第49話 くだらない真相※古河琴子視点
「江菜子がDVなんかするはずないだろうがッ」
語尾強く、不機嫌を露わにした野芽さんを前にして、ぎゅっと拳を握って決意を新たにした。
この人がいる限り、私も俊介さんも前に進めない……そんな気がする。
「野芽さん……貴方、江菜子さんとどういった関係なんですか?」
「古河さんが知る必要はない」
「だっておかしいじゃないですか、高野崎さんの元奥さんでしかない江菜子さんと、野芽さんがなぜ裏で繋がったままなんですか? 第三者として参列した離婚調停の場で、初めて顔を合わせただけの関係なんですよね? それがなんで」
「知る必要はないと言ったんだ」
またそうやって睨みつける。
多分、野芽さんは自分が不利になると感情を露わにするタイプの男性なんだ。
「知る必要はあります。だって、私は高野崎さんと……俊介さんと、ずっと一緒にいるつもりなんですから」
言葉の意味は、そのままだ。絶対に譲れないし、譲るつもりもない。
これが野芽さんが敷いたレール上の話であったとしても、私は変わらない。
「でも、退職はしないんだろう? 娘さんはどうするんだ? 面倒を見るにしても二人して営業職じゃ、いつかは家事育児に手が回らなくなる。それは高野崎が過去に犯した過ちと同じだ。お前は同じ過ちを、また高野崎に味あわせようとしているのか? そんなの、高野崎が受け入れるはずがない。本格的にサポートしたいのなら、古河さんは退職した方がいいんだよ。その上で、アイツはもっと上を目指す……それこそ、家族を
野芽さんの言葉、それは過去の私の言葉だ。
それこそが俊介さんにとって、最良の選択肢だと疑わなかった過去の自分。
でも、なんでだろう。
今になって改めて思うと、その選択をした俊介さんは、笑顔にはならない様な気がする。
ううん、絶対にならない。
家族から切り離されて、一人孤独で戦い続ける俊介さん。
そんなのが、俊介さんに似合うとは思えない。
私だって、ただ帰りを待つだけじゃイヤだ。
一緒に過ごしたい。
今は、その気持ちの方が上だから。
「退職はしませんよ、それに、子煩悩の俊介さんが菜穂ちゃんから離れるなんて、想像もしたくないです。俊介さんは今のまま、楓原営業所にいるのが一番いいんです。もし彼が退職を選択するのなら、私は甘んじて受け入れたいと思います。その上で、私は先の宣言をしました。私が、上に行きます」
俊介さんと菜穂ちゃんの、二人を養わないといけない。
一人だったら、こんな考え思いつきもしなかった。
でも、私には祥子さんもいる。
戦友なのか、ライバルなのか、親友なのか。
なんとも言えない関係の私達だけど、俊介さんを想う気持ちは同じぐらい強いから。
一拍間をおいて、野芽さんは二本目の煙草に火を点ける。
まだまだ結着はついてないんだから、好きなだけ吸えばイイ。
……煙いけど。
「そうか、いつの間にか、そんな考え方になってしまっていたのか。時に古河さん、いま君は、高野崎と同棲生活を送っているんだよな?」
「そうですけど、それが何か?」
「その家には、もう一人女がいるはずだ。向井祥子といったか? 楓原幼稚園の先生さんらしいじゃないか。残念だったよなぁ、せっかくお膳立てしてやったのに。まさか他の女がいるなんてな。どうだ古河? お前さえ良ければ、その向井って女のこと、俺が高野崎の家から追い出してやろうか?」
肩眉を上げて首をかしげながら、なんていやらしい目つき。
野芽さんが鎌首下げた蛇みたいに見える……あ、私、この人、生理的に無理だ。
「一応聞きますけど、どうやって追い出すつもりですか?」
「そんなの簡単だろう? 再婚目前にした男の家に入り
酷い提案だけど、話しの筋は一件通っている様にも見える。
でも、この男がしたいのは、もっと違う別の何かだ。
野芽の提案を受け入れた先にあるものが何か、それを見出さないと。
「もしかして野芽さん、俊介さんに焼き餅やいてるんですか?」
「……は?」
「いえ、俊介さんと祥子さんとの関係も知らないクセに、なぜ祥子さんを追い出そうとするのか。しかも建前上は私の為に。確かに傍から見たらその提案はとても素晴らしく、理にかなっていると思います。誰だってそうです、一人の男の家に二人の女がいたら、不倫や浮気を疑ってしまう事でしょう。でも、残念ながらそれ、違いますから」
「違うって、どういう」
まだ見つかってない、まだ揺さぶれてない。
言葉を続けて、野芽がしたい事の最終地点を探さないと。
「私達は自らの意思で高野崎さんと同棲しています。それに残念ですね、既に楓原幼稚園には、私達が同居していることは知れ渡っていますから。知ってます? この高野崎さんが入院している一ヶ月、交代で菜穂ちゃんのお迎えに行っていた事を。あそこは家族以外は子供の受け渡しは禁止ですからね。つまり、野芽さんが祥子さんの事を告げ口した所で、返って来る言葉は【だから?】で終わりです。悔しいんですよね? 俊介さんの周りにはいつも女性の姿があって、大好きな江菜子さんも、俊介さんに取られちゃったんですから――――ッ!?」
え、うそ、いきなり胸倉掴まれて、呼吸が出来ない。
片手一本で私のことを持ち上げてる、凄い力……痛い、苦しい。
「お前が江菜子のことを語るんじゃない」
最後の言葉は適当に言っただけ、でも、どうやらビンゴだったみたいね。
野芽さんは、江菜子さんの事が好きだったんだ。
だけど、俊介さんに取られちゃって、一度は諦めた。
「やだ、喧嘩?」
「女の子持ち上げてない? 大丈夫?」
「おい、警察呼んだ方がイイんじゃないか?」
喫煙所にいた人たちが持ち上げられた私を見て、一斉に動き始める。
それに気付いたんだろう、野芽さんは力を緩めて、静かに私を地面へと下ろした。
「けほ、けほ」
「すまないな、だが、失言をしたのはお前だ」
喉が痛い、いきなり暴力とか、本当に最低な男だ。
咳き込みながらも数歩下がって、野芽を睨みつける。
「けほ、けほ……、失言ですって? けほ、それは、野芽さんの方なんじゃないんですか?」
「なんだまだ続けるのか? もういいだろう、呼ばれてはいないと思うが、万が一警察が来たら面倒になる。今のは水に流して、店に戻らないか?」
「お断りします、いまさら美味しいお酒が飲めそうにありませんから。それよりも、江菜子さんとの関係がちょっとだけ分かりましたよ。野芽さんと江菜子さんは過去に何かあった。もしかしたら恋人関係だったのかもしれない。でも、江菜子さんは俊介さんを選んでしまった。野芽さんの方が先に好きだったのに」
野芽さんの表情がどこまでも暗く、穢れていくのが分かる。
青筋は浮かんでいるし、睨む目は濁り切り、光りを失ったままだ。
「よくある話じゃないですか、BSSでしたっけ?
「いい加減黙れ」
私へと一歩近づいた野芽さんは、握りしめ震えていた拳を弓の様に引いた。
殴られる、でもそれは、この男の怒りの根っこ、逆鱗に触れたという証拠。
負けない、負けたくない、だから絶対に目を瞑ってやらないんだ。
こんな男の拳なんて、絶対に耐えてみせる!
「………………ッ!」
迫りくる拳と、とてつもない破裂音に、結局のところ私は目を瞑ってしまった。
だけど、不思議なことにどこも痛くない。音は聞こえてきていたのに。
恐る恐る瞼を開けると、そこには誰かの手があった。
野芽の拳を、片手で受け止める男の人の手だ。
「……なにしてんすか、先輩」
遠越さん? え、なんで遠越さんがいるの?
「女に手を出すなんて、人間のクズがする事っすよ。もし続けるんなら、例え野芽さんといえど容赦しないっすからね」
「と、遠越さん」
「大丈夫っすよ、古河さん。俺、こう見えても学生の頃ボクサーでしたから。素人には負けませんよ」
遠越さん、ボクシングやってたんだ……。
確かに、言われてみれば相当に鍛え上げてあるし、野芽の拳を片手で受け止めて、更に握り潰しそうなくらいに力が入っている。現に野芽は苦しそうな表情をしているし、段々と体を地面に抑え込まれてっちゃうし……え、もしかして遠越さんって凄い人だったの?
「ぐっ、ぐぅぅ」
「どうするっすか古河さん、このまま警察呼びますか? 未遂とはいえ、俺が止めなかったら間違いなくアンタは殴られてたんだ。立件するには十分だと思うっすよ」
どうするって、立件? 警察? 野芽さんが逮捕されたら、会社はどうなっちゃうの?
既に周囲の人達が110番してる可能性だってあるし、状況証拠は完璧に揃ってると思うけど。
「そこら辺にしておいてくれないかな、遠越君」
沢山の野次馬が集まってきた中、聞きなれた声が私の耳に届く。
車椅子に乗った彼は、いつもの様に優し気な笑みを浮かべながら、私の名を呼んだ。
「琴子さんも、どうか事を穏便にして欲しい」
「しゅ、俊介さん……どうして、ここに」
「理由は後でちゃんと伝えるから、一旦場所を変えよう。健二も、いいよな」
今もまだ、遠越さんに掴まれたままの野芽だったけど。
流石に分が悪いと判断したのか、遠越さんの手を払いのけ、一人静かに立ち上がる。
そこまで見届けたあと、急に全身を寒気が襲ってきた。
よろよろと車椅子の俊介さんに近寄ると、ぎゅって抱き締めてくれて。
「……怖かった、です」
「琴子さん、一人で無茶しすぎだから」
「だって、だって、私、俊介さんのことも、祥子さんのことも守りたかったから」
「うん、ありがとう……愛してるよ、琴子さん」
どうしてこの場所にいるのかとか、遠越さんがどうして来てくれたのかとか。
そういうのは、今はどうでも良くなっちゃった。
とりあえず、俊介さんに甘えてしまおう……話は、それからだ。
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