第54話 精神と時の部屋

 何故に急にこんな事になってしまったんだ。

 まだ午前中、祥子さんが仕事終わって帰ってくるまでまだまだ時間があるのに。 


「ウチの祥子から高野崎さんが入退院したって聞いてたものでしてね、独り身で大変かなと思い、失礼を承知で足を運んだのだけど。ごめんなさい、まさか女性と密会しているとは思わなくって」


 おほほほほほと、青筋を浮かべ眉間に限界までシワを寄せて笑うお母さま。 


 漆黒を思わせるほどの濡羽色をした髪を綺麗にまとめ、お化粧は濃くなく薄くなく。黒のフレアーロングスカートにブラウス姿、多分五十路後半のはずの年齢を感じさせない美魔女っぷりは、ああ、この人が祥子さんのお母様である証拠とも言えよう。


 まだ名前すら教えて頂けてない状況下で、僕はひたすらに頭を下げた。

 とはいえ土下座が出来ないので、パッと見は俯いているだけだけど。


「おかしいと思ってたんですよね、祥子に散々顔を見せなさいって言っても、何だかあやふやな返答ばかりで。でも、まさか祥子の他にこんな可愛い子と同棲していただなんて。同棲の二重生活はさぞかし楽しいでしょうね」


 同棲の二重生活というガッチリ当てはまった言葉が故に、否定が出来ない。

 ただし相手が違う、でも今それを言った所で、お母さまの怒りを誘うのは必死。 


「え? お母さま、詩はまだ高野崎さんと同棲してませんよ?」


 まだ・・じゃないでしょ……そんな可能性を示唆しさする言い方やめて。


「あらそうなの? では、洗面台にあった女性物の歯ブラシと、そこの室内干しされている祥子のものじゃない下着は、一体どこのどなたの物なのかしら?」


 タオルで隠して干しているのに、なぜに分かる。 

 あ、一応透けて見えるのか、というか、お母さまの観察眼が凄い。


「それは――」

「いいよ一ノ瀬さん、僕がちゃんと説明するから」


 これ以上詩さんに喋らせたら、状況が悪化しそうだ。

 腹を据えて喋るしかない、これからの未来の為に、全てを。



「なるほどね、それでウチの祥子と、同じ会社の部下である、古河琴子さんという女性との同棲を開始してしまったと。しかもそれは高野崎さんが望んだのではなく、二人同時に突然やってきた、そう言いたいのですね?」

「聞こえは悪いかもしれませんが、全て事実です」

「つまり、今の状況を生み出したのは二人であり、自分は悪くないと」


 冷めた視線を僕へと向ける。

 きちんと説明したつもりだけど、確かにこんなの納得できる訳がない。

 

「いえ、一番悪いのは僕です。元妻に浮気され、それを糾弾しておきながら、僕は優柔不断な判断してしまっている。祥子さんと琴子さんのお二人には大変な迷惑を掛けていると存じ上げております……ですが、僕は心の底から二人を愛してしまっているのです」

「それが、世間一般の常識から外れていると分かっていてもですか」

「分かっていてもです。二人への愛と感謝は、言葉じゃ語り尽くせない程です」


 認められるはずがない。

 こんなの、もし僕が菜穂の彼氏から聞かされたら激怒じゃすまない。


 けれど、事実をありのままに伝えること、これが間違いなく最良の手段。

 不誠実な男の言葉に、祥子さんのお母さんはどのような審判を下すのか。


 カッチ、コッチと、時計の針が室内を支配する。

 普段うるさいセミの鳴き声も、今となってはオノマトペにすらなりえていない。 


 体感時間一時間を越えた頃、微かにお母さまのため息が聞こえてきた。


「まぁ、ウチの祥子にしては、マトモな男を捕まえたってとこなのかしらね」

「……え?」

「祥子って高校生の時と大学生の時に、恋愛で手痛い失敗してるから……って、あら? もしかしてこの話、祥子から聞いてないの?」

「いえ、初耳です」


 僕の隣は気まずいのか、立ったままの詩さんも知らないって顔をしていて。

 祥子さん、学生時代に恋人いたんだ。

 あれだけ可愛くて器量もイイんだから、いてもおかしくないけど。

 

「あらそう? じゃあ勝手に話しちゃうと祥子に怒られそうね。あの子、怒ると本当に怖いから。知りたかったら、直接本人から聞いてちょうだいね」

「いえ、女性の過去は掘るものではないと、認識しています」


 知った所でどうにかなるものではないし、未来永劫関わる事のない男のことなんぞ知りたくもない。それに僕と出会う前に祥子さんが失敗したとしても、それは僕の知らない所での話だ。祥子さんにはこれからだけを見て欲しいし、僕は祥子さんとのこれからを作りたい。


 そんな僕達に、過去の男の情報なんざいらないさ。


「ふぅ……本当にいい男を見つけたのね。でも、それが子持ちで更に他に同棲者がいるとは」

 

 眉間を押さえながら、お母さまは目を瞑った。

 受け入れがたい現状を、ここまで理解して頂けるだけで御の字です。


「少なくとも、はい分かりましたとは言えません。でもね、それは私達の娘を信用出来ないって意味にも繋がってしまうの。高野崎さんにも娘さんがいらしているのですよね? 娘のことを信用できない……なんてこと、あり得ますか?」

「あり得ません、僕は、菜穂の言葉を全面的に信用してしまいます」

「うん、人の子の親なんですから、そう考えるのは自然です。ただ、今の高野崎さんは間違いなく人の道を外れています。実際に浮気をされ、離婚まで経験しているのですから、私が言っている事は理解できますよね?」


 理解出来る、心の底から。

 既に三十歳を目前にして、祥子さんの母親から諭されるなんて。

 菜穂には絶対に見せられない、情けない父親像だ。


「そこまで理解しておきながらも、離れられない。となると、私としては娘の意見を聞かないと、やはり判断は出来かねます。個人的意見は絶対に反対ですけど、子供の意見を無視しては、親として失格でしょうからね」


 くしゃりと表情を崩したお母さまは、差し出されていたお茶へと手を伸ばした。

 途端、張り詰めた空気が一瞬で霧散する。

 許された訳じゃないが、ある意味一つの答えが出た瞬間だ。


「あ、お母さま、私お茶淹れ直します」

「あらそう? といいますか、貴女って結局、高野崎さんとどんなご関係なのかしら?」

「高野崎さんと詩ですか? どんなご関係というと、そうですね、詩が勝手にこの家に遊びに来ている関係って感じでしょうか? 高野崎さんって揶揄からかうと反応が面白くて可愛いんですよね。ですので色仕掛けしたり意味深発言してあげたり、最近は特に一人暇そうにしていますので、私の方からちょっかいを掛けるようにしてる関係です」


 張り詰めた空気が戻ってきた。

 おいおい、恥じらいながら語る関係じゃないだろうに。

 なんでほっぺに手を当てながら頬を赤らめるんだ、やめてくれよ本当に。


「……まぁ、これ以上人数が増えるのは、正直受け入れがたいので。高野崎さん」

「はい、重々承知しております」

「ええ、では、このまま祥子の帰りを待たさせて頂きますね。ああ、お茶は結構、持参したお茶がありますので」


 直前まで詩さんに淹れてもらおうとしていたお茶を、お母様はすっと引っ込めた。

 三人目と認識されたのでしょうか? 本当に詩さんだけは範疇外の子ですよ?

 

 それにしても、祥子さんの帰りを待つだって?

 壁掛け時計の針は十一時になったばっかりなのに?


 幼稚園の仕事を終えて祥子さんが帰ってくるのは、いつも夜七時だ。

 あと八時間、動けない僕と動かないお母さんとで過ごさないといけないのか?


 いや違う、その前に菜穂をお迎えに行った琴子さんが帰ってくるじゃないか。

 最近は自転車を購入したとかで、時間きっちりに帰ってくるから間違いない。


 せめて一言、琴子さんに現状の連絡を入れないと不味くないか?

 いきなり祥子さんのお母さんが家にいるとか、多分受け入れがたいぞ。


 正直、足が痛いし横になりなりたいし、頭の中がクラッシュ寸前だ。

 どこかぼーっとした僕に対して、詩さんが隣に来てこそっと耳打ちする。


「高野崎さん、詩も一緒に残りますからね」


 なんで? 詩さんが残ってるとより一層混乱しそうなのですが?

 ふんすって、鼻息荒くサムズアップしないで欲しい。 


 機嫌の悪いお母さまと、面白半分の詩さん。

 なんという地獄のような空間なんだ。


 時計の針は……まだ、十一時五分か。

 長すぎる。



 あら? スマホに何かメッセージが入ってる。

 誰だろ……詩ちゃんか、またお家に遊びに来てるのかな。


 最近高野崎さんと仲良さそうだけど、本当に遊んでるだけなのかな。


 お土産持ってきました、後は俊介さんに悪い虫がいないか見ておきます、だって。  

 ミイラ取りがミイラにならないか心配なんだけどなぁ。


 って、もう一件メッセージが来てるの? あれ? お母さんから? 

 高野崎さんが心配なので、お見舞いに行ってきます。

 お見舞いに行ってきますかぁ…………お見舞い、お見舞い!?


 え、このメッセ―ジって何時間前? え、やだ、午前中じゃない!

 今は午後二時だから、幼稚園はそろそろ終わるけど、帰れるのにまだ五時間はある。

 お母さんいるのにそんなに待たせられないよ……ここは、しょうがない!


「楓原園長! 私、そろそろ腹痛になりますので帰りたいと思います!」


――

次話「お母さん、詩じゃダメでしょうか?」

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