第56話 妹の本気
一体どの思考回路がその答えに導いたんだ。
琴子さんは僕の妹を名乗り、お母様はそれを受けて頬を引き攣らせている。
普通じゃない関係の僕達には、あまり普通の出来事は起きないらしい。
「幼稚園の関係者さんですよね!? あ、あの、私、お兄ちゃんと同居してまして……あ、お、お兄ちゃんいるじゃない! ただいま帰りました! きゃは!」
一体どこの琴子さんでしょうか。
僕の知る琴子さんは「きゃは!」とか言いながら腕を組んできたりはしない。
額にほとばしる汗は、きっと夏の暑さのせいじゃない。
もう、なんていうか、本当にごめんなさい。
★
「本当にすいませんでした」
お母さんを前にして、僕は深く頭を下げる。
なんだか午前中をリプレイしているみたいで、泣きそう。
「事情は分かりましたけど。なるほどね、若い女性が二人同時に同棲生活をしていたら、それは噂話の一つや二つはありえる事でしょう。それを回避するために、高野崎さんの居もしない妹を名乗り、何とかやり過ごしていたと」
確か、菜穂のお迎えをしに行った時に、お母さん方に囲まれての事だったはず。
神崎先生の助けてを受けての妹宣言だったと聞いてるけど。
「すいませんお母さん、菜穂のお迎えに必要な嘘だったんです」
「俊介さんは黙ってて下さい、私は今この人とお話しているんです」
お母さんから見て、琴子さんは完全に敵だ。
今日のやり取りで少なからず、僕に対しての好印象を持っている証拠でもある。
でも、その想いが強ければ強いほど、琴子さんへの敵意は増しているはずだ。
「それで、どうなんですか? 貴女として、今のままで本当に良いと思っているのですか?」
「……それは、どういった意味でしょうか」
「どういった意味も何も、一人の男性に二人の女性がいること自体、おかしいとは思わないのですか? 貴女が進もうとしている道は、貴女が嘘をついて逃げようとした艱難辛苦極まる道なんですよ? 大体、土壇場で嘘を付いてしまう程度の想いなら、その時に諦めてしまえば良かったんです」
鋭い言葉の刃だ、だがしかし、その内容は間違いなく正しい。
これから僕達が歩もうとしている未来は、見方一つ変えれば異端児の道だ。
群衆は普通を望む、そこに異物が僅かでも紛れ込めば、集団で叩きのめすもの。
正義の名を振りかざし、過ちを犯している者へ容赦なく鉄槌を下す。
「諦めるわけ……ないじゃないですか、私だって俊介さんのことを愛しています、菜穂ちゃんもようやくママって呼んでくれる様になったんです。過去の私だったら躓いて諦めてしまう様な可能性もあったかもしれませんが、今の私は絶対に諦めません」
「そう……でもね? よく考えてもみなさい。貴方達はそれでも良いかもしれない、自分の我がままを貫き通して、約束事の全てを無視して、自分達だけの幸せを得られるかもしれない。だけどそれが普通でない以上、普通の人たちの集団にいる、誰でもない菜穂ちゃんがイジメに合うかもしれないんですよ? 俊介さんは菜穂ちゃんの親です、一番に考えるべきは菜穂ちゃんの幸せなんじゃないんですか?」
お母さんの言葉は、何よりも強く、何よりも重い言葉だ。
僕は常々言葉にしていた、二人の告白を断った時だって同じ事を理由にしている。
菜穂のためだけに生きていたい。
一度は壊してしまった、菜穂の笑顔の為に……と。
「……今すぐに答えを出しなさいとは言いません、貴女がついた嘘により、少なくない猶予が生まれています。ただ、今ならまだ菜穂ちゃんは全てを理解していないはずです。明日から貴女か祥子のどちらかが居なくなったとしても、菜穂ちゃんの記憶からはいずれ消える事でしょう」
琴子さんはどちらかと言うと理知的な人だ、損得勘定で物を考えてしまう。
何が一番良いか、何が一番得か、何が一番ダメか。
言葉に出せない苦渋の表情が語るは、お母さんの言葉に対する肯定を意味するのか。
「今日のところは帰ります。俊介さん、お父さんとの顔合わせはまた後日連絡を――」
「待って下さい」
帰り支度を始めていたお母さんの事を、琴子さんは呼び止める。
「私だって、理解しています。世界が決めたことが、私よりも正しいって」
「……だとしたら、私が言いたい事はお分かりになるでしょう?」
「分かります、分かりますけど、そんな簡単に譲れる話ではないんです。私は、菜穂ちゃんと俊介さん、それと……貴方の娘である、祥子さんと一緒に生きていきたいんです」
ぴくっと、お母さんのこめかみ辺りが反応する。
「私も、その、お母さんと同じように、私か祥子さんのどちらかが、最終的に俊介さんの側に残れるのだと思っていました。それが普通だし、誰だってそう考えてしまうものなんです。でも、祥子さんは違いました。あの人は私の考えを根底からひっくり返し、俊介さんと菜穂ちゃん、それに私と一緒に居る事を望んでいました。こんなの、私一人じゃ到底思いつかない……それを聞いた時から、私の考え方は変わりました。四人一緒になって、全ての困難を乗り越えていこうって」
ふと、以前祥子さんから言われた言葉を思い出した。
――
『ですよね? それが普通の考え方です。私たちはそれを受け入れて先に進もうとしてるんですよ? 既に普通じゃないって気づいて下さい。なに一人だけ普通になろうとしてるんですか。それこそワガママってもんです』
――
僕達はもう、普通じゃない。
そんな僕達が、菜穂の幸せを考えて行動すべきだとしたら、二人から菜穂を離すなんて選択肢、あるはずがないじゃないか。
「最近になって、菜穂ちゃんはきちんとした言葉で、沢山お喋りしてくれる様になったんです。私と祥子さん、二人でずっと話相手になって、三人で笑って。私と祥子さんのどちらかが居なくなるなんて、そんな悲しい事を当たり前の様に言わないで下さい。菜穂ちゃんに、もう一度お母さんとの別れを味合わせたいんですか? 私は、そんなこと、したくないです」
いつの間にか琴子さんの瞳には涙が溜まっていて。
僕は、いつだって二人に気づかされる。
選択したのは僕なのに、いつだって気付くのは遅いんだ。
「……琴子さん」
「俊介さん、ごめんなさい」
琴子さんの涙は、恋とか愛だとかを謳った涙じゃない。
母親としての涙だ、自分が居なくなった後の菜穂を想像しての涙。
さえずる様に泣く琴子さんを抱きしめて、ごめんと心の中でつぶやき、優しく頭を撫でる。
「お母さん、すみません。僕の言葉は先の通りです。もう、何を言われても変わるつもりはありません。僕にとっても、菜穂にとっても、最愛の人は祥子さんであり、琴子さんなんです。もしお父さんとの顔合わせをするのであれば、その場には琴子さんも同席させますので、ご承知頂けたらと思います」
静かに佇みながら僕達を見下ろすお母さんは、目を隠す様に手を当ててしばらく悩んだあと、大きくため息をついた。
「……
「え」
「貴女にお母さんなんて呼ばれたくないの。だから呼ぶなら真理子さんって呼びなさい」
向井さんじゃないんだ……でもそれって、少しは認めたってこと?
真理子さんは帰り支度をしたバッグをテーブルに置いて、中からハンカチを取り出した。
刺繍のほどこされた、高級そうなハンカチを手に、今も泣いている琴子さんへと膝をつく。
「まったく……母親になりたいんだったら、少しは涙くらい我慢しなさい」
「じゅみまぜん、でも、がなしぐって」
「そうね、子供の事を考えたら、母親が居なくなる事が一番悲しい事よね」
僕の胸の中にいた琴子さんは、そのまま真理子さんの胸の中へと包まれていった。
親として必要なこと、その何かが、もう琴子さんの中には芽生えているのかもしれない。
そして。
「す、すみません、ただいま帰りま――――、え、これ、どういう状態ですか!?」
一から説明するのがとても難しい状況で、祥子さんが帰宅したのであった。
――――
次話「孫」
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