね」


 あ、そっか、もう大人勢が全員家にいるんだから、菜穂のお迎えが可能じゃないか。

 だけど祥子さん、幼稚園に行くとなった途端、表情が曇る。


「えっと、私はご遠慮したいなぁって、思うのですが」

「あら、年甲斐もなく恥ずかしいの? 厚顔無恥な貴女が?」


 お母さん、実の娘の祥子さんには結構厳しい。

 さっきも「琴子ちゃんに家事やらせてちゃダメでしょ」って怒ってたし。

 琴子ちゃん……か、お義母さんの中で琴子さんは完全に認められた存在なんだろうな。


「実はですね、お母さんがお見舞いに来るって知って、私、幼稚園を仮病で早退してまして」

「仮病? 二十五歳にもなって仮病?」

「だって、お母さんが来るってだけじゃ帰れないから」

「別に帰ってきて、なんてお願いはしてませんけど? 私は俊介さんがどんな人かを見極める為に来たんですから。そもそも、祥子がこの現状を包み隠さず教えてくれてさえいれば、私だって突然足を運んだり何かしません。忘れたの? 祥子が学生の時にしでかした事を。私がどれだけ貴女に泣かされた事か、忘れもしない高校生二年生の――」


 お、ついに祥子さんの過去が聞けるのか? 見れば詩さんも耳をぴくっとさせたし。

 建前上聞かないって言ったけど、本音としては気になるところ。

 何となく全員が耳を研ぎ澄ましていたのだけど。


「うわああああああああああああ! なにか言ったのかなお母様あああああああああああ! あ、ほら! 菜穂ちゃんのお迎え行くんですよね! 私も行きますし! さっさと行きましょうか!」


 祥子さん、外から帰ってきた時よりも汗をかいて叫んでいる。あれはきっと冷や汗だな。

 僕の方をチラチラと見ながら、なんとかお義母さんの口を塞ぐことに成功したみたいだけど。

 よっぽどなんだろうね、逆に好奇心がもりもり湧いてきちゃうよ。


「……気になりますね、祥子さんの元カレ」

「あ、やっぱり? というか、琴子さんも知らなかったんですか?」

「はい、色々と話しはしているつもりですけど、男性経験は無いとだけしか」

「そうなんだ…………え? 今、なんて?」

「あ、すいません、口が滑りました。でも、未婚なんですから当然ですよね」


 当然、なの? え、男性経験ないのに、あんなに過激にスキンシップしてくる訳なの?

 お風呂入れないからタオルで拭くだけなんだけど、その時だって結構迫って来てたのに?

 というか……祥子さんも琴子さんも、男性経験ないの? 嘘でしょ。


 とりあえず、その問題は寝室に置いておこう。

 

「お義母さん、僕も一緒に行きます。菜穂のお迎えに行くのも久しぶりですし、リハビリも兼ねて一石二鳥です」

「あらそう? じゃあ祥子はいらないわ。その代わり、琴子さんも一緒にどう?」

「はい、喜んでお供ささせて頂きます」


 琴子さん、お義母さんとの距離が随分と縮まった感じがする。

 自分からお義母さんの手をとって玄関まで行っているし、まるで実の娘みたいだ。


「俊介さん……一緒に行けなくて残念です」


 こっちの実の娘はけちょんけちょんにされて、ちょっと可哀想ではあるけど。

 左右の人指し指つんつんしてる祥子さんの唇を、琴子さんとするような軽いキスで重ねる。

 

「僕のことが心配で帰ってきてくれたんだよね、ありがとう、祥子さん」

「……そりゃ、私の一番大事な人ですから……」

「また今度、一緒に菜穂をお迎えに行く機会があったら、一緒に行こうね」

「うん、それで今日は我慢します。詩ちゃんと一緒に、家の片付けでもして待ってますね」


 そしてもう一度キスをして、階段を下りる所までは祥子さんに手伝って貰って。

 

「お待たせしました、それでは行きましょうか」


 夏の日差しが容赦なく照り付ける中、僕達は三人で楓原幼稚園へと足を運ぶ。

 菜穂がお義母さんを見てどんな反応を示すのか、そこだけが気がかりだけど。

 まだ四歳だ、菜穂の反応は全てが正直であり、何もかもが本音の世界。

 今日は初顔合わせでもあるから、意外と僕の背中に隠れたりするのかな。


 

 まるで発表会を見に行くような心境のまま幼稚園に到着すると、閉まっていた正門を琴子さんが開け、園内にお義母さんを招き入れる。相変わらず人が沢山いて、賑やかな園児の声や沢山のお喋りが聞こえる中、僕達三人を見つけてぺこりとお辞儀をする人の姿が。


 腕まくりをしたジャージ姿の彼女、神崎先生は、日に焼けた笑顔を浮かべながら、開口一番どう答えたらいいのか分からない質問を飛ばしてきた。


「琴子さんに俊介さん、祥子先生の具合は大丈夫でした? いきなり顔真っ青になりながら早退したいって言ってくるから、慌てて帰したんですけど。病院には行かれたんですか?」


 仮病って言ってたよな。

 どうしよ。


「ウチの祥子は頑丈に出来てますので、明日には勤務復帰できると思いますよ。向井祥子の母です、平素は祥子がお世話になっております」

「あ、祥子先生のお母様ですか! いえいえ、いつも祥子先生には助けられてばかりで。園児からの人気も高く、保護者からも信頼されている良い先生だと評判なんですよ。良かった、明日から復帰できるのなら何よりです」


 お母さまの言葉は強いな、僕や琴子さんが下手な嘘を付くよりも果てしなく効果が高い。

 でも、察したんだろうね。

 神崎先生は僕に近寄って「把握しました」って意味深な一言を残していったから。

 明日以降の祥子さんがどうなるのかは……神崎先生次第って所かな。


「ぱぱー!」

「菜穂ー! お利巧にしてた?」

「なほ、おりこうにしてたよー! きょうね、しょうこママがおうちにかえっちゃったんだよ? ママ、だいじょうぶかなー? ママは、おうち?」

「うん、ママはお家にいるよ」

「おうちかー、かえったら、おなかいいいこいいこしないとだね」


 お腹いいこいいことは、菜穂のお手てで摩ればどこでも治るという、魔法のことを意味する。退院してから菜穂は何度も僕の足を撫でてくれて、その都度「あ、早く治りそうだね」って声掛けした結果、菜穂は怪我した所やダメな所をいいこいいこしてくれる様になった。可愛い。


「菜穂ちゃん、幼稚園楽しかった?」

「ことママ! ことママもきてくれたのー! きょうはさんにんでうれしいだね!」

「今日はね、三人だけじゃないんだよ? ……お義母さん、この子が菜穂ちゃんです」


 それまで美魔女って感じの笑顔だったのに、菜穂を前にしたお義母さんは表情をしわくちゃにしながら微笑んでいた。


 菜穂の目線までしゃがむと、お義母さんは「こんにちは」と菜穂へと優しく声を掛ける。

 当の菜穂はというと、まん丸な目を更にまん丸にして、こてんと一回首を傾げた。

 

 そして……僕達の予想を遥かに超える一言を口にしたのだ。 


「ぱぱ、このひとも、ママ?」


 違う、それだけは違うぞ菜穂! 確かにママが二人いる状態はおかしいかもしれないが、そんなに簡単にママは増えたりしない! 菜穂の教育に問題が発生しているのかもしれない、この部分は今すぐにでも治さないと、世界中の僕に親しい女性がママになってしまうじゃないか。


「流石にママじゃないんですよ。残念だった?」

「うーん……うん。なほ、やさしいママたくさんがいいな」

「あらそう、でも、私は祥子ママのママなんですよ?」

「しょうこママのママ?」

「そう、つまりは、菜穂ちゃんのお婆ちゃんってこと」

「なほの、おばあちゃん? なほのおばあちゃん!? なほとたくさんあそんでくれるのー!?」

「ええ、そうよ、いーっぱい遊んであげるからね。今度の日曜日とか、お婆ちゃんとどこかに行く?」

「いくー! なほね、おいしいはむがたべたいのー!」


 菜穂の基本はハムなんだ。


 今日の冷蔵庫を開けたお義母さんが一言「ハムがやたら多いわね……」って呟いたのを、僕は聞き逃していない。将来菜穂をナンパする時には、多分「ねぇ彼女、美味しいハム食べない?」だけでどこかに行ってしまいそうで、怖い。


 とにもかくにも、菜穂は誰よりも早く、お義母さんの心を鷲掴みにしてしまったらしい。


 僕としても、僕達の関係を受け入れてくれるだけでもありがたいのに、菜穂のことを可愛がってくれるお義母さんの器の大きさには、ただただ尊敬するばかりだ。今度の日曜日はお出かけになるのか、僕は松葉杖だから行けそうにないな。

 

「……あら、お父さんからだ。ちょうど良いから、菜穂ちゃんと日曜日どこかに行かないか誘ってみようかしら」


 なんだと? お義母さんがスマホを軽快な操作でフリックし終わると、すぐさま返信の音が。


「あらあら、お父さん行くって。良かったね菜穂ちゃん、じいじも一緒に行くって。沢山美味しい物食べに行きましょうね」


 な、なんだと!? 頑固なお義父さんじゃなかったのか!? 

 これが孫パワーの成せる技なのか……我が娘ながらにして、恐るべし。


――

次話「第58話 男1女3での平和?な雑談①」 

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