第55話 お母さん、詩じゃダメでしょうか?

 僕は基本的に沈黙に強い人間だ。


 相手が黙っているのであれば、僕も特に用事が無ければ喋らない。

 人によってはそれを『相手が不機嫌に思っている』と感じるらしい。

 僕から言わせれば、内容の無い話題を延々と聞かされる事の方が苦痛を感じる。


 だが、そこには男女の差があるらしく、女性はそれらを苦に思わない傾向が強いのだとか。

 だから僕は女性と接する時、常に会話をきちんと聞くように心がけている。

 最終的に「ねぇ、聞いてるの?」という質問が出てきたとしても、ちゃんと答えられる様に。


 しかし今、それらが根底から覆されようとしている。

 未だ名前すら伺えていないお母様と過ごす時間の苦痛たるや否や。

 一切語らず、一切動かず、ただ時が過ぎるのを待ち続ける。


 このまま後七時間、耐えなくてはならないのか。

 一滴一滴垂れてくる化粧水を見続ける仕事並にキツイぞこれは。


 眠ることも動くことも許されないままに、静謐な空間を保持する。

 足も熱を持ち始め『お薬飲まないとそろそろ痛み始めますよ?』と警告してくるじゃないか。

 せめて薬だけでも、いや、それに備えて昼食の許可を――。


 そんな事を考えていたのだが、解決の時は思ったよりも早く訪れてくれた。


「……さて、お昼になりましたか」


 それまで目を伏せ沈黙を守っていたお母様が、ひょいとこんな事を口にしたのだ。

 立ちすくんでいた詩さんも目をぱちくりさせて、お母様の動向を伺う。


「高野崎さん、お昼はどうするおつもりだったのでしょうか?」

「え? えっと、確かキッチンに作り置きしたものがあると思いますので、それを」

「では、確認させて頂きますね」


 おもむろに立ち上がると、お母様は一人キッチンへと向かった。

 リビングダイニングキッチンなのだから、ちょっと離れただけだけど。

 

「ふむ、お稲荷さんと鍋の中にはカレーうどんですか。この味は……うん、ちゃんと料理はしているみたいね。ですが……高野崎さん、私の方で準備しますが、宜しいですか?」

「え、え⁉ いや、そんな、お母様にして頂く訳には!」

「大丈夫ですよ、祥子に料理を教えたのは私なんですから。それよりも、高野崎さんはまだ退院したばかりなんでしょう? 栄養を取ってお薬飲んで、ゆっくりと休むのが最優先です。それに、お見舞いに来たって祥子に言った手前、やらないと祥子に怒られちゃうから」


 僕を見て眉を下げた笑みを浮かべた後、すっとその視線を詩さんへと向ける。

 茫然としていた詩さんだったけど、その意味を即座に理解したらしい。


「あ、詩も手伝います!」

「あらそう? じゃあ追加で一品作るから、詩さんも一緒に手伝って下さいね」

「はい! お任せ下さい! 詩、基本何でもできますから!」


 険悪な空気のまま過ごすのかと思いきや……意外と砕けた感じのお母さんなのかな。

 許せないものは許せないけど、意固地にはならずに受け入れる方法を模索する。


 なんか、そんな所は、やっぱり祥子さんと似ているかも。

 琴子さんともいつの間にか打ち解けていたし、普通じゃ許されない事も受け入れてくれた。


 祥子さんがいるから、今の関係は成り立っているんだろうな。

 そんな人のお母さんなんだから、やっぱり基本は優しいのだろう。


「はい、じゃがいも潰して」

「むー! 結構力いるんですね!」

「そうよ? でもポテトサラダはカレーうどんの定番なの、必需品と言ってもいいぐらい」

「そうなんですか? 詩、知らなかったなぁ」

「はい次、たまねぎ人参きゅうりハム、これを切ってみて」

「うは、詩、包丁使った料理、あんましてこなかったかも」

「あらそう? 嫁入り修行してこなかったのかしら? 今からでも教えてあげましょうか?」

「えっと……それって、意中の人を射止めたり出来ます?」

「昔から言うでしょ? 男は胃袋で掴めって。バッチグーよ」

「そ、そうですか。胃袋で……よし、詩、頑張ります!」


 なんか変な会話が一瞬聞こえたけど、お母さんも一緒になってやってるんだから、きっと他に好きな人がいるって事なんだろうな。包丁の使い方を教わりながら悪戦苦闘してる詩さんを見てると、いつか菜穂も同じ様にするんだろうかと、想い馳せてしまう自分がいる。


 その時は、きっと祥子さんと琴子さんの二人が教えているんだろうな。

 ふふっ、今からその光景を見るのが、ちょっと楽しみだ。


「後は塩コショウで味付けをして……はい、完成」

「ほわぁ、凄いですお母さん! ポテトサラダです!」

「うん、そうね、ポテトサラダ作ったんだから、当然よね」

「コンビニで売ってるのと遜色がない! 詩、今回の料理忘れる前にメモりたいです! あ、写真も撮りたい! お母さん一緒に写りませんか! ポテサラ記念にぜひ!」


 なんだか、仲良し親子みたいになってきたな。

 ここら辺はきっと、詩さんのポテンシャルといった所か。


 写真を撮るのは満更ではないみたいで、お母さんと詩さんは二人でピースしながらスマホで撮影をし、そして詩さんはそれをそのままSNSへと投稿を始めた。 

 

「あれ? いいんですか、SNSに投稿しちゃって」

「別に構いませんよ? それよりも若いエネルギーを貰えて、少し若返っちゃたみたい」


 料理を終えてにっこり微笑むお母さんは、確かに若く見えた。

 だから素直に言葉にするんだ、それが一番の誉め言葉だろうから。


「確かに、お母さん若くて美しいですよね」


 元々美魔女クラスに美しい人なんだから、多分言われ慣れてるだろう。

 お世辞にもならないかもしれないけど、祥子さんと似てて、本当に綺麗な人だと思う。


「……あら、そう? 本当に?」

「ええ、髪質も綺麗ですし、本当に美しく見えます」

「そんな、褒めたって何も出ないわよ? はぁ、もう、誉め言葉が上手なんだから」


 褒められて照れる仕草とか、どことなく祥子さんに似てて可愛い人だ。

 急に来た時は驚いたけど、やっぱり根っこが良い人は善人っぷりが隠せないらしい。

 当初の雰囲気はどこへやら、色々と危惧していた事にはならなそうで、ちょっと安心だ。


  

「あつつ……よし! 準備出来ました! 俊介さん、椅子まで来れますか?」

「あ、うん、骨折したのは左足だけだからね。他はほとんど治ってるから」


 とはいえ折れたのが膝上の骨だから、気を付けないと倒れこんでしまう。

 起き上がる時には引きずりながら、周囲の壁に手を当ててっと。


 詩さんに支えてもらいながら、時間をかけてキッチンのテーブルに着席すると、そこには湯気立つ美味しそうなカレーうどんと、お稲荷さん、それと噂のポテトサラダが鎮座していた。


 いただきますと、両の手を合わせる。


「本当、大変よね……事故だったんでしょ? 相手の保険は大丈夫だったの?」

「あ、はい、大手の運送会社でしたので、保険で全て片付いてしまいました」

「良かった、最近だと任意保険入ってない人が運転してるとか聞くじゃない?」

「それだと大変な事になってたでしょうね、良かったです、不幸中の幸いでした」


 最初こそ運転手さんが謝罪の連絡を入れてくれてたけど、途中からはずっと保険会社だったし、そこに関しては何の不満も不安もなかった。治療費聞いた時は金額に驚いたけど、それも保険で終わってしまうのだから、凄かったねの一言で完了だ。


 はふはふとカレーうどんを頬張りながら、ポテトサラダも一口。

 あ、美味しい、なんていうか本当、家庭の味って感じがする。

 ちらりと詩さんを見ると、味はどうですかと言わんがばかりの瞳で僕を見る。

 

「美味しいよ、これ」

「本当ですか! 胃袋掴みました!?」


 たった一品で掴めるはずがないだろう、というか僕で試さないで本番で頑張って欲しい。

 それにしてもこのカレーうどん美味しいな、普段とは何か違う感じがする。


「なんか、とても美味しいですね」

「あら、気付いた? とはいっても大したことしてないわよ。うどんスープ足しただけだから」

「え、カレーうどんに元のスープを足したんですか?」

「そうよ? 多分、このカレーうどんを作ったのは、その琴子さんって人ね。ウチの祥子だったら絶対にスープの素を入れるはずだから。せっかくだから娘の料理を堪能したかったんだけど……ねぇ高野崎さん、祥子って料理してる?」


 最近は、してないね。


 朝からプールの準備だなんだで朝早くなったみたいだし、夜は夜で絶対的に琴子さんの方が早いから、琴子さんの方がどちらかと言うと料理してるイメージがある。祥子さんの最近の役割は「美味しい! 琴子さんお嫁に欲しい!」って言う事くらいだろうか。


「詩の知らないことばかりだ、全部メモらないと」

「あらあら、じゃあウチの子になる?」

「え? あ、いあ、詩が家を出ちゃうと、お兄ちゃんも困るでしょうし、その」

「冗談よ、貴女も面白い子ね。はぁ、なんとなく全部分かっちゃったかな。なるほどね、これは祥子が惚れちゃう訳だ。最初幼稚園から同棲してるって聞いた時は、またあの子は変な男に騙されてって思っちゃったんだけど」


 ずずずってうどん食べてる僕を見ながら、お母さんは不敵に笑みを浮かべる。

 

「高野崎さん……いえ、俊介さん。もし、どちらか一人ってなった場合、祥子をお願いしてもいいかしら? あの子のことだから色々と御迷惑をかけるかもしれなけど、でも、全力で貴方の支えになってくれると思うから」


 優しく諭すように語るけど。

 どちらか一人になった場合? そんな状況、今じゃ想像も出来ない。

 祥子さんを愛しているけど、琴子さんのことだって愛しているんだ。 

 この気持ちに嘘が一滴でも混じったら、何もかもがダメになる。


「そんな状況には、させません」

「今はね、でも、いずれは変わるかもしれないじゃない? 私個人としては、俊介さんの事をとても気に入ったの。誠実そうだし、嘘が苦手みたいだし、何より人に好かれやすい。是非ともお父さんを交えてお話がしたいのだけど……ただ、お父さんは私みたいに甘くないから」


 祥子さんのお父さん、か。

 どんな人であれ、顔を合わさないといけない相手だ。

 

「逃げませんよ、僕は」

「……期待しているからね」


 その期待には、どのような形であっても応えなければならない。

 二人と一緒にいると決めたのだから、困難しかないのは分かっているさ。

 

「お母さん、詩じゃダメでしょうか?」


 真顔になりながら質問する詩ちゃんを見て、お母さんも苦笑する。

 最近の詩さんの揶揄いはレベルが上がってて、本気かどうか分からないな。

 本気……じゃ、ないよな? え? まさか、詩さん?


「そうねぇ、詩ちゃんが参戦するには、まず玉ねぎを切れる様にならないとダメね」

「……そう、ですか、難しいですね」


 難しいのか。

 さっき号泣しながら切ってたのに。



 美味しい昼食を頂いた後は、薬を飲んで横になる……のだけれど、そのタイミングで玄関をガチャガチャする音が聞こえてきた。


「あら、祥子かしら? 事前にメール入れておいたから、気をきかせて早く帰ってきたのかも」


 事前にメールを入れてあるのなら、確かに祥子さんなら慌てて帰ってきそうだ。

 時刻はまだ午後二時前だから、早退って感じかな?

 幼稚園の先生って意外と融通きくのかな、有給申請もすんなり通ったみたいだし。

 

 祥子さんが帰ってきたのであれば、僕もお出迎えにいかないと。

 机に寄り掛かりながら、玄関へと向かったお母さんに続いて僕も向かう。

 そして目の当たりにするんだ、予想もしていなかった展開を。


「ただいま帰りました。江原所長が先週土日仕事してた分、午後休にしろって言わ」


 琴子さん、目の前のご婦人を前にして、固まる。

 多分、いま物凄く頭の中を高速回転させているに違いない。

 数瞬の間の後、目を泳がせながら琴子さんは深々と頭を下げた。


「す、すいません! わ、わた、私、高野崎俊介の妹の琴子と申します!」


 なにぃーっ!?


――

次話「妹の本気」

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